佐世保便り

2008年7月に佐世保に移住。
海あり山あり基地あり。そしてダム問題あり。
感動や素朴な疑問など誰かに伝えたくて…

特攻隊員 林市造 その3

2008-09-30 | 平和

注文していた本『日なり楯なり』(特攻隊員林市造遺稿集:加賀博子編)が届いた。

 

 加賀博子さんは、市造さんの実のお姉さんで、彼と同じクリスチャンである。

 

 だからというわけではない。

湯川先生の「ある遺書」を読めば読むほど、また、北海道大学石川明人氏の「クリスチャンの特攻隊員:林市造の手記を読む」を読むとなおさら、全文が読みたくなった。

加賀博子さんの編著では、日記も手紙も全文そのまま紹介されているようで、私は特に日記を読んでみたいと思っていたので、この本を取り寄せることにした。

 

思いのほか、日記は短かった。

1月9日から3月21日までおよそ2か月半。そのうち、日付が記されているのは21日分で、中には日付と天気だけなどというのもあり、実際に文章が書き込まれた日記は、正味19日分であった。

 

 初日、1月9日の書き出しは次のような文で始まっている。

 

 珍しくも新しき手帳貰えるに依り、日記をはじむ。

 

そして、最後の3月21日は、

 

のこされし時間は少なくとも私は私自身一個の精神となって死んで行きたい。

 

そして、改行し、

 

私は

 

で終わっている。

この後の空白の部分にどういう気持ちが込められていたのか、また単に時間がきて打ち切ったのか、今の私にはどうともわからない。

 

この最初と最後の文をみてもわかるように、日記の文章は「母への手紙」とはずいぶん違った硬い印象を与える。

 

「母への手紙」は、もちろん口語体で書かれているための柔らかさのせいもあるが、そればかりではない。

「母チャン」と呼びかけたり、「…ですね。」「…でしたよ。」などの文末が多用され、一見女性の手紙のような優しい雰囲気が感じられる。

また、

「お母さんはなんでも私のしたことはゆるして下さいますから安心です」「お母さんは偉い人ですね」「私もまだ母チャンに甘えたかったのです」

など、当時23歳の男性にしてはずいぶん子どもっぽいなあという印象を、私は持ってしまっていた。

もちろん、それだけ純粋な精神の持ち主だという感動も覚えたのだが。

 

ところが、日記のほうは、全く違った印象を与える。

文語体で書かれ、文章は簡潔で、内容は深く内省的である。

どちらも林市造さんの人間性を表すものだと思うが、今は特に日記の方を注目してみたい。

 

この日記が書き始められたのは、真冬の朝鮮、元山にてである。

天候のこと、体調のこと、(天候のせいか)飛行訓練ができないことや戦場に出れないことへの焦り、友人たちの近況などがとりとめもなく書き綴られていたのが、2月22日を境に一変している。

全体を読んでみて、それがはっきりわかった。

と同時に、それは彼の苦悩を身近に感じることでもあった。

 

2月22日

私達は大君のまけのまにまにと云う言葉の通りに行けばよい。

私達は死場所を与えられたるものである。

新しく編成せられたる分隊の下、私達は突っ込めばよい。

人間は忘却する術を有する動物である。

 

特攻隊に編入された日、この4行だけが記されていた。

 

翌23日の日記は長い。思いのたけを綴っている気がする。

その中で特に印象的な箇所を抜粋すると、

 

2月23日

私達の命日は遅くとも三月一杯中になるらしい。

死があんなに恐ろしかったのに、私達は既に与えられてしまった。

私は英雄でもなく、偉丈夫でもない。凡人である身には世のきづなと絶たれることが、耐えられなくなってくる。

中略

母が私をたよりにして、私一人を望みにして二十年の生活を戦ってきたことを考えると

中略

私は私の生命の惜しさが、思われてならない。

中略

母の悲しみのいやされることが、あるべき筈がない。

戦死であっても子を失ったということに変わりはないのであるから。

 

というふうに、死を宣告された者の苦しい心情を正直に吐露している。

が、一方で、同じ日付の中にこのような記述も見られる。

 

私にとっては、死は心残りのすることであっても、行くべき道であり、私の心は敵船めがけての突っ込みには、満身の闘志に燃やされるに違いない。

世の人にほめられる嬉しさもある。

中略

私は国の美しさを知っている。

中略

この国が汚い奴らにふみにじられるということは私にはたまらない。

私は一死を以て、やはりどうしても敵を打たねばやりきれない。

 

このように、愛国の思いが自らの命をも惜しまないとする心境も書かれている。

学校でも軍隊でもそのように教育されたであろうし、また社会全体がそのような風潮の中で、このような観念に囚われていたのは、ごく自然なことだっただろう。

 

ただ、クリスチャンとしての彼は、「大君」のために死ぬことには多少の疑問があったのではないか?この日の日記の最後のほうに、このように書いている。

 

大君の辺に死ぬ願いは正直の所まだ私の心からのものとはいいがたい。

だが大君の辺に死ぬことは私に定められたことである。

 

 この日記を、彼は「焼き捨ててください」と母への手紙の中で頼んでいる。

 

お母さんが見られてもいやですね。お母さんだけなら仕方ないですが、こればかりは他人には絶対に見せないで下さい。必ずやきすてて人に見せないで下さい。

 

と念を押しているのに、母まつえさんの死後、姉の博子さんは公表した。

それは、市造さんの「私が世の中に石を投じたい願望」という言葉に突き動かされたようである。

「この日記こそ市造さんの天路歴程であるように思われてなりません」と。

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エンプラ闘争

2008-09-27 | 佐世保・長崎

やはり埼玉に行った時のこと、『憲法を読む会inにいざ』の仲間にも会うことができたのだが、そこで仲間の一人が私に言った。

「佐世保は僕にとって決して忘れられない場所なんですよ」

 

彼は、1968年(昭和43年)1月17日、原子力空母エンタープライズの佐世保寄港に反対する大集会に参加し、そこで機動隊の攻撃を受け、重傷を負ったのだそうだ。

 

即座に年月日や、事件現場となった平瀬橋という名前、その日の負傷者数まで口をついて出たのは、その記憶がいかに鮮烈で深いものであったかということだろう。

佐世保市民病院に入院したこと、重傷者3名の内の一人であったことなどを語ったあと、彼は付け加えた。

「もう少し長くやられていたら命も危なかった。あのとき、佐世保市民の人がもういいかげんにしろと警官隊を止めてくれたから助かったんだ」と。

 

私はとても意外な気がした。

私の知っている佐世保市民のイメージは、どちらかというと親米的で、安保も基地も容認しているように思っていた。

エンタープライズ阻止闘争、略してエンプラ闘争も、佐世保市民というよりは他地域からの運動家(学生やべ平連や労組員など)が集まってやったと聞いていたし。。。

 

佐世保に戻って数日後、図書館で調べてみた。

長崎新聞、西日本新聞、朝日グラフ、週刊朝日等々、その時の記事がきちんと保管されていた。

「流血のサセボ」「平瀬橋で大乱闘」「うなる警棒、角材」「血まみれ、うずくまる学生」「警官、もうやめろ」「市民からバ声飛ぶ」などなどの見出しがあふれている。

頭を抱えてうずくまる学生を、警棒を持った5,6人の警官が取り囲んでいる写真もあった。

 

 

18日のデモや集会の写真にも圧倒された。

そして、「どなたでも、どんな怪我でもおいで下さい」と書かれた『佐世保青年会議所救護班』の垂れ幕の写真が、なぜか嬉しかった。

 

 

 

帰宅してネットで調べると、さらに興味深い記事にであった。

ジャーナリストの岩垂弘氏「わが体験的マスコミ論」(「もの書きを目指す人々へ」という講座のために書かれたもの)に、エンプラ闘争が取り上げられていた。

彼は取材中、警棒の乱打を浴びる。新聞社の腕章をしていたにもかかわらず、被っていたヘルメットもどこかへ飛ばされ、「殺されるかもしれない」との思いがよぎるほど滅多打ちにされたという。しかも、逃げ込んだ市民病院の壁に押し付けられて。

なんとか逃げ出せた彼は、急ぎ原稿を書き、その後長崎労災病院に入院している。

 

結局、警察からは謝罪も補償もなく、彼の怪我は「労災」ということで処理されたそうだ。

彼の机の中には、その時の血染めの腕章が入っている。

<いまでは、その部分が色あせて、かすかな赤に変色している。が、私の記憶の中では「佐世保」はまだ色褪せていない。2006年2月>とあった。

 

また、岩垂さんは佐世保市の変化についても書いていた。

それまで基地経済に依存するところが大きかった佐世保では、市民による反戦活動はほとんど見られなかったが、翌月の19日、市民140人による静かなデモが開催された。

佐世保ペンクラブ会長らが呼びかけ人となり、「エンタープライズが佐世保を汚した日、一緒に歩きましょう」と書かれた垂れ幕を掲げて歩いたそうだ。

<その後、長期間にわたって、毎月19日、「19日佐世保市民の会」による行進が続けられた>と書かれていた。

 

過去形なので、もうこの会は解散したのだろうか?

 

筒井隆義氏の記事の中にも「19日佐世保市民の会」について、<サンプラザから四ヶ町通りを静かに行進する姿がつい近年まで見られた>と書かれていたので、やはりもう消滅したのだろう。

 

と思っていたら、それは、マチガイだった!

 

なんと、今年の1月20日付の長崎新聞にも、この会について書かれていた。

(インターネットさまさまである!)

 

 毎月19日夕方、佐世保市中心部の公園前に市民が一人また一人集まり、6時になると合図もなくアーケードを歩きだす。「平和のために」と書いた横断幕を先頭に20分ほど無言で行進する▲米原子力空母エンタープライズが日本で初めて佐世保に寄港した翌月の1968年2月に始まった19日佐世保市民の会のデモは、誰でも参加しやすいようマイクもシュプレヒコールもない▲反対する学生らと警官隊が市内で衝突、多くのけが人や逮捕者を出したエンプラ事件。歴史の転換に芽生えた市民意識を表するため発足したのが市民の会で、呼び掛けた佐世保ペンクラブ会長、矢動丸廣さん(99年死去)の思いが「市民運動の出発」(社会新報刊)に遺(のこ)る▲「権力に対して意思表示をなし得ない人、デモ参加に恥じらいを感じている人、一人では行動することを躊躇(ちゅうちょ)している人-を集め、強い連帯に高めることが狙いであった。『平和を考える義務教育の場』というのが統一された見解だった」▲以来40年。20年前には「ただ歩くだけで何の意味があるのか」の声が出て解散の危機に瀕(ひん)したが、埋み火にしておけば何かの時に燃え上がるからと存続したという▲歩く時だけ会員になる運動には子どもから年配まで幅広い層が顔をみせる。時々外国人が注目する以外、大方は気に留めるふうもなく擦れ違う。参加者は30人ほど。480回目のきのうも変わらず、来月の再会を約束し散会した。(謙)

 

とても嬉しい。

こんな会の存在を知って、また少し佐世保が好きになった。

来月は、私も歩いてみたい。

 

知るきっかけを作ってくれた、新座の仲間に感謝!! 

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医療と国家と基地

2008-09-26 | 平和

先週埼玉へ行った際に、東京で友人たちと三か月ぶりに再会した。

その内の一人が、一冊の本を貸してくれた。

 

『あふれる愛に』 土志田和枝著

 

31年前、横浜の住宅街に米軍のファントム機が墜落。幼子二人の命を奪われ、自らも全身火傷の重傷、何度も皮膚の移植手術を重ね、4年4ヶ月後に亡くなった、あの土志田和枝さんの手記である。

 

和枝さんがどんなに苦しい治療に耐えてきたか、また、我が子の死を知った時の悲しみと絶望、そして、そんな和枝さんを支え続けた家族もまた、苦悩し続けた4年4か月だったことを初めて知った。

 

それにしても、それにしても、それにしても 解せない!

 

米軍機の犠牲になった日本国民を、何故、日本政府は救おうとしなかったのか?

最高の医療機関と最高のスタッフを提供し、全力で治療に当たるのが当然だろう。

国が結んだ日米安保、その約束事のもとに置かれた米軍基地、その訓練中の事故による犠牲ではないか。

米軍はもとより、その米軍に誠意が見られなければ、日本政府が責任を持って対処すべきだろう。

なぜ設備の整った、火傷の専門医のいる病院に入院させられなかったのか?

家族がどんなに懇願しても受け入れなかった。

見舞いに来た防衛施設庁の役人に和枝さんのお父さんは転院希望を告げ、その返事を待ち続ける。が、返事はない。

待ち切れず電話を入れると、帰ってきた返事は、

こちらにはこちらの仕事があります。そちらのことばかりやっているわけにはいきませんよ。一応、本庁には報告しておきました」だった。

 

しかし、その病院で70回にも及ぶ皮膚の移植手術を受け、入退院を繰り返し、一時は快方に向かっていた和枝さんを、今度は病院側が転院を求める。

 

なんと精神科の病院に転院させられ、40日後にその病院で亡くなったのだ。

 

父親はこう書いている。

  なぜ、和枝があれほど苦しいと訴えたにもかかわらず、

  カニューレ(気管に空気を送る管)を入れてほしいという願いを

  無視し、「放置」したのか。

  肺炎後遺症が認められたのに、

  なぜ性急にカニューレを抜かなければならなかったのか。

  なぜ、皮膚科も内科も耳鼻咽喉科もない精神病院に、

  なかば強引に転院させたのか。

  なぜ、被害者であるたった一人の患者を、国の力で国立総合病院に

  入院させることができないのか。

 

  日に日に明るくなり、目に見えて回復していただけに、

  娘和枝の突然の死は親の心情として悔やみきれない、

  誠に残念でなりません。

 

和枝さんとその子どもたちは、アメリカという他国の軍隊によって傷つけられ、

日本という自国の政府によって放置され、

結果、亡くなってしまった。

・・・そう思えてならない。

 

あれから、30年。

この国、少しはましになっているだろうか?

 

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患者の権利憲章

2008-09-23 | 雑感

19日、義弟の胃癌手術に立ち会うため、夫と共に埼玉に向かった。

 

幸い早期発見だったので、「ファーストステージ」「今のところ転移も見られません」「2,3週間で退院できるでしょう」等々、嬉しい医師の言葉を聞くことができた。

切り取った胃袋も実にきれいで、「この小さいのがそうです」と見せられても、どこに癌があるのやら、素人の目には見えないほどの初期だった。

 

最近はどこの病院でも、インフォームドコンセントや術後の説明が充実してきているように思うが、ここは特にそれを感じた。

 

事前に何度も電話で話をした担当看護師からは今後のケアについて十分な説明があり、遠くに住んでいる親族にとっては、たいへん心強い対応だった。

事務関係のスタッフやナースセンターの看護師さんたちにも、とても温かい応対を受けた。

 

翌日義弟を見舞って帰る時に、初めて外来待合室の壁に掲げられた大きな額に気付いた。そこに書かれていたのは患者の「権利憲章だった。

 

患者は、個人としてその人格を尊重され、適切な医療を公平に受ける権利がある書かれ、具体的な項目がいくつも並んでいた。

 

治療法や検査について、充分な説明を受ける権利や、

セカンド・オピニオンを持つ権利

自らの意思で治療法を選択できる権利

医療機関を選択し、転退院をする権利

診療記録の開示を求める権利、

プライバシーについて保護される権利、

十分理解するまで質問する権利などなど。

 

この病院を訪れる人々は、どんなに安心して医師の前に座ることができるだろう!

と少し感動してしまった。

 

政治の貧困が、福祉や教育や、そして医療をもなおざりにしている。

産婦人科の減少、小児科医の減少、看護師不足など不安だらけの状況の中で、

患者の側にたって頑張っている現場を目にすることができて、とても嬉しかった。

 

義弟もきっと早々に回復し、元気になってくれるだろう。

 

 

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段々畑

2008-09-18 | 佐世保・長崎

 

長崎県松浦市の福島町土屋というところに、とても美しい棚田がある。

西日本一美しいといわれるサンセットとの調和があまりにみごとで、多くの人々が訪れるようになり、数年前から「土屋棚田の火祭り」が行われるようになった、と新聞で知った。

早速でかけることに。

 

佐世保市から東へ、国見トンネルの中ほどで、「佐賀県に入りました」とナビの声。

トンネルを出ると、そこは西有田町で、北上して伊万里市へ。

さらに北上し、今度は西へ曲がって福島大橋を渡る。

と、また中ほどで、「長崎県に入りました」とナビの声。

ややこしいが、船を使わずに行くにはこんなふうに遠回りするしかないようだ。

 

元は島だった田舎の畑に、びっくりするほどたくさんの人が集まっていた。

私も間違いなくその一人だが。。

シャトルバスが何台も用意され、福岡からの観光バスも来ていた。

 

その素晴らしい光景が口コミで伝わったのか、はたまたネットのおかげか…?

煮干しいりこ屋さんのHPには素晴らしい写真が掲載されている。

http://www.niboshiya.jp/hpgen/HPB/entries/10.html

 

 しかし、この日14日は雨が降ったり止んだりのあいにくの天気。

例年はズラリと波のように並んでいるという灯がどんどん消えていく。

暗くなって、やっと灯りの美しさが際立つ頃には、ほとんど消えてしまった。

 

 

見物客はブツブツ文句をいいながら、早々に引き揚げてしまった。

 

それでも、若いアベックに頼まれて、寂しそうな棚田をバックに、シャッターを押した。

段々畑もちょっとだけ嬉しそうに見えた。

 

 

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フリースペースふきのとう

2008-09-16 | 佐世保・長崎

20年前のクリスマスイブの日、ここ佐世保の片隅に「ふきのとう」が生まれた。

寒くて暗い日だったと、代表の山北さんは回顧する。

山北さんは、当時不登校児の親として不安で胸が押しつぶされそうな毎日を送っていて、少しでも理解しあえる仲間が欲しいと願って、グループを立ち上げた。

その「ふきのとう」は、勉強会や講演会、相談会など幅広く活動し、どんどん成長した。

5年後には、「いじめ登校拒否110番」を設置し、

16年後には「フリースペースふきのとう」を開所し、

18年後にはNPO法人として登録、

そして、20年後の今年、様々な記念行事を企画している。

 

昨日は「いじめ・不登校から学ぶ」というテーマで、佐世保市最大のイベントホール「アルカス佐世保」を一日貸し切っての大イベントだった。

 

午前中は全体会で、メインは尾木直樹さんの講演会だったが、総合司会も実行委員長あいさつも、フリースペースに通う子どもたちが堂々と行い、「ふきのとう」の活動の素晴らしさが窺い知れた。

 

中でも、わかりやすく翻訳された「子どもの権利条約前文」の朗読は、とても感動的だった。

紹介したい。

 

  地球上には 差別に苦しみ 悔し涙を流している子どもがいます

  「あきらめろ」と おとなに言われた子どもがいます

  立ち上がろうとし 打ちのめされ絶望した子どもたち

  戦争で傷ついた 子どもたち

  学校に押しつぶされそうな 子どもたち

  ただ 何となく生きている 子どもたち

  寒くて震えている 子どもたち

  生まれてから一度もお腹がいっぱいになったことがない

  親の顔を知らない 売り飛ばされて こき使われて

  そんな子どもたちがいます

  子どもは「人間」です

  この「やくそく」は そのことを認めるところから始まります

  「人間」だから 差別を受けない

  「人間」だから 権利を持っている 

 

 

基調講演を行った尾木直樹さんは、教育評論家としてTVなどでもおなじみの方だが、こんなにユーモアたっぷりのお話をなさる方だとは知らなかった。

約1時間半の間、笑いに包まれリラックスした中で、私たちは日本の異常な事態をしっかり教えられた。

 

近年(正確な年号は聞き逃した)、ユニセフが行った調査結果の棒グラフが示された。

席が遠くて、国の数も正確にはわからないが、10以上は並んでいた。

中ほどの1国だけが、抜きんでいて、他はドングリの背比べといった感じ。

 

その調査は、「あなたはよく孤独を感じますか?」という問い。

思春期の子どもたちを対象にしているのだから、Yesと答える子ももちろんどの国にもいる。

 

が、ほとんどの国が、5~10%の間であるのに対し、日本だけが29.8%、2位の国の約3倍の数値である。

最下位のオランダは2.9%だから、オランダの10倍の子が孤独感を抱えていることになる。

 

もっと衝撃的だったのは、国内調査。

2006年、厚労省が静岡県で行った調査では、中学生の4人に1人が鬱的傾向にあり、中2の女子に限れば3人に1人の割合だったとか!

 

しかし、これはある公立中学校1校だけで行ったペーパーによる質問形式の調査だったので、より確かなものを…と、昨年北海道大学が行った調査がある。

小学校8校、中学校2校を対象とし、専門医師が出向いての詳しい調査である。

その結果、

小学4年=1.6%、小5=2.1%、小6=4.2% と学年が上がるごとに数字は増え、なんと中1=10.7%

これは有病率の数値である。

「うつ的傾向」ではなく、「うつ病」と医師が下した数値なのだ!

中学生の10人に1人は鬱病?

俄かには信じ難く、尾木先生の言葉と言えども信じ難く、帰宅してネットで調べたが、その調査はしっかり報じられていた。

そのころ私がニュースを見落としていたか、見聞きしても忘れてしまうほど私の意識が低かったのだろう。

 

また、日本が「こども権利条約」を批准したのは1994年だが、1998年には国連から2回目の勧告を受けているとのこと。

そういえば、「憲法を読む会inにいざ」で学んだことがあったっけ・・・。

帰宅後確認してみると、「児童の権利に関する委員会」より49項目にわたるという厳しい内容の通達が、日本政府に勧告されていた。

例えば、

19委員会は、家庭内における、性的虐待を含む、児童の虐待及び不当な扱いの増加を懸念する。委員会は、児童の虐待及び不当な扱いに関する全ての事案が適切に調査され、加害者に制裁が加えられ、とられた決定について周知されることを確保するための措置が不十分であることを懸念をもって留意する。委員会は、また、虐待された児童の早期の発見、保護及びリハビリテーションを確保するための措置が不十分であることを懸念する。

21.先進的な保健制度及び非常に低い乳児死亡率を考慮に入れつつも、委員会は、児童の間の自殺数が多いこと、この現象を防止するためにとられた措置が不十分なこと、及び、学校外を含めリプロダクティヴ・ヘルス教育やカウンセリング・サービスへの十代の児童によるアクセスが不十分なこと、青少年の間でHIV/AIDSが発生していることを懸念する。

24.委員会は、学校における暴力の頻度及び程度、特に体罰が幅広く行われていること及び生徒の間のいじめの事例が多数存在することを懸念する。体罰を禁止する法律及びいじめの被害者のためのホットラインなどの措置が存在するものの、委員会は、現行の措置が学校での暴力を防止するためには不十分であることを懸念をもって留意する。

等々・・・。恥ずかしいのは通り越して、情けなく、子どもたちに申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

 

確かに、この国は子どもの自殺が多い。異常に多い。

2006年に自殺した未成年者の数は886人だったそうだ。

その内いじめで自殺した中学生の数は81人、小学生でさえ14人もいたと記憶している。これは以前たまたまネット上で見た数字を記録したものだが、あの頃は、特にいじめによる自殺が連鎖反応のように蔓延していたので、今はもう青少年の自殺件数は減少しているものと思い込んでいた。

 

しかし、今年は硫化水素による自殺が激増し、1~5月までですでに517人が亡くなっているとのことで、そのうちの60%は若者だそうだ。

 

なぜ、このような悲しい日本になったのだろう。

尾木さんは、教育行政の貧困や教育現場の質の低下を指摘しながら、一方でこれらの子どもたちを救うのは、身近な大人が子どもたちにどう接するかの大切さを説かれた。

一番大切なのは、あるがままを受け入れること

子どもたちのあるがままの姿を受け入れたら、その子の中に自己肯定感が生まれる。自己肯定感を育てたら、自然とエンパワーメントが備わってくる。

それは大人にも言える…と。

 

帰りに尾木さんの著書を買った。サインをしてもらった。

"ありのままに"、"今を輝く"と書かれていた。

 

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特攻隊員 林市造  その2

2008-09-13 | 平和

このテーマに関してお二人の方からコメントをいただいた。

林市造さんに関心を持っていただいて、嬉しかった。と同時に、彼の遺稿そのものを、私だけでなく皆さんにも読んでいただきたくなった。

 「きけ わだつみのこえ」はじめ多くに紹介されている彼の"母への最後の手紙"は、元山航空基地より鹿屋へ飛び立つ前日に書かれたもので、鹿屋からも3通ほど書いており、ということはこれが本当の"最後の手紙"ではないのだが、末尾に「出撃前日」とあるので、何となく遺書のように扱われている。

また、この手紙は、検閲を避けて梅野という友人に日記などとともに託しているので、後に書かれた3通よりも、本音が綴られているであろうし、また、市蔵さんは本当にこの手紙が最後と思って書いたようであるので、内容としてはこれを"最後の手紙"と扱ってもよいと思う。    

 

お母さん、とうとう悲しい便りをださねばならないときがきました。  

  親思ふ心にまさる親心 今日のおとずれ何ときくらむ 

この歌がしみじみと思はれます。 

ほんとに私は幸福だったです。我ままばかりとほしましたね。 

けれどもあれも私の甘へ心だと思って許して下さいね。 

晴れて特攻隊員と選ばれて出陣するのは嬉しいですが、お母さんのことを思ふと泣けてきます。 

 母チャンが私をたのみと必死でそだててくれたことを思ふと、何も喜ばせることが出来ずに、安心させることもできず死んでゆくのがつらい のです。

 私は至らぬものですが、私を母チャンに諦めてくれ、といふことは、立派に死んだと喜んで下さいといふことはとてもできません。けど余りこんなことは云ひますまい。母チャンは私の気持をよくしって居られるのですから。  

 婚約その他の話、二回目にお手紙いただいたときはもうわかって居たのですがどうしてもことわることができませんでした。又私もまだ母チャンに甘へたかったのです。この頃の手紙ほどうれしかったものはなかったです。一度会ってしみじみと話したかったのですが。やはりだかれてねたかったのですが、門司が最後となりました。この手紙は出撃を明後日にひかへてかいています。ひょっとすると博多の上をとおるかもしれないのでたのしみにしています。かげながらお別れしようと思って。  

 千代子姉さんにもお会ひ出来ず、お礼いいたかったのですが残念です。 私が高校をうけるときの私の家のものの気づかいが宮崎町の家と共に思ひ出されて来ます。 

 母チャン、母チャンが私にこうせよと云はれた事に反対して、とうとうここまで来てしまいました。私として希望どおりで嬉しいと思ひたいのですが、母ちゃんのいわれる様にした方がよかったかなあとも思います。 

 でも私は技量抜群として選ばれるのですからよろこんで下さい。私達ぐらいの飛行時間で第一線に出るなんてほんとは出来ないのです。 

 選ばれた者の中でも特に同じ学生を一人ひっぱってゆくようにされて光栄なのです。私が死んでも満喜雄さんが居ますしお母さんにとっては私の方が大事かも知れませんが一般的に見たら満喜雄さんも事をなし得る点に於い絶対にひけをとらない人です。 

 千代子姉さん博子姉さんもおられます。たのもしい孫も居るではありませんか。私もいつも傍に居ますから、楽しく送って下さい。お母さんが楽しまれることは私がたのしむことです。お母さんが悲しまれると私も悲しくなります。みんなと一緒にたのしくくらして下さい。 

 お母さん、私は男です。日本に生まれて男はみんな國を負うて死んでゆく男です。有難いことに、お母さん、お母さんは私を立派な男に生んで育てて下さいました。情熱を人一倍にさずけて下さいました。お母さんのつくって下さいました私は、この秋には敵の中に飛びこんでゆくより外に手をしらないのです。 

 立派に敵の空母をしずめてみせます。人に威張って下さい。 大分気を張ってかきましたが、私がうけた学問も私が正しい時にかく感ずるのだと教えています。

 ともすればずるい考へに、お母さんの傍にかへりたいといふ考えにさそわれるのですけど、これはいけない事なのです。洗礼をうけた時、私は「死ね」といわれましたね。アメリカの弾にあたって死ぬより前に汝を救うものの御手によりて殺すのだといわれましたが、これを私は思い出して居ります。すべてが神様の御手にあるのです。神様の下にある私達には、この世の生死は問題になりませんね。 

 エス様もみこころのままになしたまへとお祈りになったのですね。私はこの頃毎日聖書をよんでいます。よんでいると、お母さんの近くに居る気持がするからです。私は聖書と賛美歌と飛行機につんでつっこみます。 

 それから校長先生からいただいたミッションの徽章と、お母さんからいただいたお守りです。 

 結婚の話、なんだかあんな人々をからかったみたいですがこんな事情ですからよろしくお断りして下さい。意思もあったのですから。ほんとに時間があったら結婚してお母さんを喜ばしてあげようと思ったです。 

 許して下さいと、これはお母さんにもいわねばなりませんが、お母さんはなんでも私のしたことはゆるして下さいますから安心です。 

 お母さんは偉い人ですね。私はいつもどうしてもお母さんに及ばないのを感じていました。お母さんは苦しいことも身にひきうけてなされます。私のとてもまねのできない所です。お母さんの欠点は子供をあまりかわいがりすぎられる所ですが、これはいけないと云うのは無理ですね。 私はこれがすきなのですから。 

 お母さんだけは、又私の兄弟達はそして友達は私を知ってくれるので私は安心して征けます。 

 私はお母さんに祈ってつっこみます。お母さんの祈りはいつも神様はみそなわして下さいますから。 

 この手紙、梅野にことづけて渡してもらうのですが、絶対に他人にみせないで下さいね。やっぱり恥ですからね。もうすぐ死ぬということが何だか人ごとの様に感じられます。いつでも又お母さんにあへる気がするのです。あへないなんて考えるとほんとに悲しいですから。 

 私のもちもの、日記類なんか、ほんとに汚いものですからやきすてて下さい。お願いします。お母さんがみられてもいやですね。お母さんだけなら仕方がないですが、こればかりは他人には絶対にみせないで下さい。私の浅ぱくさがばれるのですから。やはり見栄坊の私は人にあらをみせるのがいやなのです。必ずやきすてて人にみせないで下さい。その他の本とか何とかお母さんの気のままに処分して下さい。 

 私は軍隊に入って変に自信をもちました。私達は少くとも綺麗な心をもつように育てられたということです。心の点では、たいがいのものにまけないという自信です。私の周囲がよかったのですね。家、そして友達、高校の友達なんかことに有難いです。 

 出撃が明朝に極りあわただしくなり落着かないのですが、せめて最後の言葉を甘へたいと思って居ます。 

 内のこと思い出すと有難くて涙が出るばかりですからもうこのことについてはかきますまい。私がその中に居たことが嬉しいのです。 

 千代子姉さんは光兄さんのこと御心配でしょうが、大丈夫ですよ。私は妙な確信をもって居ます。 

 潤子チャン陽子チャン達が私にかわってお母さんを喜ばしてくれることをお願いします。 

 今桜がさかりですね。校庭にもつくしが生えていましょう。春休みがなつかしいですね。萩尾先生や校長先生や妹尾先生 立石の小母さん、松田、井口の小母さん達によろしく。汽車の中は人が一杯でうごきもきれずたのしかったですね。結婚の話、みんなでみて品定してその結論をさしあげたのですがあれも私の最後をかざる思い出です。 

 梅野にきてもらってチャートにコースを入れて居ます。博多上空をとほります。桜の西公園を遠目に遥か上空よりお別れをします。 

 お母さん、でも私の様なものが特攻隊員となれたことを喜んで下さいね。死んでも立派な戦死だし、キリスト教によれる私達ですからね。 

 でも、お母さん、やはり悲しいですね。悲しいときは泣いて下さい。 私もかなしいから一緒に泣きませう。そして思う存分ないたら喜びませう。 

 私は賛美歌をうたひながら敵艦につっこみます。 

 まだかきたいこともありますがもうやめませう。 

 お母さんは私を何もかにも知って居られるのですから私の気持は、お母さんがお思いになるとおりに考えて居ました。軍隊という所へ入っても私は絶対にもとの心を失いませんでしたから、甘える心だけは強くなりましたが。 

 お母さん、くれぐれも身体を丈夫に長生して下さい。お願ひします。 

 千代子姉さん、博子姉さん、満喜雄さんと、潤子チャン陽子チャン宏明チャンの生長をたのしんでらくにくらして下さい。 

 変な手紙になりましたが書きなほすのもめんどうだからこのまま出します。 

 お母さん。くれぐれも身体に注意して下さい。お願ひ致します。  

   出 撃 前 日                        さよなら   

                                           市造                                          

母上様 

姉上様

 

 

まるで子供のように母を慕う気持が溢れている。

「晴れて特攻隊員と選ばれて出陣するのは嬉しい」とか、「私は男です」「人に威張って下さい」などと言いつつ、「でも、お母さん、やはり悲しいですね」とも書いている。

そして、「讃美歌を歌ひながら敵艦につっこみます」と。

天皇陛下万歳ではない。

信仰心がかろうじて精神の根幹のところを保たせていたのか。

それにしても、本当にまっすぐな、純な心の持ち主である。

 

この手紙を書いたのと同じ夜、高校以来の友人Dの部屋を訪れている。たまたまDが留守だったので、手帳に次のように書き記している。  

 

黒ちゃんのおらすならよかばってん 

良き友よ、たのしかりし 

校庭の桜も今やさかりならん 

美しかり 我友どち 

飛行機に乗って讃美歌が、そして寮歌が口に出てくる日、 

雲の果て遠く故国なつかし 

別れの宴たのしくも今出でたつよ丈夫男子が 

七生滅敵、願はくは我が行く後も忘れずてなん 

酒がまはっとるけん何かくかわからん 

友達には何かいてもよからん わかってくれるじやらう 

大分今まで悪口ばいひよったばってん許してくりい 

黒ちゃんのおらすならよかっばって 淋しかたい

 

 

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特攻隊員 林市造

2008-09-11 | 平和
旅行から戻った夜、私は本棚の奥から一冊の本を探し出した。

『ある遺書』という題名の小さな本(A5版よりやや小ぶりで厚さ1cmほど)。湯川達典著、「九州記録と芸術の会」発行。著者は、私にとって今は亡き高校時代の恩師湯川先生である。

特攻隊員林市蔵さんの生前の手紙や日記、そして、市蔵さんのお姉さんから筆者湯川先生に宛てた手紙などがまとめられている。
市蔵さんは湯川先生の2年後輩にあたり、高校、大学と同じ学校に通っていた人で、また同じクリスチャンでもあった。

20年前にこの本を頂いたとき、私にはその価値がほとんどわかっていなかった。
憲法のことを学びだした数年前にも一度読んでいるのだが、その時もまだわかっていなかった。
その証拠に、私は旅行前、この本の存在を忘れていた。
知覧特攻平和会館の遺影の前に立ってしばらくして思い出したのだ。

この中にあの特攻兵がいるはず!と思えど、名前が思い出せない。
「市」と「林」の字がつくことだけはうっすら記憶していたので、その字が入っている名前と福岡県という出身県を条件に、2回ほど見て回ったが、見つからなかった。

1036名の遺影が展示されているというが、ところどころに空白の箇所があり、
全部ではなさそうだ。この空白の意味は何か?
写真がないのは考えられない。隊ごとに撮ったり、出撃前に撮ったり、公の彼らの写真はたくさんあるのだから。
もしかしたら、この資料館のあり方に賛同できない遺族の意思で公開を拒否されたのか、ならば有り得るかも…などとかってに想像をめぐらせ、とにかく帰宅したら、まず本を探そうと思っていた。

本を見て、疑問はすぐに解決。
市蔵さんは海軍の特攻隊員だったので、知覧にないのは当然だった。
知覧にあるのは陸軍の特攻隊員のもので、海軍特攻兵の写真や手紙は、鹿児島湾の向こう側、鹿屋の資料館に保管されているらしい。
その区別さえも考えずに見ていた私の無知が恥ずかしい。

本の冒頭部分には、このように書かれていた。

<…略…。ぼくは昭和18年9月に繰り上げ卒業で大学から押し出されて帰郷したが、2年下だった林はその年の12月に学徒動員で佐世保海兵団に入団した。そして20年4月、特別攻撃隊員として沖縄で戦死した。>

そして、お姉さんから湯川先生に宛てた手紙(昭和52年から平成元年にかけて、はじめは著者からの質問に答える形で、そのうちに弟のことをもっと知ってもらいたいと、自ら記憶を呼び起こして何通も書き送られている)の中には次のように書かれている。

<「今度の戦争は海戦なので、海軍に行くとどういうことになるか判らないので、志願さえしなければ陸軍になるので志願しないでほしい」と母と私がとめたところ、弟は「陸軍の横暴が気に食わない、もし陸軍のようなところへ行ったらゴボー剣で自殺するようなことになるやもしれぬ」と言ったので、それでは仕方ないと私どもは諦めました。>

<弟は小さい時から軍人になるとは一度も言いませんでした。ボクは軍人大好きよというような歌は歌わなかった>

<あれは何時でしたかはっきり日時を覚えませんが、少年航空兵が特攻隊に行ってしまうので「死んではいけないと僕たちが止めに行くんだ」「命を的にするなんてそんな無茶なことをしても戦争に勝つ訳がない」とも言いました。>

<あの場合特攻作戦に例え反対でもそれに殉ずるより外にどうしようもなかったのでしょう。>


これらの文章は第一便と二便の手紙に書かれていたもので、それは、ある一つの言葉に対する筆者の疑問に答えるためのものであった。

「母チャン、母チャンが私にかうせよと云われた事に反対してここまで来てしまひました。私としては希望どほりで嬉しいと思ひたいのですが、母チャンのいはれる様にした方がよかったなあと思ひます。」

これは「わだつみ」に掲載された市蔵さんからお母さんに宛てた手紙だが、
その最後の部分「よかったなあ」のところが、『雁来紅』(福岡高校同窓会によって編集された遺稿集)には「よかったかなあ」と「か」が入っているのである。

この1文字が入るかどうかの違いは国語教師で詩人の湯川先生にとっては大きな問題だったのだろう。お姉さんにその疑問をぶつけられたようである。

お姉さんは、「よかったなあ」などと云うわけはないと断言され、その理由として入隊前の経緯と、彼が『死に至る病』を繰り返し読んでいたこと、賛美歌337番「わが生けるは主にこそよれ、死ぬるもわが益、また幸なり」を愛唱していたことなどが綴られていた。

そして、自分も原文を読んでいるのに、「わだつみ」と「雁来紅」の違いには気がつかなかった。<肉親でも見落とすところをよくお気づきになられましたのね。お友達の皆様のご厚情、本当に感謝申し上げます>と謝意が述べられていた。

また、お母さんに関しては、
<あの日、柳こうりが届けられて日記を読んだ母が大学ノートを投げつけて"母チャンが云わんことじゃない"と泣き崩れた>ことや<「大西中将には死んで頂く」と終戦の日に母が叫びました。日頃は気の長いおだやかな母が決然といったのに驚きました>と書かれていた。

しかし、ネットで検索すると、なぜか自由主義史観研究会HPの授業づくり最前線というところに市蔵さんの遺書が取り上げられている。
http://www.jiyuu-shikan.org/jugyo16.html


また、「靖国」関連のページ「君にめぐりあいたい」には、市蔵さんのお母さんに関することが紹介されていた。http://tokyo.cool.ne.jp/usaki/yasukuni/6.html

<「泰平の世なら市造は、嫁や子供があって、おだやかな家庭の主人になっていたでしょう。けれども、国をあげて戦っていたときに生れ合わせたのが運命です。
日本に生れた以上、その母国が、危うくなった時、腕をこまねいて、見ていることは、できません。そのときは、やはり出られる者が出て防がねばなりません。」
これは、京都帝国大学出身 林市造海軍大尉のお母様が戦後に書かれた手記です。>


この手記が本物なのか・・・お姉さんの手紙を見ると、信じがたい内容である。

いずれにしても今一度、湯川先生の本をじっくり読みなおしてみたいと思う。
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いにしえロマン

2008-09-07 | 
旅行最終日。

昨夜の「砂蒸し風呂」の効果か、気分爽快な目覚め!
太平洋に上る朝陽もバッチリ拝んで、今日はいいことありそう・・・




さて、今日はどこに行こうか?
長崎鼻は昔行ったし、鹿児島は今や篤姫ブーム一色で面白くないし…

せっかく指宿まで来たのだから、この近くをもう少しじっくりみたいな
ということで、熟慮の結果、
宿の近くにある「魚見岳」と「時遊館coccoはしむれ」、そして「池田湖」に決定!


まず最初に目指した「時遊館coccoはしむれ」は、小さな博物館。
国指定の「橋牟礼川遺跡」に隣接する体験型の博物館で、「古代のロマンが身近に!」とガイドブックはうたっていた。

しかーし、着いてみると、館内に客は見当たらず、受付の若い女性二人が妙に愛想いい。
ははーん、これも悪名高い箱物行政の産物か…、赤字を増やすだけの無用の博物館なのか…と、早くも落胆気分。
しかし、もう入館料は払ったので見なきゃあ損、と足を踏み入れた。

視聴覚室ではちょうどCGを駆使したビデオ上映が始まると聞いて行ってみた。
100人ほど座れそうな硬い長椅子が並んでいたが、視聴者は我々二人だけ。。
もったいないなぁと思いつつ見ているうちに・・・引き込まれてしまった!

「橋牟礼川遺跡」(私は聞いたこともなかったけれど)とは、専門家にとっては大変有名な、貴重な遺跡だったのだ!

というのは、かつて(大正時代頃)は、種類の違う二つの土器、縄文土器と弥生土器は、同じ時代に違う民族が作った土器という説が有力だったらしい。

しかし、大正7年、ここ橋牟礼川流域で近所の中学生が同じ場所で縄文土器と弥生土器を拾ったことがきっかけとなり、発掘調査が進み、地層関係から「縄文土器は弥生土器より古い」事が証明されたのだという。
そして縄文時代→弥生時代と言う年代関係も確立された重要な遺跡だったのだ。

知らなかったなア・・・。

小さな土器のかけらが、古い古い過去の流れを教えてくれるなんて・・・
素敵だなぁ、やっぱりロマンだなぁ・・・来てよかった!

あらためて展示室へ。じっくり観察。
旧石器時代から始まって、縄文時代、弥生時代、古墳時代の各ゾーンを順に進む。

たくさんの土器を見ても、その違いや価値はさっぱりわからないが、
中学時代からの友人Tさんのために写真を撮る。
友人は福岡で、発掘された土器の修復再現の仕事をしているベテランである。

また、竪穴式住居や貝塚、当時の食生活の再現コーナーがあり、火おこし体験や古代服が試着できる。

それを過ぎると、「隼人」のコーナー。
「薩摩隼人」とは、よく聞く言葉だが、ここで初めてその語源を知った。

「隼=はやぶさ」のようにすばしっこい人間→隼のような人→「隼人」

大宝律令ができた翌年から、律令制度の押し付けに反発する隼人と朝廷側は度々戦ってきたというが、その隼人のすばしっこさに政府軍もかなり手をやいたようだ。




そうして、都では貴族が優雅な生活を送っていた平安時代の874年、開聞岳の大爆発によってこの地域は火山灰に埋もれる。
後に、畑や道、家屋の跡などが次々と発見され、「日本のポンペイ」とも呼ばれるようになったとか。

それに因んでこの博物館の名前が「時遊館coccoはしむれ」になったのだ。
coccoとは、イタリア語で、「宝物」という意味!

普段は考古学や歴史など縁のない生活をしているが、たまーにこういう場所を訪れるのもいいものだ。
少しタイムスリップをして、歴史のロマンを感じて、何故か心がリッチな気分になる。




次に向かった「魚見岳」。
何があるわけでもない、標高215mの小高い山である。
が、薩摩半島の東端に位置し、鹿児島湾に面しているので、展望台からは、
向かいの大隅半島や桜島、開聞岳に太平洋と、グルリ360度の眺望が得られるとのこと・・・だったのだが、あいにくの曇り空。いや、一応晴れなんだけど。。

つまり、真上の空は晴れているのでカンカン照り(暑ーい!)で、
空の端っこのほう(下のほう)に雲がかかっているので、景色が見えないってこと。

で、すぐそばの景色だけを撮っていたら、




な、な、なんと、すごいもの発見!





すぐ近くにある小さな島とこの薩摩半島を結ぶ道のようなものが薄っすら見えるではないか!
実はこれ、潮が引くと、本当の道になるんだそうな。

帰宅後ネットで確認したのだが、島の名前は「知林ヶ島」で、3月~10月の大潮の干潮時には歩いて渡れるそうだ。

ああ、これも旅のロマンだなァ・・・と思う。

それにしても、この展望台にも誰一人いない。
暑いもんナ。真昼間の炎天下、見に来る物好きは地元の人ではいないだろうナ。
でも、旅人にはお勧めのスポットですぞ!




さて、いよいよ最後の目的地「池田湖」に向かう。



開聞岳の噴火でできた九州最大のカルデラ湖。
周囲15km、最高水深233m。
このでっかい湖には、天然記念物の大ウナギが生息している。
その大ウナギの特大版だったのか、はたまた幻の怪魚でもいるのか、一昔前にはイッシーと呼ばれて、マスコミ等で話題になっていたっけ。
ネス湖の怪獣ネッシーの日本版として。

地図によると、そのイッシー像が湖畔に建っているらしい。
ワクワクして見に行くと・・・




「池田湖パラダイス」というお土産屋さんの入口に、照れくさそうな笑みを浮かべてたっていた。



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花瀬望比公園

2008-09-06 | 
「知覧平和会館」に失望した私たちは、指宿に行く前に、開聞岳のそばにある「花瀬望比公園」に寄ることにした。



これは、家にあるどのガイドブックにも出てなかったが、ネット上でたまたま知ることができた。

"望比"(ぼうひ)とは、比島(フィリピン群島)を望むという意味である。
以前からあった花瀬公園に、比島戦没者慰霊碑が建設され、安らぎの鐘や祈念像なども造られ、公園の名前を『花瀬望比公園』と改称したという。












ここにも、「英霊」とか「勇士」「尊い犠牲」などの言葉が並んでいたが、
知覧の平和会館と違っていたのは「二度とこんなことを起こしてはならない」という自戒の念である。



このような命の犠牲を強いた戦争は、人間の仕業であり、それを「起こした」人々や歴史の存在があったことを意識させる言葉である。

海の向こうの見知らぬ国で戦っている父親の無事を祈る母子像が夕日を浴びて輝いていた。




まさにこの海はレイテやルソンの島々につながっている。
すべての島や大陸につながる海。

平和を願う心もつながれ!
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