今日はいよいよ東京都議選の投開票日です。都民ファーストが単独過半数を取れるかどうか、注目です。
さて、また昨日の続きです。
「第三章 サトラコヲモンサマ誕生」
父は、遅れて帰国することになっていた。イランと同様、残務処理があったからだ。姉は、憮然としていた。ファザコンだった姉だ、父と別れるのは辛かったに違いない。でも姉はきっと、こう思っていたのだ。私たちは悪くない。僕も、同じ気持ちだった。父と母は離婚した。唯一心から悲しかったのは、僕たちの住んだあの家が、すでに売りに出されていたことだった。父と母は、自分たちの思い出となるものと、とことん決別する魂胆らしかった。大人たちの身勝手さは身に沁みて分かっていたつもりだったが、これには参った。ふたりにとっては消してしまいたい過去がある家でも、僕らにとっては大事な我が家だ。
僕たちの新しい家は、祖母の家と同じ町内にあった。
僕は5年生の新学期から、小学校に通うことになった。僕は緊張していた。いや、ほとんど恐怖していた。カイロでは、クラスなんてひとつしかなかった。でも僕が通う小学校には、1クラス40人、それが5クラスもあった。探り探り自己紹介をしながら、僕は心の中で「サラバ、サラバ」そう唱えていた。席は出席番号順だった。僕は会田という児童の後ろに座った。緊張は解けなかったが、僕が座っても、ヒソヒソ話や笑い声が起きなかったので、とりあえずホッとしていた。初めて僕に話しかけてくれたのは、長木(ながき)という男子児童だった。「今橋ってエジプトから来たん? すごいな。」言い忘れていたが、僕の苗字は今橋になった。姉はやらかしていた。「初めまして。今橋貴子です。エジプト、カイロから来ました。皆さんに会えてソーハッピー、日本は分からないことだらけだけど……」という具合だ。姉は気負ったのだ。だが姉は失敗した。中学生が、どれほどややこしい感情を持っているかを、姉は知らなかった。つまり姉は「エジプトという珍しい場所から戻ってきたことを、これみよがしに自慢する嫌な奴」だった。一方、僕らを新しい環境に追いやった張本人である母は母で、あれほど長く住んでいた日本の生活に、戸惑いを見せていた。まず、スーパーの品数と清潔さに打ちのめされた。あらかじめ小さく切られたネギのパックを見て、母は「嘘やろ」と言い、レトルトの袋に書いてある「ここからお開けください」の矢印を見て「阿呆か」と言った。日本の便利さに、母は喜びと、同時に苛立ちで爆発しそうになっていた。一方、その対極においたのが僕だった。僕は5年1組に慣れ、親友になったのは大津という奴だった。カイロのときの友達は、皆、親の経済状態は、大体似通っていた。でも日本では、特に僕の学校には、様々な出自の子供たちがいた。母は僕に、どちらかというとお坊ちゃんぽい恰好をさせたがった。カイロにいる間は、それで良かった。でも、ここでは違った。とにかく男は男らしくすることが、この町の流儀なのだ。僕は週に三度、放課後に行われるサッカーの練習に参加するようになった。半年も続けていると、だんだん足に筋肉がつき、顔は日に焼け、精悍になってきた。僕の中でまあ合格ラインの男には、なれたのだった。
姉は、この下町の、少し乱暴な生徒たちがいる学校を憎んだ。でも母は、姉のそんな抗議に、一切取り合わなかった。母にとって悪いのは父だった。姉と母との仲は、日を追うごとに悪化していった。僕は雰囲気の悪さから祖母の家に避難した。しかもその姉も、祖母の家にはよく来た。帰国後の母は、気まぐれにしか化粧をしなくなった。母は父という男に向けて生活していたのだと、父がいなくなって初めて分かった。祖母の家に集まってくる人たちは、やはりゆるかった。例えばその人たちは、僕がいるからといって話題を選ばなかった。姉にどうやら生理が来ていないようだと僕が気づいたとき、姉はもう学校に行くことを放棄していた。学校で姉は、苛められるようになった。そのときの姉にとって「無視されること」「いないことにされること」ほど辛い仕打ちはなかった。だが姉は、自分が再び見られていると知ったとき、決定的に傷つけられることになった。「本日の日直 今橋←ご神木」と黒板に書いてあるのを見た姉は、ひっと、声を出した。自分は「ご神木」なのだ。どこへ行っても。姉は学校に行かなくなった。そして、進学することを拒否した。大騒ぎしたのは、母だった。僕の頭の中は、ほとんど学校とサッカーだけになった。そしていつの間にか、「サラバ」とも言わなくなっていた。(また明日へ続きます……)
さて、また昨日の続きです。
「第三章 サトラコヲモンサマ誕生」
父は、遅れて帰国することになっていた。イランと同様、残務処理があったからだ。姉は、憮然としていた。ファザコンだった姉だ、父と別れるのは辛かったに違いない。でも姉はきっと、こう思っていたのだ。私たちは悪くない。僕も、同じ気持ちだった。父と母は離婚した。唯一心から悲しかったのは、僕たちの住んだあの家が、すでに売りに出されていたことだった。父と母は、自分たちの思い出となるものと、とことん決別する魂胆らしかった。大人たちの身勝手さは身に沁みて分かっていたつもりだったが、これには参った。ふたりにとっては消してしまいたい過去がある家でも、僕らにとっては大事な我が家だ。
僕たちの新しい家は、祖母の家と同じ町内にあった。
僕は5年生の新学期から、小学校に通うことになった。僕は緊張していた。いや、ほとんど恐怖していた。カイロでは、クラスなんてひとつしかなかった。でも僕が通う小学校には、1クラス40人、それが5クラスもあった。探り探り自己紹介をしながら、僕は心の中で「サラバ、サラバ」そう唱えていた。席は出席番号順だった。僕は会田という児童の後ろに座った。緊張は解けなかったが、僕が座っても、ヒソヒソ話や笑い声が起きなかったので、とりあえずホッとしていた。初めて僕に話しかけてくれたのは、長木(ながき)という男子児童だった。「今橋ってエジプトから来たん? すごいな。」言い忘れていたが、僕の苗字は今橋になった。姉はやらかしていた。「初めまして。今橋貴子です。エジプト、カイロから来ました。皆さんに会えてソーハッピー、日本は分からないことだらけだけど……」という具合だ。姉は気負ったのだ。だが姉は失敗した。中学生が、どれほどややこしい感情を持っているかを、姉は知らなかった。つまり姉は「エジプトという珍しい場所から戻ってきたことを、これみよがしに自慢する嫌な奴」だった。一方、僕らを新しい環境に追いやった張本人である母は母で、あれほど長く住んでいた日本の生活に、戸惑いを見せていた。まず、スーパーの品数と清潔さに打ちのめされた。あらかじめ小さく切られたネギのパックを見て、母は「嘘やろ」と言い、レトルトの袋に書いてある「ここからお開けください」の矢印を見て「阿呆か」と言った。日本の便利さに、母は喜びと、同時に苛立ちで爆発しそうになっていた。一方、その対極においたのが僕だった。僕は5年1組に慣れ、親友になったのは大津という奴だった。カイロのときの友達は、皆、親の経済状態は、大体似通っていた。でも日本では、特に僕の学校には、様々な出自の子供たちがいた。母は僕に、どちらかというとお坊ちゃんぽい恰好をさせたがった。カイロにいる間は、それで良かった。でも、ここでは違った。とにかく男は男らしくすることが、この町の流儀なのだ。僕は週に三度、放課後に行われるサッカーの練習に参加するようになった。半年も続けていると、だんだん足に筋肉がつき、顔は日に焼け、精悍になってきた。僕の中でまあ合格ラインの男には、なれたのだった。
姉は、この下町の、少し乱暴な生徒たちがいる学校を憎んだ。でも母は、姉のそんな抗議に、一切取り合わなかった。母にとって悪いのは父だった。姉と母との仲は、日を追うごとに悪化していった。僕は雰囲気の悪さから祖母の家に避難した。しかもその姉も、祖母の家にはよく来た。帰国後の母は、気まぐれにしか化粧をしなくなった。母は父という男に向けて生活していたのだと、父がいなくなって初めて分かった。祖母の家に集まってくる人たちは、やはりゆるかった。例えばその人たちは、僕がいるからといって話題を選ばなかった。姉にどうやら生理が来ていないようだと僕が気づいたとき、姉はもう学校に行くことを放棄していた。学校で姉は、苛められるようになった。そのときの姉にとって「無視されること」「いないことにされること」ほど辛い仕打ちはなかった。だが姉は、自分が再び見られていると知ったとき、決定的に傷つけられることになった。「本日の日直 今橋←ご神木」と黒板に書いてあるのを見た姉は、ひっと、声を出した。自分は「ご神木」なのだ。どこへ行っても。姉は学校に行かなくなった。そして、進学することを拒否した。大騒ぎしたのは、母だった。僕の頭の中は、ほとんど学校とサッカーだけになった。そしていつの間にか、「サラバ」とも言わなくなっていた。(また明日へ続きます……)