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三池祟史監督『風に立つライオン』その2

2017-07-17 05:34:00 | ノンジャンル
 昨日の続きです。
 子供とボードゲームをする島田。「やべー、また負けた」。「やべー、やべー」と子供たち。「変な日本語を教えないでください」と微笑む貴子。島田、手を噛んだ子に「一緒にどうだ? 名前は?」。「ンドゥング」とやっと答えてもらえる。
 サッカーをする子たちは「ペレ、ペレ」と叫ぶ。
 島田、数学の授業を英語で。1人の生徒、黒板で難問を解く。「やべー、お前、アインシュタインだ」。生徒たち、拍手。
 傷が治った男「またスーダンに戻り、戦います。さようなら、先生」。
 島田、子供たちに「感謝して食べ物を食べよう」。皆で「いただきます」と唱和。子どもたちの笑顔。
 島田「子供たちを保護できないのですか?」ロビー「治った子は難民キャンプへ」「肉体と精神のリハビリが必要」。
 「島田が来て、雰囲気が変わった」のナレーション。
 貴子「先生、やべー、すげー、など乱暴な言葉を子供たちに教えないでください」「分かった」「これ、誰が描いたと思います?」「これ、俺の絵じゃないか」「ンドゥングです」。
 「お前が描いたのか? これはすごい。ミケランジェロだ。これからミケと呼ぶぞ」「絵なんてつまらない。人を撃つのが好きだ。どんな敵でも逃さない」「人殺しとは友人になれないな」。
 子供「貴子は奥さん?」島田「違うよ」「奥さんはいるの?」「いないよ」。
 夕暮れ。「島田くんはいつも遊びに来ていた」と女性の声。“2014年 長崎県五島列島 胡蝶島”の字幕。「私の父は35歳で診療所を開き、私は一人っ子だったので、父の仕事を継ぐのは自分だと思っていた。航一郎とは医学部の同期。(中略)あれはケニアに行く2年前」。“1985年 長崎大学医学部附属病院”の字幕。診察する島田。「膵臓癌と診断された主婦は、すぐに手術すれば助かったが、大学病院は空きベッドがなく、手術も半年先まで予約が詰まっていて、航一郎は市内の専門医を紹介したが、福田夫婦はあくまで大学病院での手術を望み、やっと入院できた時にはもう遅かった」。
 「お通夜に俺、行ってくる」「すべての患者に行ってたらきりがない」「じゃあ、私も一緒に」。
 通夜。豪雨。福田「帰ってください」島田「せめてご焼香を」福田「お前が殺した」。雨の中に立ち尽くし、お辞儀する島田。
 島田「親はサラリーマンだった」貴子「なぜ医者に?」「シュバイツァーの伝記を読んだんだ」「中2の時、膵臓癌で母が死んだ。その時父が泣くのを初めて見た。福田さんのご主人も本気で言ってはいない。誰かのせいにしたいだけ」。
 女医の貴子に老人の患者「2020年のオリンピックまで生きてられるかな」「大丈夫」「その次は?」「大丈夫」「その次の次は?」「大丈夫」。
 「航一郎がケニアに行く1年前の86年の春、父が脳梗塞で半身マヒになったが、診察は続けた」。(中略)
 貴子「今週いっぱいは休み」父「そんなに休んでいいのか?」母「倒れた時は貴子に会いたがってたくせに」。若者の太郎、捕り立ての魚を持ってくる。
 魚をさばく太郎を見て、貴子「さすがね」。
 「私と航一郎はお互いにパートナーと密かに夢見ていた」。
 島田、貴子に「午後空いてる? 話したいことがある」。
 「俺と一緒にアフリカへ行ってほしい。ケニアの熱帯病研究所だ」「それってつまり」「ああ」「少し時間を」。
 母「貴子の好きにすればいい」「ごめんなさい」父「診療所はどうにでもなる」母「今度はいつまで?」「明日の午後」。
 “本日休診”の看板。「すいません」と赤ん坊を連れて来る親。診察する貴子。
 「熱が下がらなかったら、また明日来てください」。
 「先生の見舞いに」と野菜を持ってきた老婦人。貴子「山を三つも越えて歩いてきたの?」「先生によろしく」貴子の母「これから大しけになる。貴子、送って差し上げて」。
 車で老婦人を送る貴子。老婦人「診に来てもらった時、病気を押して来た先生の方が熱が高かったことがあった」。
 帰り、山崩れに会う貴子。太郎に車中から救われる。
 翌朝、ケガ人であふれる診療所。貴子、電話で「船が欠航なので、明日一番の船で帰ります」と言い、診察を続ける。
 貴子、翌朝長崎へ。午後から病院に。島田に「アフリカには行けない」。
 ケニア。貴子「いなくなると淋しい」島田「また戻ってくる」「頑張れって言ってくれないの?」「あれは自分に言う言葉だ」。車、出発。子どもたち「頑張れー!」。手を振る貴子。
 青木「自分は90年に帰国。航一郎はアフリカに残った」。
 貴子「高校の時、彼は無口だった。吃音があったからだ」。クラス対抗の合唱コンクールのソロパートに立候補した島田は無事に歌い上げる。「それ以降、吃音は消えていき、少しおしゃべりになっていった」。
 「航一郎は早くから医学部を目指し、私も看護学校をめざして猛勉強をした。彼は成績優秀だったが、一浪。受かった時はトップ合格だった。長崎で一緒に学んだ」。(また明日へ続きます……)