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山田宏一・蓮實重彦『トリュフォー最後のインタビュー』その1

2016-10-22 09:16:00 | ノンジャンル
 ‘14年に刊行された山田宏一氏と蓮實重彦氏による『トリュフォー最後のインタビュー』を読みました。
 その中で、いくつか記しておきたいことは、以下のようなことです。
・ジャン・ヴィゴは世代的には小津安二郎と同じこと
・小津の映画の終映後ジャック・リヴェットが狂ったように何かを絶叫していたこと
・日仏交換映画祭のかたちで1963年から64年にかけて143本の日本映画の連続上映がパリのシネマテークで行われたこと
・トリュフォーは神代辰巳の『四畳半襖の裏張り』を素晴らしいと思っていたこと
・『華氏451』の撮影中にスタンバーグの回顧上映を見ていたこと
・『恋愛日記』がいちばん強く影響をうけた映画は、サッシャ・ギトリの『とらんぷ譚』であること
・ラストシーンにはいつも幸福と不幸な要素を織りまぜるという、チャップリンの映画から学んだ原理をふまえていること
・トリュフォーの映画では、いつも、ある種の落下があること
・ヒッチコックの場合は、あの体重から来ている(落ちることへの)恐怖があること
・『アメリカの友人』の素晴らしさはまさにストーリーを追わないことが快くさえあるということ
・恋愛にも脱線や転覆がなければ映画にならないこと
・ロウソクは『大人は判ってくれない』以来ずっとトリュフォーの作品をつらぬいてきた一つの重要なファクターであること
・『トリュフォーの思春期』にはトリュフォーの二人の娘も出ているし、シュザンヌ・シフマンの息子、ネストール・アルメンドロスの若いガールフレンド、それにティエールの町の人たちがみんな出てくれたこと
・階段もトリュフォーの映画で重要な意味を持つ記号の一つであること
・トリュフォーの少年時代からの仲間で、そのまま映画に入った人はロベール・ラシュネー以外にはいないこと
・失敗は天才のみに許された才能なのかもしれないこと
・フラーの『最前線物語』の公開された版は1時間半で、まだ2時間ぐらいは撮ってあるそうであること
・アンリ・ドカはジャン=ピエール・メルヴィルの映画、『海の沈黙』や『恐るべき子供たち』や『賭博師ボブ』などを信じがたいほどの困難な条件で撮りあげてきたカメラマンであること
・ロッセリーニが情熱を示したのは一つの主題について最初の二週間だけだったこと
・『マリー・デュボワ』という女優の名付け親はトリュフォーであること
・ニコラス・レイの『大砂塵』と『ピアニストを撃て』を見れば、同じ精神でつくられていると感じられること
・精神は同じでも、フランス人はどうしてもある種のリアリズムにとらえられてしまうこと
・ロッセリーニはアメリカ映画を毛嫌いしていて、タイトルが出る前に唐突シーンが始まるアヴァン・タイトルなど、ハリウッドの人種しか考えない下品な発想だとののしっていたこと
・ヒッチコックもロッセリーニが大きらいだったこと
・『大砂塵』はフランス語吹替え版のほうがすばらしいものだったこと
・『ピアニストを撃て』にはニコル・ベルジェというすばらしい女優が出演していること
・トリュフォーは画面に空は入らないようにしていること
・映画は絵画を模してはいけないとトリュフォーは考えていること、一軒家というのはつねに逃げ場のない恐怖感をいだかせること
・ジャン・グリュオーは現代ものではない、時代考証などが必要な歴史的背景にある物語に協力していること
・ジャン=ピエール・・レオーは、いつも、突然走り出すこと
・スタンダード・サイズでは、よく、顔はいい表情で撮れているのに、手持ち無沙汰の手が入って画面が台無しになってしまうが、シネマスコープだと、簡単に腕半分で切れるので、便利なこと
・それに、雌伏何年というようなことが、長く時間をかけて待ちすぎたために、逆にエネルギーを消耗してしまって、作品が空疎なものになってしまい、映画にはマイナスになることが多いこと
・そんなわけで、『華氏451』のあとは、三つの企画を同時にあたためながら、プロデューサーが見つかり次第、どれからでもすぐとりかかれるように、メモをとって準備稿を書いておくようにしたこと
・トリュフォーの映画のすべての作品に、ヒッチコックの影響があることは間違いないこと
・観客の同化を求める映画は243-0817 すべてヒッチコック的になる。ただ、ヒッチコックの映画では、その同化の対象である主人公が男性であるけれども、トリュフォーの映画では女性であること
・ルイス・ブニュエルの映画の人物のおもしろさが、その複雑さ、両義性にあることは言うまでもないこと
(明日に続きます……)