コロナに翻弄され続ける令和2年も間もなく大晦日を迎えます。そこで江戸時代の大晦日の悲喜こもごもの話を集めた『世間胸算用』を読んでみました。
世間胸算用
原文
門の戸の鳴るたびに女房びくびくして、「まだ帰られませぬ。さいさい足をひかせまして、かなしう御座る」と、いづれにも同じことわり言ひて帰しける。程なく夜半も過ぎ、明(あけ)ぼのになれば、掛乞(かけご)ひどもここに集まり、「亭主はまだかまだか」と、おそろしき声を立つる所へ、丁稚(でつち)、大息つぎて帰り、「旦那殿は助松(すけまつ)の中程にて、大男が四五人して、松の中へ引き込み、『命が惜しくば』といふ声を、聞き捨てにして逃げて帰りました」と言ふ。内義驚き、「おのれ、主の殺さるるに、男と生まれて浅間(あさま)しや」と泣き出せば、掛乞ひ、一人ひとり出て行く。
夜はしらりと明ける。この女房、人帰りし跡(あと)にて、さのみ嘆く気色(けしき)なし。時に丁稚、懐(ふところ)より袋投げ出し、「在郷もつまりまして、やうやうと銀三十五匁、銭六百、取ってまゐった」と言ふ。まことに手だてする家に使はれければ、内の者までも衒(かたり)同然になりける。
亭主は納戸のすみに隠れ居て、因果物語の書物、繰り返し繰り返し読み続けて、美濃の国不破の宿(しゆく)にて、貧(ひん)なる浪人の、年を取りかね、妻子刺し殺したる所、ことに哀れに悲しく、「いづれ死にもしさうなるもの」と、我が身につまされ、人知れず泣きけるが、「掛乞ひはみな了簡(りようけん)して去(い)にました」といふ声に、少し心定まりて、ふるひふるひ立ち出で、「さてさて今日一日に、年を寄らせし」と、悔(くや)みて帰らぬ事を嘆き、余所(よそ)には雑煮を祝ふ時分に、米買ひ焼木(たきぎ)ととのへ、元日も常の食(めし)炊(た)きて、やうやう二日の朝、雑煮して、仏にも神へも進じ、「この家の嘉例(かれい)にて、もはや十年ばかりも、元日を二日に祝ひます。神の折敷(おしき)が古くとも、堪忍(かんにん)をなされ」とて、夕飯(ゆうめし)なしにすましける。
現代語訳
門の戸を開ける音がするたびに、女房はびくびくして、「主人はまだ帰ってまいりません。再三、御足労をかけまして、すまないことでございます」と、(掛け買いの代金を催促に来た)掛取り(借金取り)達に、同じ様に言い訳をして帰らせていた。程なく夜中も過ぎて明け方になると、掛取り達がこの家に集まり、「亭主はまだ帰られぬか」とわめきたてていた。そこへ、丁稚が息を切らして帰って来て、「旦那様は助松(大阪府泉大津市の宿場)の中程で、大男四五人に松の中に引きずり込まれ、私は、命が惜しくばと言う声を聞き捨てにして、逃げ帰って釆ました」と言う。女房は驚いて、「おのれ、主人が殺されるというのに、男と生れながら、情けないことよ」と泣き出したので、掛取りは一人、また一人と出て行った。
しらじらと夜が明けたが、この女房、人が帰った後も、これと言って嘆く様子もない。時に丁稚が懐中から袋を投げ出し、「田舎も不景気になりまして、やっと銀三十五匁、銭六百を取り立てて参りました」と言う。まことに、(大晦日に)このような(ごまかしの)小細工をする家で使われては、奉公人まで詐欺師同然になってしまったものである。
亭主は納戸の奥に隠れていて、不運な話の物語を読み耽(ふけ)り、美濃国の不破の宿で、貧乏な浪人が年を越せずに妻子を刺し殺す場面が、ことに哀れで悲しく、「そのままでもいずれ死にそうなところを、(わざわざ殺さなくても)」と、我が身につまされ、人知れず泣いていたが、「借金取りはみな諦めて帰りました」という声を聞き、少しはほっとして、震えながら出て来た。そして、「さてさて、今日一日で年をとってしまった」と、後悔しても仕方のないこと嘆きながら、よその家では雑煮を祝う元日に、米を買ったり薪を調えたり、いつものように飯を炊き、ようやく二日の朝、雑煮を祝って神仏にも供え、「これがこの家の吉例で、もう十年ばかりも前から、元日を二日に祝います。神様に供える折数(杉板などで作る四角い盆)が古びていても、勘弁して下され」と、夕飯なしですませた。
解説
『世間胸算用』は、井原西鶴が晩年に著した短編小説集で、副題の「大晦日(おおつごもり)は一日千金」が示すように、大晦日に繰り広げられる、庶民の悲喜こもごもの20の話が収められています。江戸時代には現在と異なって、代金を月末や季節の末などにまとめて請求・支払いをする掛売・掛買が普通に行われていました。ですから大晦日(おおみそか)は商人や庶民にとっては一年の収支総決算の日であり、全ての精算を済ませなければ年を越すことができませんでした。そういうわけで、何としてでも回収しようとする貸し手と、何とかして支払いを逃れようとする借り手の攻防が、時にユーモアをまじえながら展開されることになります。ですから「胸算用」とは、貸し手と借り手が心中で思い巡らすやりくり算段を意味しているわけです。
その算段は様々で、家財道具を質に入れるのはまだ良心的。居留守を使って借金取りから逃れたり、遊郭に逃げ込んだり、鶏の首を切り落として借金取りを怖がらせたり、八本ある蛸の足を1~2本切り落として売り、発覚して信用を失ったり、追い剥ぎをした浪人が、あまりの大金に度肝を抜かれ、小さい包みだけを奪って逃げたら、中身は数の子だったと言う具合です。傑作なのは、親しい亭主同士が互いの家に乗り込み、借金取りが来ると偽の借金取りに成りすまし、「亭主のはらわたを抉(えぐ)り出してでも片をつける」とすごんで女房と大喧嘩(おおげんか)をすると、本物の借金取りが恐れをなしてを逃げ出してしまうという話です。
ここに引用したのは第巻三の第四話で、「神さへ御目違ひ」の一部です。神無月には、全国の神々が出雲大社に集まって相談し、年神(歳徳神)として歳暮に家々に派遣されていきます。ある年神が、堺の町の店構えのよい商家だと思って降臨したところ、見かけによらず、策を弄して借金取りを追い払う貧しい商家でした。それで年神への供物も貧弱なため、とうとう年神は四日目には逃げ出してしまいました。そうならないためにも、先祖以来の家業に精を出し、年神に不自由をさせないように稼がなければなりませぬ、という粗筋です。引用した部分は、借金取りが来たので亭主が納戸に隠れ、女房と丁稚が、店の主が強盗に襲われたと一芝居を打って、まんまと借金取りを帰らせたという話です。
雑煮で正月を祝う風習は、今も変わらずに行われています。一般的に雑煮の起原は、室町時代に「内臓をいたわり健康を保つ」ための料理として「保臓(ほうぞう)」と呼ばれ、それが各種の食材を煮ることから同音の「烹雑(ほうぞう)」と表記され、さらに同じ意味で「雑煮」と表記されるようになったと説明されています。NHKの人気番組「チコちゃんに叱られる」でも雑煮の雑は内臓のことと説明されていましたが、根拠もなくよくまあ出鱈目を言うものだと呆れてしまいました。しかしこれは明らかに出鱈目で、16世紀の公家の日記には、正月を「雑煮」で祝うという記述がいくつもあり、雑煮が出現する初めから「雑煮」と呼ばれています。そして江戸時代には広く庶民にも行われていました。
丁稚がやっとのことで「銀三十五匁、銭六百」を取り立ててきたということですが、江戸時代には小判一枚1両が銀50~60匁、銭4000文ですから、合計しても1両にはなりません。堺の商家としては貧しく、年神も逃げ出したくなったのでしょう。なお旧暦では月末が三十一日ということはなく、大晦日は十二月三十日です。そもそも「大晦日」は「大三十日(みそか)」なのですから。
井原西鶴の代表作としては、『好色一代男』や『日本永代蔵』がよく知られています。特に『日本永代蔵』に描かれた三井越後屋の新商法については、高校の日本史の授業で必ず触れられます。しかしあまりにも有名な場面であるため、敢えて『世間胸算用』から笑える面白い場面を選びました。
テキスト
○『世間胸算用』角川文庫
世間胸算用
原文
門の戸の鳴るたびに女房びくびくして、「まだ帰られませぬ。さいさい足をひかせまして、かなしう御座る」と、いづれにも同じことわり言ひて帰しける。程なく夜半も過ぎ、明(あけ)ぼのになれば、掛乞(かけご)ひどもここに集まり、「亭主はまだかまだか」と、おそろしき声を立つる所へ、丁稚(でつち)、大息つぎて帰り、「旦那殿は助松(すけまつ)の中程にて、大男が四五人して、松の中へ引き込み、『命が惜しくば』といふ声を、聞き捨てにして逃げて帰りました」と言ふ。内義驚き、「おのれ、主の殺さるるに、男と生まれて浅間(あさま)しや」と泣き出せば、掛乞ひ、一人ひとり出て行く。
夜はしらりと明ける。この女房、人帰りし跡(あと)にて、さのみ嘆く気色(けしき)なし。時に丁稚、懐(ふところ)より袋投げ出し、「在郷もつまりまして、やうやうと銀三十五匁、銭六百、取ってまゐった」と言ふ。まことに手だてする家に使はれければ、内の者までも衒(かたり)同然になりける。
亭主は納戸のすみに隠れ居て、因果物語の書物、繰り返し繰り返し読み続けて、美濃の国不破の宿(しゆく)にて、貧(ひん)なる浪人の、年を取りかね、妻子刺し殺したる所、ことに哀れに悲しく、「いづれ死にもしさうなるもの」と、我が身につまされ、人知れず泣きけるが、「掛乞ひはみな了簡(りようけん)して去(い)にました」といふ声に、少し心定まりて、ふるひふるひ立ち出で、「さてさて今日一日に、年を寄らせし」と、悔(くや)みて帰らぬ事を嘆き、余所(よそ)には雑煮を祝ふ時分に、米買ひ焼木(たきぎ)ととのへ、元日も常の食(めし)炊(た)きて、やうやう二日の朝、雑煮して、仏にも神へも進じ、「この家の嘉例(かれい)にて、もはや十年ばかりも、元日を二日に祝ひます。神の折敷(おしき)が古くとも、堪忍(かんにん)をなされ」とて、夕飯(ゆうめし)なしにすましける。
現代語訳
門の戸を開ける音がするたびに、女房はびくびくして、「主人はまだ帰ってまいりません。再三、御足労をかけまして、すまないことでございます」と、(掛け買いの代金を催促に来た)掛取り(借金取り)達に、同じ様に言い訳をして帰らせていた。程なく夜中も過ぎて明け方になると、掛取り達がこの家に集まり、「亭主はまだ帰られぬか」とわめきたてていた。そこへ、丁稚が息を切らして帰って来て、「旦那様は助松(大阪府泉大津市の宿場)の中程で、大男四五人に松の中に引きずり込まれ、私は、命が惜しくばと言う声を聞き捨てにして、逃げ帰って釆ました」と言う。女房は驚いて、「おのれ、主人が殺されるというのに、男と生れながら、情けないことよ」と泣き出したので、掛取りは一人、また一人と出て行った。
しらじらと夜が明けたが、この女房、人が帰った後も、これと言って嘆く様子もない。時に丁稚が懐中から袋を投げ出し、「田舎も不景気になりまして、やっと銀三十五匁、銭六百を取り立てて参りました」と言う。まことに、(大晦日に)このような(ごまかしの)小細工をする家で使われては、奉公人まで詐欺師同然になってしまったものである。
亭主は納戸の奥に隠れていて、不運な話の物語を読み耽(ふけ)り、美濃国の不破の宿で、貧乏な浪人が年を越せずに妻子を刺し殺す場面が、ことに哀れで悲しく、「そのままでもいずれ死にそうなところを、(わざわざ殺さなくても)」と、我が身につまされ、人知れず泣いていたが、「借金取りはみな諦めて帰りました」という声を聞き、少しはほっとして、震えながら出て来た。そして、「さてさて、今日一日で年をとってしまった」と、後悔しても仕方のないこと嘆きながら、よその家では雑煮を祝う元日に、米を買ったり薪を調えたり、いつものように飯を炊き、ようやく二日の朝、雑煮を祝って神仏にも供え、「これがこの家の吉例で、もう十年ばかりも前から、元日を二日に祝います。神様に供える折数(杉板などで作る四角い盆)が古びていても、勘弁して下され」と、夕飯なしですませた。
解説
『世間胸算用』は、井原西鶴が晩年に著した短編小説集で、副題の「大晦日(おおつごもり)は一日千金」が示すように、大晦日に繰り広げられる、庶民の悲喜こもごもの20の話が収められています。江戸時代には現在と異なって、代金を月末や季節の末などにまとめて請求・支払いをする掛売・掛買が普通に行われていました。ですから大晦日(おおみそか)は商人や庶民にとっては一年の収支総決算の日であり、全ての精算を済ませなければ年を越すことができませんでした。そういうわけで、何としてでも回収しようとする貸し手と、何とかして支払いを逃れようとする借り手の攻防が、時にユーモアをまじえながら展開されることになります。ですから「胸算用」とは、貸し手と借り手が心中で思い巡らすやりくり算段を意味しているわけです。
その算段は様々で、家財道具を質に入れるのはまだ良心的。居留守を使って借金取りから逃れたり、遊郭に逃げ込んだり、鶏の首を切り落として借金取りを怖がらせたり、八本ある蛸の足を1~2本切り落として売り、発覚して信用を失ったり、追い剥ぎをした浪人が、あまりの大金に度肝を抜かれ、小さい包みだけを奪って逃げたら、中身は数の子だったと言う具合です。傑作なのは、親しい亭主同士が互いの家に乗り込み、借金取りが来ると偽の借金取りに成りすまし、「亭主のはらわたを抉(えぐ)り出してでも片をつける」とすごんで女房と大喧嘩(おおげんか)をすると、本物の借金取りが恐れをなしてを逃げ出してしまうという話です。
ここに引用したのは第巻三の第四話で、「神さへ御目違ひ」の一部です。神無月には、全国の神々が出雲大社に集まって相談し、年神(歳徳神)として歳暮に家々に派遣されていきます。ある年神が、堺の町の店構えのよい商家だと思って降臨したところ、見かけによらず、策を弄して借金取りを追い払う貧しい商家でした。それで年神への供物も貧弱なため、とうとう年神は四日目には逃げ出してしまいました。そうならないためにも、先祖以来の家業に精を出し、年神に不自由をさせないように稼がなければなりませぬ、という粗筋です。引用した部分は、借金取りが来たので亭主が納戸に隠れ、女房と丁稚が、店の主が強盗に襲われたと一芝居を打って、まんまと借金取りを帰らせたという話です。
雑煮で正月を祝う風習は、今も変わらずに行われています。一般的に雑煮の起原は、室町時代に「内臓をいたわり健康を保つ」ための料理として「保臓(ほうぞう)」と呼ばれ、それが各種の食材を煮ることから同音の「烹雑(ほうぞう)」と表記され、さらに同じ意味で「雑煮」と表記されるようになったと説明されています。NHKの人気番組「チコちゃんに叱られる」でも雑煮の雑は内臓のことと説明されていましたが、根拠もなくよくまあ出鱈目を言うものだと呆れてしまいました。しかしこれは明らかに出鱈目で、16世紀の公家の日記には、正月を「雑煮」で祝うという記述がいくつもあり、雑煮が出現する初めから「雑煮」と呼ばれています。そして江戸時代には広く庶民にも行われていました。
丁稚がやっとのことで「銀三十五匁、銭六百」を取り立ててきたということですが、江戸時代には小判一枚1両が銀50~60匁、銭4000文ですから、合計しても1両にはなりません。堺の商家としては貧しく、年神も逃げ出したくなったのでしょう。なお旧暦では月末が三十一日ということはなく、大晦日は十二月三十日です。そもそも「大晦日」は「大三十日(みそか)」なのですから。
井原西鶴の代表作としては、『好色一代男』や『日本永代蔵』がよく知られています。特に『日本永代蔵』に描かれた三井越後屋の新商法については、高校の日本史の授業で必ず触れられます。しかしあまりにも有名な場面であるため、敢えて『世間胸算用』から笑える面白い場面を選びました。
テキスト
○『世間胸算用』角川文庫