うたことば歳時記

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『神皇正統記』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面 

2020-12-02 08:44:03 | 私の授業
神皇正統記


原文
 先(まず)あらかじめ、皇孫(すめみま)に勅(みことのり)して曰(のたま)はく、「葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)の国は、是(これ)、吾が子孫(うみのこ)の主(きみ)たるべき地(くに)なり。宜(よろ)しく爾(いまし)皇孫(すめみま)、就(い)でまして治(しら)せ。行給矣(さきくませ)。宝祚(あまつひつぎ)の隆(さかえ)まさむこと、当(まさ)に天壌(あめつち)と窮(きわまり)無けむ」と。又大神、御手に宝の鏡をもち給ひ、皇孫(すめみま)にさづけ祝(ほき)て、「吾(わが)児(こ)、此の宝の鏡を視(み)ること、当(まさ)に吾を視るが如くすべし。与(とも)に床(ゆか)を同じくし、殿(おおとの)を共(ひとつ)にして、以て斎(いわい)の鏡とすべし」との給ふ。八坂瓊(やさかに)の曲玉(まがたま)・天(あめ)の叢雲(むらくも)の剣(つるぎ)を加(くわ)へて三種とす。又「此(この)鏡の如くに分明(ふんみよう)なるをもて、天下(あめのした)に照臨(しようりん)し給へ。八坂瓊(やさかに)のひろがれるが如く、曲妙(たくみなるわざ)をもて天下(あめのした)をしろしめせ。神の剣(つるぎ)をひきさげては、不順(まつろわざる)ものを平らげ給へ」と勅(みことのり)しまし〳〵けるとぞ。
 此国の神霊として、皇統一種たゞしくまします事、まことにこれらの勅(みことのり)に見えたり。三種の神器世に伝(つたうる)こと、日月星の天(あめ)にあるに同じ。鏡は日の体(たい)也。玉は月の精也。剣は星の気也。深き習(ならい)あるべきにや。
 抑(そもそも)、彼の宝の鏡は、さきにしるし侍(はべる)、石(いし)凝姥(こりどめ)の命(みこと)の作(つくり)給へりし八咫(やた)の御鏡、・・・・玉は八坂瓊(やさかに)の曲玉(まがたま)、玉屋の命(みこと)作給へるなり。剣は須佐之男(すさのおの)命(みこと)の得(え)給て、大神にたてまつられし叢雲(むらくも)の剣也。此三種につきたる神勅は、正(まさし)く国をたもちますべき道なるべし。
 鏡は一物をたくはへず。私(わたくし)の心なくして、万象(ばんしよう)を照らすに、是非善悪のすがた顕(あらわ)れずと云ことなし。其(その)すがたにしたがひて感応するを徳とす。これ正直の本源也。玉は柔和(にゆうわ)善順(ぜんじゆん)を徳とす。慈悲の本源也。剣は剛利決断を徳とす。智恵の本源也。此(この)三徳を翕(あわ)せ受ずしては、天下(あめのした)の治まらんこと、まことに難(かた)かるべし。神勅明らかにして、詞(ことば)つゞまやかに、旨(むね)ひろし。

現代語訳
 (天照大神(あまてらすおおみかみ)が)まず予(あらかじ)め皇孫である邇邇芸命(ににぎのみこと)に詔して言われるには、「葦原(あしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)の国は、我が子孫が主(きみ)となって治めるべき国である。天孫邇邇芸命(ににぎのみこと)よ、行ってその国を治めよ。幸(さき)くあれよ。皇位は天地と共に永久に栄えるであろう」と。また大神は手に宝の鏡をお持ちになり、天孫に授け祝福して言われるには、「我が子(孫)よ、この鏡を見る時は、我を見るが如くにせよ。常に同じ床、同じ屋根の下に安置し、神聖な鏡とせよ」と。この鏡と八坂瓊(やさかに)の曲玉(まがたま)と天(あめ)の叢雲(むらくも)の剣(つるぎ)と合わせて、三種の神器とする。また「この鏡のように、明(あきら)かに天の下を普(あまね)く照らせよ。八坂瓊(やさかに)の勾玉が広がっているように、優れた業により天の下を治めよ。神剣を帯びては、従わない者を平らげよ」と、御神勅を下されたとのことである。
 この国の神聖な霊統として、この皇統一つだけが正しく続くことは、実にこれらの御神勅に明らかである。三種の神器が代々伝えられるということは、日と月と星が天にあるのと同じである。鏡は日(太陽)そのものを表し、玉は月の本質を表し、剣は星の力を表している。このことには深いいわれがあるのであろう。
 そもそもその宝の鏡は、前にも記した石凝姥(いしこりどめ)の命(みこと)がお作りになられた八咫(やた)の鏡であり、・・・・玉は八坂瓊(やさかに)の勾玉で、玉屋の命(みこと)がお作りになられた。剣は須佐之男(すさのお)の命(みこと)が手に入れられ、大神に献上された天の叢雲(むらくも)の剣である。これらの三種の神器についての天照大神の御神勅は、この国を正しく保つべき道でなければならない。
 鏡は(自分自身のために)何一つ貯えることがない。私心なく全ての事を照らし映すので、正邪・善悪(物事の本当の姿が)現れないということはない。(映るもの)そのものの姿にそのまま感応することが鏡の徳であり、これが正直の根原である。玉は柔和で善に順(したが)う心を表すことがその徳であり、慈悲の心の根原である。剣は強さと鋭さにより即断することがその徳であり、(物事の本質を見抜く)智恵の根原である。(天皇が)この三つの徳を兼ね具(そな)えていなかったら、天下を治めることは実に難しいであろう。神勅は明白であり、言葉そのものは簡潔であるが、そこに含まれる意義は深遠である。

解説
 『神皇正統記(じんのうしようとうき)』は、後醍醐天皇と後村上天皇に仕えた南朝の重臣である北畠(きたばたけ)親房(ちかふさ)(1293~1354)が著した歴史書で、神代から後村上天皇即位までの歴代天皇の事績が、歴史評論を交えながら叙述されています。親房は常陸国の小田城(茨城県つくば市)でこれを書き始めるのですが、奥書には「最略の皇代記」が一冊あっただけと記されています。しかし歴代天皇の事績を、概略とはいえ矛盾なく書き上げた親房の博識には、ただ感服するほかはありません。
 最古の写本の奥書によれば、「此(この)記は延元四年(1339)秋、或(ある)童蒙(どうもう)に示さんが為に老筆を馳する所也」と記されています。従来はこの「或童蒙」は、当時十二歳の義良(のりよし)親王(後に後村上天皇)であり、帝王教育のために書かれたと考えられていました。しかし現在では、南朝方に引き入れようとした東国の有力武士である奥州白河の結城親朝(ちかとも)や、その周辺の東国武士であるという説が有力です。そして『神皇正統記』の執筆中に後醍醐天皇崩御の悲報に接し、「こゝにてとゞまりたく侍れど、神皇正統のよこしまなるまじき理(ことわり)を申(もうし)のべて、素意の末をもあらはさまほしくて、強(しい)てしるしつけ侍るなり」と記し、悲しみを乗り越えて書き上げました。しかし引き入れ工作は失敗し、吉野に還っています。そして当然のことながら補訂もしているでしょうから、結果としては、後村上天皇のための帝王学テキストとなったということになります。
 『神皇正統記』の最大の眼目は、南朝の大覚寺統こそが、天照大神以来の正統な皇統であるということです。そしてその根拠は三種の神器の継承であり、それぞれの神器に象徴される徳目を説いています。そしてさらに天子たる者は、それに象徴される徳を具えるべきことも説いています。
 為政者にはその地位に相応(ふさわ)しい徳が不可欠であるという主張は、「後嵯峨院」の項で、執権政治全盛期の北条泰時の私心のない公平な政治を、高く評価していることによく表れています。「心たゞしく政(まつりごと)すなほにして、人をはぐゝみ物におごらず・・・・天の下則(すなわち)しづまりき」と絶賛し、鎌倉幕府が衰えて遂には滅んだのは天命ではあるが、七代も続いたのは北条泰時の余徳であるから、不満に思うことではないとまで言っています。反対に「廃帝」(仲恭天皇)の項では、承久の乱について、「王者の軍(いくさ)と云ふは、咎(とが)あるを討じて、傷なきをばほろぼさず」とまで言い切っています。さらに承久の乱の義時追討について、「義時久く彼が権をとりて人望に背(そむ)かざりしかば、下にはいまだきず有といふべからず。一往のいはればかりにて追討せられんは、上(後鳥羽上皇)の御咎(ごとが)とや申すべき。謀叛おこしたる朝敵の利を得たるには、比量せられがたし」と鋭く批判しています。このように親房は、歴史を見通す冷徹な視線と、烈々とした気迫を保持しています。
 ここに載せたのは、三種の神器が象徴する君徳について説いた、巻頭に近い部分です。親房は『神皇正統記』のほぼ巻末に近く、「およそ政道と云ふことは所々にしるし侍れど、正直・慈悲を本として決断の力あるべきなり。これ天照太神(あまてらすおおみかみ)の明らかなる御教へなり」と結論のように記して、三種の神器に象徴される徳による政治の理想を述べています。ですから『神皇正統記』では「三種の神器」とそれに象徴される君徳が、一貫して重要な主題なのです。

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