うたことば歳時記

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『十六夜日記』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2020-12-28 16:10:58 | 私の授業
十六夜日記


原文
 (十月)廿八日、伊豆の国府(こう)を出でゝ、箱根路にかゝる。いまだ夜深かりければ、
  玉くしげ箱根の山を急げどもなほ明けがたき横雲の空
足柄の山は道遠しとて、箱根路にかゝるなりけり。
 ゆかしさよそなたの雲をそばだてゝよそになしつる足柄  の山
 いと険(さか)しき山を下る。人の足もとゞまりがたし。湯坂といふなる。辛(かろ)うじて越え果てたれば、麓(ふもと)に早川といふ河あり。まことに速し。木の多く流るゝを、「いかに」と問へば、「海人(あま)の藻塩木(もしおぎ)を、浦へ出さむとて流す也」と言ふ。
  東路(あずまじ)の湯坂を越えて見渡せば塩木流るゝ早川の水
湯坂より浦に出でゝ、日暮かゝるに、猶(なお)泊るべき所遠し。伊豆の大島まで見渡さるゝ海面(うみづら)を、「いづことか言ふ」と問へば、知りたる人もなし。海人(あま)の家のみぞある。
  海人の住むその里の名も白浪のよする渚(なぎさ)に宿や借らま し
鞠子(まりこ)川といふ河を、いと暗くてたどり渡る。今宵は酒匂(さかわ)といふ所にとゞまる。「あすは鎌倉へ入(いる)べし」と言ふ也。

現代語訳
 (弘安二年十月)二八日、伊豆の国府を出発して、箱根峠越えの山路にさし掛かります。まだ夜が深いので、「箱根の山路を急いだが、まだ(箱の蓋(ふた)が開(あ)かないように)夜が明けきらず、空には横雲がたなびいている」と詠みました。(「玉くしげ」は櫛を入れるのこと箱で、「箱」に掛かる枕詞、「明け」は「開け」に通じ、「箱」の縁語)。足柄越えの山路は(箱根越えより)遠回りなので、(険しくても近道の)箱根越えの路に掛るわけです。「さても心ひかれる事だ(見たいものだ)。そちらの方角の雲を聳(そび)え立たせて(路を隠し)、私に無縁の他所(よそ)の山にしてしまった足柄の山よ」と詠みました。
 (箱根峠を越え)大層険しい山路を下ります。(急勾配で)立ち止まることすらできません。(箱根湯本の)湯坂というのだそうです。やっとのことで坂を降りきったところ、麓には早川という川があります。(その名の如く)実に流れの速い川です。多くの木材が流れているので、なぜかと問うたところ、漁民が塩を採るための(塩水を煮詰める燃料の)藻塩木(もしおぎ)を、海辺まで出すために流すということです。そこで「東国に至る東路の、湯坂を越えて見渡したところ、藻塩木が流れる下る、その名も早川という急流である」と詠みました。
 湯坂から海辺まで来ると、日が暮れかけているのに、泊まる予定の宿はまだ遠いのです。伊豆の大島まで見通せる海辺で、何という所かと(従者に)尋ねても、誰も知りません。漁民の家ばかりがあるのです。そこで「もしかしたら漁民の住むその名も知らない里の、白波ばかりが寄せくる海辺に、宿を借りることになるのだろうか」と詠みました。
 鞠子(まりこ)川(酒匂川)という川を、とても暗いので探るようにして渡ります。今夜は酒匂(さかわ)という所に宿ります。「明日はいよいよ鎌倉に着くことになるだろう」とのことです。

解説
 『十六夜(いざよい)日記(につき)』は、藤原為家(ためいえ)(定家の子)の側室である阿仏尼(あぶつに)(1222?~1283)が、弘安二年(1279)十月十六日に京を発ち、同月二九日に鎌倉に着くまでの十四日間の道中記と、鎌倉に着いてからの生活や、訴訟の成功を祈る長歌から成っています。当時の世の慣(なら)いで、女性である阿仏尼の本名はわかりません。阿仏尼は歌道の名門の藤原為家の妻というだけでなく、彼女自身も優れた歌人で、歌枕を見るごとに歌が詠まれ、また旅情が簡潔に描写されています。
 「十六夜(いざよい)」とは、満月の翌日の月のことです。あくまで平均値ですが、月の出は日ごとに五十分前後遅くなります(1日24時間÷1朔望月29.5日)。「いざよふ」とは「進むことをためらう」という意味で、月が出るのをためらっていると理解して、十六日の月を「いざよひの月」と呼ぶわけです。書名は十六日に京を出立したことに因み、後世に名付けられました。
 阿仏尼が旅に出た理由は、相続問題で鎌倉幕府に訴えるためでした。夫の為家は、正妻の子の為氏に播磨国細川荘を譲ったのですが、「不孝」を理由に相続を取り消し、阿仏尼との子である為相(ためすけ)に、藤原定家の日記である『明月記』などの文書と共に譲る譲状を書きました。このように親が一旦認めた相続を取消して他に譲ることは「悔返(くいかえし)」と呼ばれ、武家法である御成敗式目では、親の正当な権利として認められていました。しかし公家法では認められていません。そこで為家没後、為氏は公家法を根拠に引き渡しを拒みます。そこで阿仏尼は鎌倉幕府に直訴するべく、為家没の四年後、従者を伴って鎌倉に下ったのです。
 判決は阿仏尼の没後も二転三転し、最終的には為相が勝訴するのですが、阿仏尼が鎌倉に下ってから三四年後の正和(しようわ)二年(1313)の事で、時に為相は五一歳でした。しかしこのような経緯から、為相の娘が鎌倉の親王将軍である久明親王の妃となったり、為相自身も鎌倉歌壇の指導者となり、鎌倉で亡くなっています。その後為相の家は冷泉家を称し、現在もなお京都に現存唯一の公家住宅や多くの古典籍を伝えています。『明月記』が現在まで伝えられたのは、阿仏尼の執念があったからかもしれません。
 為相の墓と伝えられる宝篋印塔(ほうきよういんとう)は、今も鎌倉の浄光明寺(じようこうみようじ)にあります。そして横須賀線の線路を挟んで向かい合う英勝寺のそばには、相互に直接には視認できませんが、阿仏尼の供養塔があり、台座には「阿仏」と刻まれています。
 ここに載せたのは、箱根越えの場面です。前日に宿泊したのは、現在の三島市にあった伊豆の国府でした。ここからは東海道最大の難所である箱根峠か、金太郎で知られた足柄峠を越えなければなりません。足柄越えは箱根越えより傾斜がやや緩いのですが、旅程が一日長くなります。箱根越えならば山中に宿駅はなく、三島から次の酒匂まで、三六㎞を一気に一日で踏破しなければなりません。坂道ですから時速三㎞と仮定して、半日でも足りない行程です。新暦なら十二月三日のことですから、高齢の女性では不可能です。現在の箱根峠の標高は八四六mですから、三島との標高差は約八百mもあります。箱根峠で夜が明けたというのですが、その時期の日の出は六時半過ぎですから、三島からの距離を考えれば、午前三時頃には宿を出たと考えられます。
 峠を越えても難所は続きます。「人の足も留どまり難」い程の急坂を下っています。上り坂では疲労はしても、まだ立ち止まって休息できるだけよいのですが、膝が笑うような下り坂は、疲労どころか、危険ですらあるでしょう。
 昭和九年(1934)に箱根山を貫通する丹那トンネルができるまでは、東海道本線は足柄経由の御殿場線を通っていました。それも「お山の中ゆく汽車ぽっぽ・・・・機関車と機関車が前引き後押し」と童謡に歌われているように、機関車二両が前後を挟んで越えていました。江戸時代の俗謡にも「箱根八里」と唄われ、箱根越えは昔も今も交通の難所だったのです。
 やっとのことで峠を越えたのに、酒匂(さかわ)宿の手前の鞠子(まりこ)川(酒匂川)を渡らないうちに日が暮れてしまいました。雨の少ない時期ですから水量が少なく、歩いて渡れたのでしょうが、真冬の夜の川を素足で歩いて渡るのですから、どれ程か冷たかったことでしょう。『十六夜日記』は紀行文ですから、地理的な背景がわかると、より深く理解することができます。


昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『十六夜日記』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。