また昨日の続きです。
ネットの書き込みは、すさまじいものになっていた。姉は、ネットを見てしまったようだった。ご神木。そのうえ、今や姉はひとりだった。父は山寺にこもっていたし、弟である僕は、何の役にも立たなかった。母に助けを求めることなど、姉にはハナから思いつかなかった。ウズマキは活動をやめた。姉は放っておかれた。だが、そんな姉を救う人がいた。矢田のおばちゃんだ。だが、今回の救い方は、幾分トリッキーだった。何故って、おばちゃんは、死んでいたのだから。姉は、新幹線の中で、ただ静かにしていた。その静けさが怖かった。おばちゃんが残した箱の中には、二通の手紙が入っていた。一通は「遺言書」、そして一通には「貴子」と書かれてあった。姉が「貴子」と書いた手紙を開くと、そこにはおばちゃんの、男らしい字があった。『見つけた場合はこの手紙と遺言書を破棄すること。見つけていない場合は、遺言書を誰か大人に見せること(夏枝が望ましい)。』それだけだった。僕はもちろん、あの言葉を思い出していた。「自分で、自分の信じるものを見つけなあかん。」姉は「遺言書」と書かれた手紙を夏枝おばさんに渡した。遺言書も、やはり、あっさりしたものだった。遺産の分配方法(おばちゃんの資産は、莫大なものになっていた。)、葬儀後の段取り、そして最後に、こう書いてあった。『遺骨は散骨を望む。散骨は、今橋貴子によってなされること。』遺言書には、続きがあった。『散骨の際、この紙を持ってゆくこと。』よく見るとそれは、辞書の1ページ、どうやら、「す」のページのようだった。何故「どうやら」と思ったかというと、そのページが、墨でべったりと塗りつぶされていたからだ。『すくいぬし』という言葉を除いて。「何なん、これ。」夏枝おばさんはもちろん、話してくれた。それは矢田のおばちゃんの、ある恋にまつわる話だった。
おばちゃんは、1928年、神戸で生まれた。おばちゃん以外の家族はすべて、1945年6月の神戸大空襲で亡くなった。空襲のとき、おばちゃんは17歳だった。爆撃を受けて2ヶ月後、おばちゃんは焼土で終戦を迎えた。それからどうやって生きのびたのか、おばちゃんはそこも端折った。「それで、あ、おばちゃんな、家が焼かれた日、辞書を拾ってたんやって。」おばちゃんは刺青の人と恋をし、大切にしていた辞書を、「私だと思ってください」と刺青のひとに渡したそうだ。すると刺青の人は、こんな大切なものをもらうことは出来ません、と言った。「おばちゃんな、じゃあこの中の1ページだけを私にください、ていうたんやて。」おばちゃんは、刺青の人に、目をつむらせた。そして自分は辞書のページをパラパラやりながら、ここと思うところで声を出してくれ、と言った。「ここ。」止まったページは、「す」のページだった。ページは、三段組みになっていた。「うえ、なか、した。どこですか?」「なか。」「右からいくつですか。」「みっつ。」そこにあったのが、『すくいぬし』という言葉だった。「行く。」姉はいつだって、決意をすれば、すぐに行動に移す人だった。
おばちゃんの莫大な遺産の一部は、なんと、僕のふところにも入って来た。父のときと同様、それは驚くべき金額だった。姉はおばちゃんからもらった多額の金を使って、世界を巡ることにした。「すくいぬし」は、たちまち姉の「すくいぬし」になった。僕の下には、相変わらず仕事が引きも切らなかった。始めた頃は、文字のひとつひとつを慈しみ、自分の文章が掲載された雑誌を飽きるまで読み、そのいちいちに胸を躍らせていたものだったが、その仕事がルーティンになってくると、どこかで仕事をこなすようになってしまった。
ある日気がついたら、僕は30歳になっていた。ここにきて、僕の体に劇的な変化が生じた。髪の毛が、抜け始めたのだ。僕は帽子をかぶるようになった。そして劣等感を持つようになった。
そして33歳になった僕は収入が減り始めた。カルチャー誌の廃刊が続いたのが原因だった。経費の削減のためにライターを兼業する編集者が増えてきたのも原因だった。僕の仕事に、皆が魅力を感じなくなったのだ。
夕方に起きた。誰からのメールも入っていなかった。「久留島澄江」からも。澄江は、僕の恋人だ。僕よりふたつ上の35歳。駅やコンビニに置いている、OL向けのフリーペーパーを作る編集部にいる。澄江はいい人だ。人間的に信頼できるし、優しいし、仕事を一生懸命頑張っている。付き合って1年になるが、澄江はまことにかいがいしかった。僕はぬるい泥沼に体をつけているような気分だった。ある日、母からメールが来た。母は、小佐田さんと2年前に別れた。母はその後、また数ヵ月のだらしない日々を過ごした。そして懲りず、恋人を見つけてきた。僕は、あらゆることから逃げていた。(また明日へ続きます……)
ネットの書き込みは、すさまじいものになっていた。姉は、ネットを見てしまったようだった。ご神木。そのうえ、今や姉はひとりだった。父は山寺にこもっていたし、弟である僕は、何の役にも立たなかった。母に助けを求めることなど、姉にはハナから思いつかなかった。ウズマキは活動をやめた。姉は放っておかれた。だが、そんな姉を救う人がいた。矢田のおばちゃんだ。だが、今回の救い方は、幾分トリッキーだった。何故って、おばちゃんは、死んでいたのだから。姉は、新幹線の中で、ただ静かにしていた。その静けさが怖かった。おばちゃんが残した箱の中には、二通の手紙が入っていた。一通は「遺言書」、そして一通には「貴子」と書かれてあった。姉が「貴子」と書いた手紙を開くと、そこにはおばちゃんの、男らしい字があった。『見つけた場合はこの手紙と遺言書を破棄すること。見つけていない場合は、遺言書を誰か大人に見せること(夏枝が望ましい)。』それだけだった。僕はもちろん、あの言葉を思い出していた。「自分で、自分の信じるものを見つけなあかん。」姉は「遺言書」と書かれた手紙を夏枝おばさんに渡した。遺言書も、やはり、あっさりしたものだった。遺産の分配方法(おばちゃんの資産は、莫大なものになっていた。)、葬儀後の段取り、そして最後に、こう書いてあった。『遺骨は散骨を望む。散骨は、今橋貴子によってなされること。』遺言書には、続きがあった。『散骨の際、この紙を持ってゆくこと。』よく見るとそれは、辞書の1ページ、どうやら、「す」のページのようだった。何故「どうやら」と思ったかというと、そのページが、墨でべったりと塗りつぶされていたからだ。『すくいぬし』という言葉を除いて。「何なん、これ。」夏枝おばさんはもちろん、話してくれた。それは矢田のおばちゃんの、ある恋にまつわる話だった。
おばちゃんは、1928年、神戸で生まれた。おばちゃん以外の家族はすべて、1945年6月の神戸大空襲で亡くなった。空襲のとき、おばちゃんは17歳だった。爆撃を受けて2ヶ月後、おばちゃんは焼土で終戦を迎えた。それからどうやって生きのびたのか、おばちゃんはそこも端折った。「それで、あ、おばちゃんな、家が焼かれた日、辞書を拾ってたんやって。」おばちゃんは刺青の人と恋をし、大切にしていた辞書を、「私だと思ってください」と刺青のひとに渡したそうだ。すると刺青の人は、こんな大切なものをもらうことは出来ません、と言った。「おばちゃんな、じゃあこの中の1ページだけを私にください、ていうたんやて。」おばちゃんは、刺青の人に、目をつむらせた。そして自分は辞書のページをパラパラやりながら、ここと思うところで声を出してくれ、と言った。「ここ。」止まったページは、「す」のページだった。ページは、三段組みになっていた。「うえ、なか、した。どこですか?」「なか。」「右からいくつですか。」「みっつ。」そこにあったのが、『すくいぬし』という言葉だった。「行く。」姉はいつだって、決意をすれば、すぐに行動に移す人だった。
おばちゃんの莫大な遺産の一部は、なんと、僕のふところにも入って来た。父のときと同様、それは驚くべき金額だった。姉はおばちゃんからもらった多額の金を使って、世界を巡ることにした。「すくいぬし」は、たちまち姉の「すくいぬし」になった。僕の下には、相変わらず仕事が引きも切らなかった。始めた頃は、文字のひとつひとつを慈しみ、自分の文章が掲載された雑誌を飽きるまで読み、そのいちいちに胸を躍らせていたものだったが、その仕事がルーティンになってくると、どこかで仕事をこなすようになってしまった。
ある日気がついたら、僕は30歳になっていた。ここにきて、僕の体に劇的な変化が生じた。髪の毛が、抜け始めたのだ。僕は帽子をかぶるようになった。そして劣等感を持つようになった。
そして33歳になった僕は収入が減り始めた。カルチャー誌の廃刊が続いたのが原因だった。経費の削減のためにライターを兼業する編集者が増えてきたのも原因だった。僕の仕事に、皆が魅力を感じなくなったのだ。
夕方に起きた。誰からのメールも入っていなかった。「久留島澄江」からも。澄江は、僕の恋人だ。僕よりふたつ上の35歳。駅やコンビニに置いている、OL向けのフリーペーパーを作る編集部にいる。澄江はいい人だ。人間的に信頼できるし、優しいし、仕事を一生懸命頑張っている。付き合って1年になるが、澄江はまことにかいがいしかった。僕はぬるい泥沼に体をつけているような気分だった。ある日、母からメールが来た。母は、小佐田さんと2年前に別れた。母はその後、また数ヵ月のだらしない日々を過ごした。そして懲りず、恋人を見つけてきた。僕は、あらゆることから逃げていた。(また明日へ続きます……)