うたことば歳時記

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『続日本紀』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面 

2020-12-05 17:47:23 | 私の授業
続日本紀


原文
 和銅元年春正月乙巳(いつし)。武蔵(むさし)国秩父(ちちぶ)郡、和銅を献(たてまつ)る。詔(みことのり)して曰(のたま)はく。「現神(あきつみかみ)と御宇(あめのしたしろしめす)倭(やまと)根子(ねこ)天皇(すめら)が、詔旨(おおみこと)らまと勅(の)りたまふ命(おおみこと)を、親王(みこたち)、諸王(おおきみたち)、諸臣(おみたち)、百官人等(もものつかさのひとども)・天下(あめのした)の公民(おおみたから)、衆(もろもろ)聞きたまへと宣(の)る。・・・・
 如是(かく)治め賜(たま)ひ慈(めぐ)み賜ひ来る天(あま)つ日嗣(ひつぎ)の業(わざ)と、今皇(すめら)朕(わ)が御世(みよ)に当りて坐(ま)せば、天地(あめつち)の心を労(いとおし)み重(いかし)み辱(かたじけな)み恐(かしこ)み坐(ま)すに、聞(きこ)し看(め)す食国(おすくに)の中(うち)の東(ひむがし)の方(かた)武蔵国に、自然(おのずから)に作成(な)れる和銅(にぎあかがね)出で在(た)りと奏(もう)して献(たてまつ)れり。此の物は、天(あめ)に坐(ま)す神、地(くに)に坐す祗(かみ)の相(あい)うづなひ奉(まつ)り福(さきわ)へ奉る事に依りて、顕(うつ)しく出(い)でたる宝に在るらしとなも、随神所(かむながら)念(おもほ)し行(め)す。是(ここ)を以(もち)て、天地(あめつち)の神の顕(あらわ)し奉(まつ)れる瑞宝(しるしのたから)に依りて、御世(みよ)の年号(としのな)を改め賜ひ換(か)へ賜はくと詔(の)りたまふ命(おおみこと)を衆(もろもろ)聞きたまへと宣(の)る」故(かれ)、慶雲(けいうんの)五年(いつとせ)を改めて、和銅(わどうの)元年(はじめのとし)と為(し)て、御世の年号(としのな)と定め賜ふ。

現代語訳
 和銅元年(708)春の正月十一日、武蔵国の秩父郡が和銅を献じた。(元明天皇が)詔を宣べて言うには、「現(あき)つ御神として天下を治められる天皇が、詔として宣べ聞かせられる御言葉を、親王達・諸王達・多くの重臣達・多くの官僚達・全国の公民は皆謹んで承るようにと申し述べる。・・・・
 このように治め慈(いつく)しんできた皇位継承者の務(つとめ)として、今はこの我が世で皇位に就(つ)いているのであるが、天地の心を大切にして重く受け止め、恐れ畏(かしこ)んでいたところ、治めているこの国の東方にある武蔵の国に、自然に生じた熟銅が現れたと、奏上し献上してきた。この物は、天にまします神々と地にまします祗(かみ)々が、(徳のある政治を)共に愛(め)でられ祝福されることにより、現出した宝物であるらしいと、神として思うのである。そこで、天地の神々が顕わされためでたい宝により、御世の年号を新しく改め換えられると宣べられる御言葉を、皆の者は謹んで承れと申し述べるものである」。これにより、慶雲五年を改めて和銅元年とし、御世の年号としてお定めになられる。

解説
 『続日本紀(しよくにほんぎ)』は、桓武(かんむ)朝の延暦十六年(797)、『日本書紀』に続く正史として撰進された歴史書で、文武天皇の元年(697)から桓武天皇の延暦十年(791)までの天皇九代九五年間、奈良時代がほぼ全て含まれています。和同開珎鋳造・三世一身法・国分寺造営・東大寺大仏造立・墾田永年私財法などの史料は、高校の日本史の授業でも学習しますから、部分的になら多くの人が読んだことがあるはずです。
 ここに載せたのは、和銅献上に関する女帝元明(げんめい)天皇の宣命(せんみよう)や詔勅で、独特の文体は「宣命体(せんみようたい)」と呼ばれます。これは天皇の言葉を大和言葉で表したもので、天皇の言葉が漢文体の場合は、一般には「詔勅(しようちよく)」と呼ばれます。宣命体では、名詞・動詞・形容詞などの語幹は大きな漢字で、助詞・助動詞・活用語尾などは、万葉仮名で小さく書きます。例えば「天下(あめのした)の業(わざ)となも、随神(かむながら)念(おもほ)し行(め)さくと」の部分ならば、「天下業止奈母、随神念行佐久止」と書き表します。宣命が用いられるのは、元日の朝賀・即位・改元・立后などの、天皇や国家に直接に関わる重大なことに限られました。それだけ重々しい荘重なものと理解されていたわけです。宣命は『続日本紀』に特に多く、六二編も収録されています。宣命体は、現在では神主の祝詞(のりと)に痕跡を留めているのですが、現在の祝詞の奏上には独特の節回しがあるように、当時も荘重さを増幅させる、独特の読まれ方をしたことでしょう。
 この宣命は朝廷に参集した諸官僚の前で実際に読み上げられたもので、助語や活用語尾が一音一音記されていますから、当時の日本語を録音して筆記したのと同じであり、古代語の言語的学研究の貴重な史料でもあるわけです。
 ここでは省略しましたが、改元の宣命に続いて、最後に「無位の金上元に従五位(じゆごい)の下」の位を授けたことが記されています。「金」という姓から見て、渡来系の人物でしょう。従五位は国司級の位階ですから、極端な比喩ですが、無名の外国人がいきなり県知事級に抜擢されたような立身出世で、鉱物や冶金についての知識と技術があり、銅の採掘に関わったことへの褒賞と考えられます。武蔵国を初めとして、東国には千人単位の新羅・高句麗・百済系渡来人達が集団で入植していましたから、その中の一人であるかもしれません。
 和銅の献上は、当時としては大事件でした。何しろこれを契機に改元されただけでなく、和同開珎が鋳造され、遷都の詔まで出されたのですから。『続日本紀』により日付を見ると、一月十一日に和銅献上・改元・天下に大赦、二月十一日に催鋳銭司(さいちゆうせんし)(貨幣鋳造の官吏)設置、二月十五日に天下に遷都布告、五月十一日に初めて銀銭(和同開珎の銀銭か)を行うとして、立て続けに関連記事が見られます。
 改元理由には色々あるのですが、平安時代初期までの改元は、瑞祥出現による場合が多いものでした。瑞祥とは、徳のある善政が行われると、天がそれに感応して、地上に出現させると考えられた珍しい現象のことで、白雉・大宝・慶雲・和銅・霊亀・養老・神亀・天平・宝亀などの年号は、全て瑞祥の出現が契機となっています。
 ここでは、慶雲五年を改て和銅元年とし、御世の年号と定めたと記されていますが、「年号」という言葉が正式に使用された最初の例として重要です。現在では一般には「年号」と「元号」は、曖昧に混用されていますが、和銅改元以後、国家の正式な歴史書である六国史に、しばしば「年号」と記されていますから、「年号」が正式な呼称でした。その後明治改元の際、「一世一元の制」により「元号」という呼称が用いられるようになったと説かれることが多いのですが、これは明かに誤りです。明治改元の詔の正式な呼称は、「今後年号ハ御一代一号ニ定メ慶応四年ヲ改テ明治元年ト為ス及詔書」で、はっきり「年号」と記されています。「元号」が正式に使われるのは、大日本帝国憲法と同時に公布された「皇室典範」以後のことです。現在では「元号法」という法律がありますから、「元号」が正式な呼称ですが、和銅改元から明治憲法より前までは、「年号」が正式な呼称だったのです。

昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『続日本紀』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。







『神皇正統記』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面 

2020-12-02 08:44:03 | 私の授業
神皇正統記


原文
 先(まず)あらかじめ、皇孫(すめみま)に勅(みことのり)して曰(のたま)はく、「葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)の国は、是(これ)、吾が子孫(うみのこ)の主(きみ)たるべき地(くに)なり。宜(よろ)しく爾(いまし)皇孫(すめみま)、就(い)でまして治(しら)せ。行給矣(さきくませ)。宝祚(あまつひつぎ)の隆(さかえ)まさむこと、当(まさ)に天壌(あめつち)と窮(きわまり)無けむ」と。又大神、御手に宝の鏡をもち給ひ、皇孫(すめみま)にさづけ祝(ほき)て、「吾(わが)児(こ)、此の宝の鏡を視(み)ること、当(まさ)に吾を視るが如くすべし。与(とも)に床(ゆか)を同じくし、殿(おおとの)を共(ひとつ)にして、以て斎(いわい)の鏡とすべし」との給ふ。八坂瓊(やさかに)の曲玉(まがたま)・天(あめ)の叢雲(むらくも)の剣(つるぎ)を加(くわ)へて三種とす。又「此(この)鏡の如くに分明(ふんみよう)なるをもて、天下(あめのした)に照臨(しようりん)し給へ。八坂瓊(やさかに)のひろがれるが如く、曲妙(たくみなるわざ)をもて天下(あめのした)をしろしめせ。神の剣(つるぎ)をひきさげては、不順(まつろわざる)ものを平らげ給へ」と勅(みことのり)しまし〳〵けるとぞ。
 此国の神霊として、皇統一種たゞしくまします事、まことにこれらの勅(みことのり)に見えたり。三種の神器世に伝(つたうる)こと、日月星の天(あめ)にあるに同じ。鏡は日の体(たい)也。玉は月の精也。剣は星の気也。深き習(ならい)あるべきにや。
 抑(そもそも)、彼の宝の鏡は、さきにしるし侍(はべる)、石(いし)凝姥(こりどめ)の命(みこと)の作(つくり)給へりし八咫(やた)の御鏡、・・・・玉は八坂瓊(やさかに)の曲玉(まがたま)、玉屋の命(みこと)作給へるなり。剣は須佐之男(すさのおの)命(みこと)の得(え)給て、大神にたてまつられし叢雲(むらくも)の剣也。此三種につきたる神勅は、正(まさし)く国をたもちますべき道なるべし。
 鏡は一物をたくはへず。私(わたくし)の心なくして、万象(ばんしよう)を照らすに、是非善悪のすがた顕(あらわ)れずと云ことなし。其(その)すがたにしたがひて感応するを徳とす。これ正直の本源也。玉は柔和(にゆうわ)善順(ぜんじゆん)を徳とす。慈悲の本源也。剣は剛利決断を徳とす。智恵の本源也。此(この)三徳を翕(あわ)せ受ずしては、天下(あめのした)の治まらんこと、まことに難(かた)かるべし。神勅明らかにして、詞(ことば)つゞまやかに、旨(むね)ひろし。

現代語訳
 (天照大神(あまてらすおおみかみ)が)まず予(あらかじ)め皇孫である邇邇芸命(ににぎのみこと)に詔して言われるには、「葦原(あしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)の国は、我が子孫が主(きみ)となって治めるべき国である。天孫邇邇芸命(ににぎのみこと)よ、行ってその国を治めよ。幸(さき)くあれよ。皇位は天地と共に永久に栄えるであろう」と。また大神は手に宝の鏡をお持ちになり、天孫に授け祝福して言われるには、「我が子(孫)よ、この鏡を見る時は、我を見るが如くにせよ。常に同じ床、同じ屋根の下に安置し、神聖な鏡とせよ」と。この鏡と八坂瓊(やさかに)の曲玉(まがたま)と天(あめ)の叢雲(むらくも)の剣(つるぎ)と合わせて、三種の神器とする。また「この鏡のように、明(あきら)かに天の下を普(あまね)く照らせよ。八坂瓊(やさかに)の勾玉が広がっているように、優れた業により天の下を治めよ。神剣を帯びては、従わない者を平らげよ」と、御神勅を下されたとのことである。
 この国の神聖な霊統として、この皇統一つだけが正しく続くことは、実にこれらの御神勅に明らかである。三種の神器が代々伝えられるということは、日と月と星が天にあるのと同じである。鏡は日(太陽)そのものを表し、玉は月の本質を表し、剣は星の力を表している。このことには深いいわれがあるのであろう。
 そもそもその宝の鏡は、前にも記した石凝姥(いしこりどめ)の命(みこと)がお作りになられた八咫(やた)の鏡であり、・・・・玉は八坂瓊(やさかに)の勾玉で、玉屋の命(みこと)がお作りになられた。剣は須佐之男(すさのお)の命(みこと)が手に入れられ、大神に献上された天の叢雲(むらくも)の剣である。これらの三種の神器についての天照大神の御神勅は、この国を正しく保つべき道でなければならない。
 鏡は(自分自身のために)何一つ貯えることがない。私心なく全ての事を照らし映すので、正邪・善悪(物事の本当の姿が)現れないということはない。(映るもの)そのものの姿にそのまま感応することが鏡の徳であり、これが正直の根原である。玉は柔和で善に順(したが)う心を表すことがその徳であり、慈悲の心の根原である。剣は強さと鋭さにより即断することがその徳であり、(物事の本質を見抜く)智恵の根原である。(天皇が)この三つの徳を兼ね具(そな)えていなかったら、天下を治めることは実に難しいであろう。神勅は明白であり、言葉そのものは簡潔であるが、そこに含まれる意義は深遠である。

解説
 『神皇正統記(じんのうしようとうき)』は、後醍醐天皇と後村上天皇に仕えた南朝の重臣である北畠(きたばたけ)親房(ちかふさ)(1293~1354)が著した歴史書で、神代から後村上天皇即位までの歴代天皇の事績が、歴史評論を交えながら叙述されています。親房は常陸国の小田城(茨城県つくば市)でこれを書き始めるのですが、奥書には「最略の皇代記」が一冊あっただけと記されています。しかし歴代天皇の事績を、概略とはいえ矛盾なく書き上げた親房の博識には、ただ感服するほかはありません。
 最古の写本の奥書によれば、「此(この)記は延元四年(1339)秋、或(ある)童蒙(どうもう)に示さんが為に老筆を馳する所也」と記されています。従来はこの「或童蒙」は、当時十二歳の義良(のりよし)親王(後に後村上天皇)であり、帝王教育のために書かれたと考えられていました。しかし現在では、南朝方に引き入れようとした東国の有力武士である奥州白河の結城親朝(ちかとも)や、その周辺の東国武士であるという説が有力です。そして『神皇正統記』の執筆中に後醍醐天皇崩御の悲報に接し、「こゝにてとゞまりたく侍れど、神皇正統のよこしまなるまじき理(ことわり)を申(もうし)のべて、素意の末をもあらはさまほしくて、強(しい)てしるしつけ侍るなり」と記し、悲しみを乗り越えて書き上げました。しかし引き入れ工作は失敗し、吉野に還っています。そして当然のことながら補訂もしているでしょうから、結果としては、後村上天皇のための帝王学テキストとなったということになります。
 『神皇正統記』の最大の眼目は、南朝の大覚寺統こそが、天照大神以来の正統な皇統であるということです。そしてその根拠は三種の神器の継承であり、それぞれの神器に象徴される徳目を説いています。そしてさらに天子たる者は、それに象徴される徳を具えるべきことも説いています。
 為政者にはその地位に相応(ふさわ)しい徳が不可欠であるという主張は、「後嵯峨院」の項で、執権政治全盛期の北条泰時の私心のない公平な政治を、高く評価していることによく表れています。「心たゞしく政(まつりごと)すなほにして、人をはぐゝみ物におごらず・・・・天の下則(すなわち)しづまりき」と絶賛し、鎌倉幕府が衰えて遂には滅んだのは天命ではあるが、七代も続いたのは北条泰時の余徳であるから、不満に思うことではないとまで言っています。反対に「廃帝」(仲恭天皇)の項では、承久の乱について、「王者の軍(いくさ)と云ふは、咎(とが)あるを討じて、傷なきをばほろぼさず」とまで言い切っています。さらに承久の乱の義時追討について、「義時久く彼が権をとりて人望に背(そむ)かざりしかば、下にはいまだきず有といふべからず。一往のいはればかりにて追討せられんは、上(後鳥羽上皇)の御咎(ごとが)とや申すべき。謀叛おこしたる朝敵の利を得たるには、比量せられがたし」と鋭く批判しています。このように親房は、歴史を見通す冷徹な視線と、烈々とした気迫を保持しています。
 ここに載せたのは、三種の神器が象徴する君徳について説いた、巻頭に近い部分です。親房は『神皇正統記』のほぼ巻末に近く、「およそ政道と云ふことは所々にしるし侍れど、正直・慈悲を本として決断の力あるべきなり。これ天照太神(あまてらすおおみかみ)の明らかなる御教へなり」と結論のように記して、三種の神器に象徴される徳による政治の理想を述べています。ですから『神皇正統記』では「三種の神器」とそれに象徴される君徳が、一貫して重要な主題なのです。

昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『神皇正統記』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。