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クリスマスの歴史的背景

2016-12-12 14:12:01 | 歴史
 12月になると、街は早くもクリスマス・モードになっています。夜に市中を歩けば、あちこちの家庭で屋外のイルミネーションが点滅しています。外国人がそれを見たら、日本はキリスト教国だったのかと勘違いすることでしょう。

 それだけクリスマス熱に浮かされていながら、日本人は「クリスマス」そのものについてはほとんど知りません。まあ信仰心もないので無理もないのですが・・・・。せいぜいイエス・キリストの誕生日という程度でしょうが、実はここから既に間違っています。

 そもそもクリスマスとは、「Christの mass(ミサ)」に由来する言葉で、キリストにささげられたミサ、すなわち、救世主であるキリストの誕生を祝ってささげられた礼拝という意味です。クリスマスはイエス・キリストの降誕を祝う祭であって、イエス・キリストの誕生日という意味は一切ありません。

 クリスマスは省略して「X'mas」と書かれることがありますが、これはギリシア語「Χριστος (Christos)」の頭文字である「Χ(カイ、キー)、またはそれと形が同じラテン文字「X(エックス)」を Christ の省略形として用いたものです。

 イエスの誕生日ではないと言っても、主役がイエス・キリストであることに変わりありません。それなら彼はいつ生まれたのでしょうか。聖書には「イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになった・・・」(マタイ2・1)と記述されています。これをひとつの根拠にすれば、ヘロデ王の統治期間は紀元前37年から紀元前4年で、紀元前4年にヘロデは死んでいますから、イエスが生まれたのは紀元前4年以前でなければなりません。

 西暦は、イエスの誕生を紀元とするキリスト教暦で、533年にローマの僧院長ディオニシウス・エクシグウスが始めたものとされていますが、実際には少なくとも4年はずれてしまっているのです。しかしそれを責めることは出来ないでしょう。ちなみに紀元後を表す「A. D.」はラテン語の「Anno Domini」(主の年)の省略です。私は授業では、イエス・キリストは日本で言えば弥生時代の人だったと話しています。

 『新約聖書』にはイエス・キリストが生まれた日付や時期については、一切記述されていません。それなら12月25日という日は、何を根拠にしているのでしょうか。降誕を祝う12月25日のミサは、遅くとも345年にはローマの西方教会で始まっていました。12月25日ということについては、ミトラ教の冬至の祭を転用したものと考えられています。

 ミトラ教とは、インド・イランの古代からの神話に共通する太陽神ミトラを主神とする宗教で、ヘレニズムの文化交流を通じてローマ帝国に伝えられ、紀元前1世紀から5世紀にかけて大きな勢力を持つ宗教となりました。しかしその実体については、不明な部分が多くよくわかっていません。

 ローマ帝国時代において、ミトラ教では冬至を大々的に祝う習慣がありました。太陽神の信仰ですから、太陽がエネルギーを回復し始める日である冬至が祝われるのは、実に当然のことでした。太陽神ミトラが冬至に「生まれかわる」と信じられていたのです。この習慣を、遅れてローマ帝国に広められたキリスト教が吸収し、イエス・キリストの誕生祭を冬至に祝うようになったとされているのです。

 キリストは聖書ではしばしば「義の太陽」と表現され、太陽はキリストのシンボルでもありましたから、ごく自然なことでした。偶然かどうかわかりませんが、唐代に長安に伝えられたキリスト教は、「景教」と呼ばれました。「景」とは「ひかり」という意味です。

 日本では25日はクリスマスで、前日の24日は「クリスマス・イヴ」と称する前夜祭と理解されています。しかしこれはとんでもない誤解です。ユダヤ教の暦、ローマ帝国の暦、およびこれらを引き継いだ教会暦では、日没を一日の始まりとしています。

 その根拠は、聖書の冒頭に置かれている『創世記』の天地創造の神話における記述にあります。即ち、神が創造の業を終える一日ごとに、「夕あり、朝ありき」と書かれています。それによって一日は夕から始まる、つまり日没から始まることになっているのです。ですからクリスマスの一日は24日の日没から始まり、25日の日没に終わります。「イヴ」ということばは、夕を表すevenの語尾が省略されたもので、eveningもevenを語源としています。ですから24日の夜は前夜祭ではなく、クリスマスその日なのです。

 これから先は、世界史的な話が続きます。少々専門的な内容になりますが、イエスが生まれる前の歴史的背景についてお話ししましょう。

 アレクサンダー大王の死後、その帝国は、プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリア、アンティゴノス朝マケドニアの三つに分裂し、最終的にパレスチナの支配者となったのはセレウコス朝シリアでした。

 シリアはユダヤ教を禁止し、強圧的なヘレニズム化政策を取り、エルサレムの神殿にゼウス像を建立し、ユダヤ人にこれを礼拝することを強制しました。偶像礼拝を絶対にしないユダヤ人にそれを強制することは、日本人には想像を絶するほどの屈辱でありました。それでついにマタティアというユダヤ教の祭司が、シリア軍に対するゲリラ戦を組織して反乱を起こしたのです。紀元前166年のことです。そしてマタティアと息子達に率いられたユダヤ人たちはシリアを追い出し、400年ぶりに独立を勝ち取ったのでした。これをハスモン朝といい、約一世紀間ユダヤ国家は独立を維持しました。ただし紀元前63年、エルサレムがローマに占領され、一時的に独立を失ったことがありましたが、間もなく回復しています。
 
 その後、ハスモン朝は二派に分かれて争い、この二派がそれぞれ西のローマ帝国に援助を要請するに至ったため、大国ローマの介入を招くことになってしまいました。そしてハスモン朝の支配するユダヤ地方はある程度の自治を認められながらも、ローマのシリア属州の一部となったのでした。

 その後、ハスモン朝の部将アンティパスがローマに取り入って実権を握り、ユダヤ地方
の統治を委任されました。そしてその死後、紆余曲折を経て息子のヘロデが後継者となり、
「ユダヤ王」の称号を認められていました。これがヘロデ王朝で、イエスが生まれた頃にユダヤ地方を支配していたのは、この王朝だったのです。

 紀元前4年、イエスが生まれた時に王であったヘロデが死にますが、その領地は息子たちにより分割統治されました。そしてユダヤ地方を相続統治したのはヘロデ・アケラオでした。しかしアケラオは失政を重ねたため、ユダヤはローマ総督による直轄支配となっていました。イエスが生きていた時代は、ユダヤ地方はこんな情勢下にありました。そして後にイエスは、このローマによって十字架に処刑されることになるのです。

 このような歴史的背景の中でイエス・キリストが出現するのですが、「イエス」が名で、キリストが姓というわけではありません。「キリスト」とはギリシア語で救世主を意味しており、旧約経書の言語であるヘブライ語では「メシア」といいます。実際の発音は「マシァッハ」と表記しておきましょう。日本語にはない子音があるので、正確には表記できません。

 「メシア」とはヘブライ語で油を注ぐことを意味する「マサッハ」という動詞から派生した言葉で、「油を注がれた者」を意味しています。古代イスラエルでは油は神の霊の象徴であり、祭司長は頭に油を注がれることによって聖職に就任し、王も注油によって即位しました。また「メシア」は聖書では一般に終末に待望される救済者とも理解され、日本語では「救世主」と訳されています。

 イスラエル民族の長い歴史の中では、民族的苦難に遭遇すると、イスラエル王国の繁栄の頂点であったダビデ王(在位は紀元 前1000~961年)の血を引く王の出現を期待する、民族の願望、つまりメシアを待望する風潮がしばしば現れました。紀元前63年、ローマのポンペイウスがエルサレムを占領し、約80年続いていたユダヤ人のハスモン朝の支配が終わると、ダビデ王の子孫からメシアが出現し、イスラエルの繁栄を回復するというメシア待望論が急速に台頭してきます。

 このダビデ王とは、イスラエル王国の第二代の王で、紀元前1000~961年ころに在位していました。彼は羊飼いから身をおこして初代イスラエル王サウルに仕え、サウルがペリシテ人と戦って戦死した後、第二代の王位に就くと、要害の地エルサレムに都を置いて全イスラエルの王となります。そして後にメシア待望が強まると、イスラエルを救うメシアはダビデの子孫から出ると信じられるようになっていました。

 ですからイエスが生まれる頃には、ダビデ王の子孫から約束されたメシアがいつ出現するのかということが、ローマの支配に苦しむユダヤ人たちの共通する期待と祈りになっていたのです。そしそのような期待の中で、イエスが出現するわけです。
 
 マタイによる福音書は、旧約聖書の預言がイエスにおいて成就したという理解を根底に置いて記述されていて、福音書の中ではもっともユダヤ的・ヘブライ的な個性を持っています。ですから、その第一章では、アブラハムからダビデ王を経てイエスに至る系図を延々と記述しているのです。そういうわけで、新約聖書では、イエス・キリストはしばしば「ダビデの子」と言及されています。

 キリスト教は、このイエスこそ待ち焦がれたメシアと信じる宗教であり、ユダヤ教は、イエスを期待されたメシアとは認めず、なおメシアの出現を信じて待ち続ける宗教であるという見方も出来ることになります。

 私は一応キリスト教徒ですので、クリスマスは厳かなうちに静に迎えます。世間の「クリスマス狂騒」に迎合したくないという矜持があるからです。