以下の文章は、ある人のために日本古来の七草の意味を、わかりやすく解説したものです。七草については既に私のブログに「春の七草」と題して一文を公表してあり、それとほとんど重複しているのですが、特定の目的のために草したものですので、お許し下さい。
古より正月七日には、いわゆる「七草」の行事が行われてきました。一般には、この日の朝、「七草」を入れた粥を食べて、無病息災を祈るものとされています。中には、御節料理を食べたり御神酒を飲み過ぎて疲れた身体を、胃腸に優しい粥を食べて回復させるためと説明されることもあるようです。しかし本来の七草の行事は、そのようなものではありませんでした。
七草の行事には、唐伝文化の影響が見られます。しかし『万葉集』の巻頭歌が、若菜を摘む乙女に呼びかける雄略天皇の歌で始まっているように、早春に野辺に出て若菜を摘むことは、日本古来の風習でした。もちろん食用とするためなのですが、長く雪に閉ざされた厳しい冬から解放され、暖かい春を迎えた喜びの表現でもありました。
古い和歌には、そのような若菜摘の喜びの歌がたくさん残されています。いくつか例を上げてみましょう。
①春日野の飛火(とぶひ)の野守いでて見よ今幾日(いくか)ありて若菜摘みてむ(古今集 春 19)
②今日よりは荻の焼け原かき分けて若菜摘みにと誰を誘はむ(後撰集 春 3)
①の「春日野」や「飛火」(飛火野)は、古来若菜摘みの名所として知られた所で、あと何日くらい経てば若菜を摘めますかと、春日野の番人に尋ねている歌です。「てむ」は「・・・・できるだろうか」という意味で、強い期待を感じ取ることが出来ます。②は、野焼きのすんだ野原に、誰と一緒に若菜摘に出かけましょうかという意味で、はやる心がはみ出しているような歌です。春を意味する英語のspringと言う言葉には、「跳ねる」という意味があります。春という言葉には心が喜びで満たされているような語感があるように、春の若菜摘は、瑞々しい春の命の力を味わう、心の開放・解放だったのです。
このように早春の若菜摘は、初めのうちは春を迎える素直な喜びの表現だったことでしょう。しかし次第に色々な意義づけが行われたようです。
③春日野に若菜摘みつつ万代をいわふ心は神ぞ知るらむ (古今集 春 357)
④春の野の若菜ならねど君がため年の数をもつまんとぞ思ふ(拾遺集 賀 285)
③はその詞書きによれば、四十歳の長寿の祝いに際して詠まれた歌で、春日野で若菜を摘みながら長寿を祈る心は、神様、あなたは御存知でしょう、という意味です。つまり長寿を祈って若菜を摘んでいたことがわかります。④は、春の野の若菜ではありませんが、あなたのために若菜を摘むように年の端を積もうと思います、という意味です。おそらく、摘んだ若菜に添えて贈った歌なのでしょう。
それなら若菜を摘むことが、なぜ長寿を祈ることになるのでしょうか。それは「葉を摘む」ことが「年の端を積む」(年の端とは、年齢という意味)ことに音が通じるため、年を積み重ねて長生きをすることをかけているからです。また雪間を分けて生出る若菜には、瑞々しい命が溢れています。それを摘んで食べることによって、その命を摂取することができると信じたからでした。③は四十歳の祝いとして詠まれた歌ですが、試みに「初老」と辞書で検索してみて下さい。四十歳のことと書いてあるでしょう。それほどに人の命が短命だった時代ですから、長寿は神様の祝福以外の何物でもなかったのです。
若菜摘みの歌と言えば、百人一首に収められた光孝天皇の御製がよく知られています。
⑤きみがため春の野に出でて若菜摘む我が衣手に雪は降りつつ (古今集 春 21)
この歌には「・・・親王におましましける時に、人に若菜賜ひける御歌」という詞書が添えられています。このように、大切な人の長寿を寿ぐために若菜を摘み、歌を添えて贈るということが行われていたのです。祝福のために若菜を贈答し合うという習慣は、何と明るく嬉しいものなのでしょう。
若菜を摘むのは春も初めの頃ならいつでもできるのですが、特に正月の最初の子(ね)の日、つまり初子(はつね)の日には、「子(ね)の日の遊び」と称して、野外の遊宴行事が行われました。
⑥野辺に出でて子の日の小松引き見れば二葉に千世の数ぞこもれる (堀河院百首 子日 27)
この日、野辺に出て若菜を摘み、芽生えたばかりの松を根ごと引き抜き、持ち帰って植えるのです。これは正月の門松の起源の一つと見てよいでしょう。そして若菜を食べ、樹齢の長い松にあやかって長寿を祈るのです。これを「小松引」(こまつひき)とも称しました。正月子の日の遊宴の文献上の初見は『続日本紀』の天平十五年(743)ですから、奈良時代には宮中の行事になっていたのです。
それなら、七草の習慣にはどのような唐文化の影響があるのでしょうか。正月七日に行われる七種粥の風習について、『荊楚歳時記』(けいそさいじき、6世紀に成立した、長江中流域一帯の年中行事を記録した中国最初の歳時記)には「正月七日・・・・七種の菜を以て羮(あつもの、熱い吸い物)をつくる」と記されています。このように「七日の七草」については中国に起源があります。このような風習が唐から伝えられ、日本古来の若菜摘みの風習と習合して、平安時代までに次第に整えられていったものと考えられています。
『枕草子』の「正月一日は」の段には、「七日、雪間の若菜摘み青やかに」と記され、また同じく「七日の若菜を」の段には、前日の六日に人々が大騒ぎをしながら若菜を摘む様子が記されています。ただし粥ではなく、中国に倣って羮にして食べました。
七草の種類は、今日では一般にせり・なづな・ごぎょう・はこべ・ほとけのざ・すずな(蕪)・すずしろ(大根)といわれていますが、平安時代にはまだ一定していませんでした。鎌倉時代の初期に天台座主(天台宗延暦寺の最高位の僧)であった慈円の『拾玉集』という和歌集には、「今日ぞかしなづなはこべら芹摘みてはや七草の御物まゐらむ」という歌があります。鎌倉時代の『年中行事秘抄』という書物には、現在の七草が揃っています。平安から鎌倉時代にかけて、次第に整ったのでしょう。厄払いとか、胃腸に優しいなどという理由は、後で取って付けられたものなのです。
さあ、若菜摘みに出かけませんか。新暦の正月七日はまだ立春前で、若菜摘みには少々早すぎますから、本来の旧暦正月七日の方が良いでしょうね。それくらいの時期になれば、七草も摘みやすくなっていると思います。なずな(いわゆるぺんぺん草)くらいなら、都会でも生えているでしょう。河川敷に行けば、芥子菜くらいはあるでしょう。必ずしもいわゆる七草でなくともかまいません。大根と蕪と、それに何か青菜があればよいのです。人参を入れれば、彩りが美しくなるでしょう。そして粥にこしらえて、これまでの導きを神様に感謝し、祝福を互いに祈り合う。そんな日本古来の「七草」を、お家でも続けて下さい。千数百年も続いてきた良き伝統を、この世代で断絶させるわけにはいかないのです。
古より正月七日には、いわゆる「七草」の行事が行われてきました。一般には、この日の朝、「七草」を入れた粥を食べて、無病息災を祈るものとされています。中には、御節料理を食べたり御神酒を飲み過ぎて疲れた身体を、胃腸に優しい粥を食べて回復させるためと説明されることもあるようです。しかし本来の七草の行事は、そのようなものではありませんでした。
七草の行事には、唐伝文化の影響が見られます。しかし『万葉集』の巻頭歌が、若菜を摘む乙女に呼びかける雄略天皇の歌で始まっているように、早春に野辺に出て若菜を摘むことは、日本古来の風習でした。もちろん食用とするためなのですが、長く雪に閉ざされた厳しい冬から解放され、暖かい春を迎えた喜びの表現でもありました。
古い和歌には、そのような若菜摘の喜びの歌がたくさん残されています。いくつか例を上げてみましょう。
①春日野の飛火(とぶひ)の野守いでて見よ今幾日(いくか)ありて若菜摘みてむ(古今集 春 19)
②今日よりは荻の焼け原かき分けて若菜摘みにと誰を誘はむ(後撰集 春 3)
①の「春日野」や「飛火」(飛火野)は、古来若菜摘みの名所として知られた所で、あと何日くらい経てば若菜を摘めますかと、春日野の番人に尋ねている歌です。「てむ」は「・・・・できるだろうか」という意味で、強い期待を感じ取ることが出来ます。②は、野焼きのすんだ野原に、誰と一緒に若菜摘に出かけましょうかという意味で、はやる心がはみ出しているような歌です。春を意味する英語のspringと言う言葉には、「跳ねる」という意味があります。春という言葉には心が喜びで満たされているような語感があるように、春の若菜摘は、瑞々しい春の命の力を味わう、心の開放・解放だったのです。
このように早春の若菜摘は、初めのうちは春を迎える素直な喜びの表現だったことでしょう。しかし次第に色々な意義づけが行われたようです。
③春日野に若菜摘みつつ万代をいわふ心は神ぞ知るらむ (古今集 春 357)
④春の野の若菜ならねど君がため年の数をもつまんとぞ思ふ(拾遺集 賀 285)
③はその詞書きによれば、四十歳の長寿の祝いに際して詠まれた歌で、春日野で若菜を摘みながら長寿を祈る心は、神様、あなたは御存知でしょう、という意味です。つまり長寿を祈って若菜を摘んでいたことがわかります。④は、春の野の若菜ではありませんが、あなたのために若菜を摘むように年の端を積もうと思います、という意味です。おそらく、摘んだ若菜に添えて贈った歌なのでしょう。
それなら若菜を摘むことが、なぜ長寿を祈ることになるのでしょうか。それは「葉を摘む」ことが「年の端を積む」(年の端とは、年齢という意味)ことに音が通じるため、年を積み重ねて長生きをすることをかけているからです。また雪間を分けて生出る若菜には、瑞々しい命が溢れています。それを摘んで食べることによって、その命を摂取することができると信じたからでした。③は四十歳の祝いとして詠まれた歌ですが、試みに「初老」と辞書で検索してみて下さい。四十歳のことと書いてあるでしょう。それほどに人の命が短命だった時代ですから、長寿は神様の祝福以外の何物でもなかったのです。
若菜摘みの歌と言えば、百人一首に収められた光孝天皇の御製がよく知られています。
⑤きみがため春の野に出でて若菜摘む我が衣手に雪は降りつつ (古今集 春 21)
この歌には「・・・親王におましましける時に、人に若菜賜ひける御歌」という詞書が添えられています。このように、大切な人の長寿を寿ぐために若菜を摘み、歌を添えて贈るということが行われていたのです。祝福のために若菜を贈答し合うという習慣は、何と明るく嬉しいものなのでしょう。
若菜を摘むのは春も初めの頃ならいつでもできるのですが、特に正月の最初の子(ね)の日、つまり初子(はつね)の日には、「子(ね)の日の遊び」と称して、野外の遊宴行事が行われました。
⑥野辺に出でて子の日の小松引き見れば二葉に千世の数ぞこもれる (堀河院百首 子日 27)
この日、野辺に出て若菜を摘み、芽生えたばかりの松を根ごと引き抜き、持ち帰って植えるのです。これは正月の門松の起源の一つと見てよいでしょう。そして若菜を食べ、樹齢の長い松にあやかって長寿を祈るのです。これを「小松引」(こまつひき)とも称しました。正月子の日の遊宴の文献上の初見は『続日本紀』の天平十五年(743)ですから、奈良時代には宮中の行事になっていたのです。
それなら、七草の習慣にはどのような唐文化の影響があるのでしょうか。正月七日に行われる七種粥の風習について、『荊楚歳時記』(けいそさいじき、6世紀に成立した、長江中流域一帯の年中行事を記録した中国最初の歳時記)には「正月七日・・・・七種の菜を以て羮(あつもの、熱い吸い物)をつくる」と記されています。このように「七日の七草」については中国に起源があります。このような風習が唐から伝えられ、日本古来の若菜摘みの風習と習合して、平安時代までに次第に整えられていったものと考えられています。
『枕草子』の「正月一日は」の段には、「七日、雪間の若菜摘み青やかに」と記され、また同じく「七日の若菜を」の段には、前日の六日に人々が大騒ぎをしながら若菜を摘む様子が記されています。ただし粥ではなく、中国に倣って羮にして食べました。
七草の種類は、今日では一般にせり・なづな・ごぎょう・はこべ・ほとけのざ・すずな(蕪)・すずしろ(大根)といわれていますが、平安時代にはまだ一定していませんでした。鎌倉時代の初期に天台座主(天台宗延暦寺の最高位の僧)であった慈円の『拾玉集』という和歌集には、「今日ぞかしなづなはこべら芹摘みてはや七草の御物まゐらむ」という歌があります。鎌倉時代の『年中行事秘抄』という書物には、現在の七草が揃っています。平安から鎌倉時代にかけて、次第に整ったのでしょう。厄払いとか、胃腸に優しいなどという理由は、後で取って付けられたものなのです。
さあ、若菜摘みに出かけませんか。新暦の正月七日はまだ立春前で、若菜摘みには少々早すぎますから、本来の旧暦正月七日の方が良いでしょうね。それくらいの時期になれば、七草も摘みやすくなっていると思います。なずな(いわゆるぺんぺん草)くらいなら、都会でも生えているでしょう。河川敷に行けば、芥子菜くらいはあるでしょう。必ずしもいわゆる七草でなくともかまいません。大根と蕪と、それに何か青菜があればよいのです。人参を入れれば、彩りが美しくなるでしょう。そして粥にこしらえて、これまでの導きを神様に感謝し、祝福を互いに祈り合う。そんな日本古来の「七草」を、お家でも続けて下さい。千数百年も続いてきた良き伝統を、この世代で断絶させるわけにはいかないのです。