うたことば歳時記

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イチョウ(銀杏・公孫樹)

2016-12-10 18:56:43 | 植物
 もう今年も残すところ少なくなりました。この時期の私のおやつは、秋のうちに集めておいた椎の実と銀杏です。まるで冬眠する栗鼠のようだと、よく笑われています。銀杏を食べながら、ふとイチョウのことを書いてみようと思いました。

 秋の季節感のある古歌を読んでいると、もみぢはたくさん詠まれていますが、イチョウの歌を見たことがありません。私の膨大な歌ことばのデータにも引っ掛かってきません。ということは、平安時代には日本には存在しなかったと推測できます。もしあれば、あれほど美しい黄葉を、風流な歌人たちが見過ごすはずがないと思うからです。

 一方、鶴岡八幡宮の階段の左に聳えていたイチョウは、先年、強風で倒れてはしまいましたが、実朝が暗殺された頃から植えられていたとされています。一般には「公暁の隠れいちょう」と呼ばれて、実朝を暗殺するために、公暁がその背後に隠れていたと説明されていますが、当時の文献にそのような記述は皆無です。もっとも蔭に隠れていたとしても、せいぜい樹齢数十年ですから、当時はもっと細かったはずです。まあそれはともかくとして、鎌倉時代にはイチョウは存在しています。ということは、鎌倉時代の初め頃、イチョウは宋から伝えられたと推測できるでしょう。

 鎌倉時代以降は日本でもイチョウが普通に見られるようになったはずですが、中世の和歌にも詠まれることはありませんでした。精密に探せばあるかもしれませんが、あっても例外的なものでしょう。イチョウが本格的に文芸に取り上げられるのは、江戸期の俳諧以降のことです。

 舶来の樹木であることは、野生のイチョウがないことでも推察できます。野生のイチョウを見たことはないでしょう。神社仏閣の境内や、街路樹にはいくらでも見られるのに、野生ではない。つまりイチョウという樹木は、常に人の歴史と共にあったのです。

 そもそもイチョウという植物は、植物分類学の上では被子植物が出現する前から存在していた裸子植物で、古生代には存在していました。そして中生代にはイギリス、ヨーロッパ、アメリカの各地域において繁茂していたことは、化石によって証明されています。ところが裸子植物は次第に被子植物に取って替わられ、ここ数百万年前の氷河時代にほとんどの地域で絶滅し、中国の一部にしか自生しなくなっていました。それは中国南部の浙江省天目山 あたりであろうということです。

 それが宋代に日本に伝えられ、江戸時代の17世紀末に来日したケンペルという出島商館のドイツ人によって、初めてヨーロッパに紹介されました。現在世界各地に「生きている化石」として珍重されていますが、もとを辿れば、出島からケンペルが持ち出した銀杏によるものがかなりあるのです。もっともヨーロッパにもたらされた時期については諸説があるようですが、オランダの東洋貿易の拠点であったバタビアを経由して、18世紀にオランダに伝えられたことは間違いなさそうです。もし植物学に詳しい外国人でしたら、各地のイチョウ並木の黄葉を見たら、感激することでしょうね。

 ケンペルはイチョウをその著書でGinkgoと紹介しました。本来ならば銀杏(ギンキョウ)の音訳であるGinkyoを Ginkgoと誤って表記したためで、これが後にそのままイチョウの学名になってしまいました。もう少しでIchyohが学名になるところでしたのに、惜しいことをしたものです。