唐突ですが、何年も前のことです。両陛下がある福祉施設をお訪ねになり、お帰りになるので車にお乗りになりました。その時、皇后様が見送る人達の方を御覧になりながら、笑顔で両手の拳を握り、脇を引き締めるように手前に引かれました。
その時はそれが何を意味するかわからなかったのですが、なぜかその仕草が印象に残り、記憶していました。そして数年経った頃、勤務校で手話の授業があり、担当の先生にそのことを尋ねたところ、それは「がんばってね」ということを意味する手話だったことがわかりました。これは私の小さな体験ですが、手話というものが「口ほどにものを言う」ことを知ったのでした。
このことがきっかけで手話の大切さを認識したのですが、ある時仏像を見ていて、いろいろな手のポーズがあることを再発見し、これは仏様が手話で拝む人に語りかけているのではないかと思うようになりました。そう思って改めて拝観すると、今まで見えなかったものが見え、聞こえなかったことが聞こえてくるように思い、仏像を見ることが楽しくなりました。もっともこういう私はキリスト教徒なのですが、厳かな気持ちで拝観する心に、宗教・宗派の違いは関係ありません。否、信心があるからこそ、そのような気持ちで接することが出来るのかもしれません。キリスト教徒なのに仏像が大好きなのは可笑しいですか?
仏像の手指の仕草は、「印相」と呼ばれ、それぞれにみな意味があります。ですからせっかく拝観しても、その意味するところを理解しなければ、仏様が語っている声ならざる声を聞かないことになってしまいます。なんと勿体ないことでしょう。
目の前にあるものは、金属や木や粘土や石によって人の姿に似せて造られた物体です。いずれ風化し、壊れ、消えてゆくものです。外国人が見れば偶像礼拝と見えるかもしれませんが、私たち日本人が仏像の前で手を合わせる時、物体としての像を超人的な存在として拝んでいるわけではありません。この肉体の目には見えない霊的実存としての仏様をありありと実感したいがため、物体としての像は作りますが、拝んでいるのはそこに象徴される霊的実存としての仏様なのです。石や木を拝んでいるわけではありません。ですから仏像の前に厳かな気持ちで立つ時、その仕草によって何が語られているのかを知ることはとても大切なことなのです。
仏様の仕草でどのようなポーズが多いのかはわかりませんが、思い浮かぶままに書いてみましょう。
阿弥陀様の仕草では、坐禅をしているかのような姿勢で、両掌の指先を腹の前で上下に重ね合わせ、親指と人差指で輪を作っていることがあります。このような仕草は阿弥陀の定印(じょういん)と呼ばれ、悟りに至っている至高の姿を表しています。よく知られているのは平等院鳳凰堂の阿弥陀像や、鎌倉の大仏があります。すると阿弥陀様が坐っているところが極楽浄土ということになるわけですね。
さあ、この手話をどのように聞き取りましょうか。正解があるわけではありません。まあ人それぞれでよいとは思いますが、私は同じポーズをとって、静かに瞑想します。「お前は、極楽における悟りを死後の世界のことと思っているのか。そうではない。今まさにお前がいるその場所が極楽浄土である。心を清らかに保って、声ならざるわが声を聴け」。そんなふうに声をかけて下さっているるように感じました。
阿弥陀様の仕草でよく見かけるものに、右掌を胸の高さで前方に向け、左掌を下におろして前の方に向けているものがあります。この右手の仕草は「施無畏印」(せむいいん)と呼ばれるもので、読んで字の如く、阿弥陀様が恐れを取り除いて平安を与えようとなさる姿です。決して何気なく手を上げているわけではありません。宗教的には、畏怖の対極は平安です。阿弥陀様は「恐るることなかれ。我、汝に平安を与えん」と、手話で語りかけるのです。ですから人生の大きな問題を抱えて悩み苦しんでいる人は、その仕草の阿弥陀様の前では、「阿弥陀様、どうぞ私の心の恐れを取り除き、極楽であなたの傍らにいるような平安の中に入れて下さい」と祈るのです。
左掌を下して前に向ける仕草は、「与願印」(よがんいん)と呼ばれるもので、これも読んで字の如く、願いを与えようとして下さる姿です。願いを与える、つまり「汝、何を願うや」と語りかけている手話なのです。こういう場合の願いとは、あくまでも信仰的な事柄ですから、宝籤が当たりますようになどというような、個人の悦楽などは論外です。鉄の斧をなくしたのに、金の斧をなくしたと偽る心は、阿弥陀様には見抜かれてしまいます。
施無畏印と与願印の組み合わせは、最もよく目にする仕草かもしれません。この両手の仕草を合わせて、「来迎印」と言うこともあります。来迎とは、念仏の行者を極楽浄土に迎えにやって来ることで、阿弥陀様を信じる人にとっては究極の歓びでしょう。
この場合、親指と人差し指・中指・薬指のいずれかと輪を作っている場合がありますが、それは極楽浄土内のランク付けを意味しています。全部で9段階あるのですが、親指と薬指で輪を作る、最も下位の仕草だけは覚えておきましょう。阿弥陀様は、「往生を願うお前の罪業の深さには呆れないわけではないが、だからこそ救い上げたいものよ。極楽ではあるが、最下層でもよいか?」とおっしゃっているのかもしれません。
そのような仕草の阿弥陀様の前では、罪業の深い私のような者でも、阿弥陀様の本願にすがって、最下位のランクでもよいですから、極楽浄土にお救い下さいと祈るほかはありません。
珍しい仕草として、阿弥陀様が胸の前で両手の指でそれぞれに輪を作っている仕草があります。これは説法印(転法輪印)といいます。仏様が説法している姿を表しています。この仕草の像は大変珍しく、もし拝観することがあれば、貴重な体験だと思って下さい。
このような仕草の阿弥陀様は、肉体の耳には聞こえませんが、阿弥陀様は何かをしきりに語っていらっしゃるのです。その声はこちらの心の雑念を払わなければ聞こえない声なのでしょう。煩悩の心、我執の心を捨て去り、「阿弥陀様、どうぞお聴かせ下さい。お従いいたします。」というような心で祈らなければ、声ならざる声は聞こえません。
金剛界の大日如来は、忍者が呪文を唱える時に結ぶような仕草をしています。左手をこぶしに握り、人指し指だけを立て、それを右手で握るのですが、これを智拳印といいます。左手は衆生を、それを包む右手は仏を表すということですが、インドでは伝統的に左手は不浄であり、右手は清浄と考えられていたことと関係があるのでしょう。
金剛界の大日如来は、宇宙の中心にある真理そのものを象徴する仏様で、仏の中の仏と言うことが出来るでしょう。そもそも「金剛」とはダイヤモンドのことで、大日如来の智慧である「金剛智」が、決して傷付いたり揺らぐことのない絶対的なものであることを意味しています。ですから、智拳印の仕草の大日様は、絶対的な智慧をもって、「全てを見通しているぞ」とおっしゃっているのでしょう。絶対的な智慧の前では、人間の小賢しい智慧など見透かされてしまいます。誤魔化しはききません。そういう意味では、偽りの心を持っている時には、畏ろしい仏様であります。しかし煩悩具足の人間を、そのままで仏の絶対的な智慧で包んで下さるのですから、煩悩即菩提とでも言いましょうか、即身成仏の密教的奥義を象徴しているのかもしれません。
合掌している仕草の仏様もたくさんあります。特に菩薩様に多く見られますね。合掌する姿を前にすると、拝観する側も自ずと厳かな気持ちになり、こちらも思わず合掌してしまいます。以前はあまり感じなかったのですが、仏様の合掌する姿は、多くの言葉を物語っていることに気が付きました。
本来ならば、拝む私達が合掌するのですが、拝まれる仏様の方がさきに合掌しているのです。拝んでいる者に拝まれているのです。立場が逆だとは思いませんか。仏様はなぜ煩悩だらけの私のような者に対して、合掌されるのでしょうか。ある時はっと気が付きました。私の魂の中には、仏性の種が密かに蔵されている。まだ芽生えずにいるので、私自身も気が付いていないのですが、それが芽生えて成長すれば、私のような者でも菩薩行をすることができるようになる。仏様は私の心の中の仏性に対して合掌して下さっているのだ、と。
仏様の指の仕草には、まだまだ多くの種類と変化があります。とてもそれら全てについて、仏教徒でもない私が説明することは出来ません。しかし仏像は美術品として鑑賞するものではなく、信仰の対象として拝むものです。その時ただ拝むのではなく、仏様が声ならざる声で語って下さることを聴こうという心で拝むことが大切であるという趣旨は、お伝えできたのではないかと思います。
なお、私のブログ「うたことば歳時記」には、既に「古寺巡礼の基礎知識(仏像編)」を公開してありますが、内容が重複している部分があることは御容赦下さい。また併せてそちらをも御覧下さい。仏像を拝観する際に、きっと役に立つと思います。
その時はそれが何を意味するかわからなかったのですが、なぜかその仕草が印象に残り、記憶していました。そして数年経った頃、勤務校で手話の授業があり、担当の先生にそのことを尋ねたところ、それは「がんばってね」ということを意味する手話だったことがわかりました。これは私の小さな体験ですが、手話というものが「口ほどにものを言う」ことを知ったのでした。
このことがきっかけで手話の大切さを認識したのですが、ある時仏像を見ていて、いろいろな手のポーズがあることを再発見し、これは仏様が手話で拝む人に語りかけているのではないかと思うようになりました。そう思って改めて拝観すると、今まで見えなかったものが見え、聞こえなかったことが聞こえてくるように思い、仏像を見ることが楽しくなりました。もっともこういう私はキリスト教徒なのですが、厳かな気持ちで拝観する心に、宗教・宗派の違いは関係ありません。否、信心があるからこそ、そのような気持ちで接することが出来るのかもしれません。キリスト教徒なのに仏像が大好きなのは可笑しいですか?
仏像の手指の仕草は、「印相」と呼ばれ、それぞれにみな意味があります。ですからせっかく拝観しても、その意味するところを理解しなければ、仏様が語っている声ならざる声を聞かないことになってしまいます。なんと勿体ないことでしょう。
目の前にあるものは、金属や木や粘土や石によって人の姿に似せて造られた物体です。いずれ風化し、壊れ、消えてゆくものです。外国人が見れば偶像礼拝と見えるかもしれませんが、私たち日本人が仏像の前で手を合わせる時、物体としての像を超人的な存在として拝んでいるわけではありません。この肉体の目には見えない霊的実存としての仏様をありありと実感したいがため、物体としての像は作りますが、拝んでいるのはそこに象徴される霊的実存としての仏様なのです。石や木を拝んでいるわけではありません。ですから仏像の前に厳かな気持ちで立つ時、その仕草によって何が語られているのかを知ることはとても大切なことなのです。
仏様の仕草でどのようなポーズが多いのかはわかりませんが、思い浮かぶままに書いてみましょう。
阿弥陀様の仕草では、坐禅をしているかのような姿勢で、両掌の指先を腹の前で上下に重ね合わせ、親指と人差指で輪を作っていることがあります。このような仕草は阿弥陀の定印(じょういん)と呼ばれ、悟りに至っている至高の姿を表しています。よく知られているのは平等院鳳凰堂の阿弥陀像や、鎌倉の大仏があります。すると阿弥陀様が坐っているところが極楽浄土ということになるわけですね。
さあ、この手話をどのように聞き取りましょうか。正解があるわけではありません。まあ人それぞれでよいとは思いますが、私は同じポーズをとって、静かに瞑想します。「お前は、極楽における悟りを死後の世界のことと思っているのか。そうではない。今まさにお前がいるその場所が極楽浄土である。心を清らかに保って、声ならざるわが声を聴け」。そんなふうに声をかけて下さっているるように感じました。
阿弥陀様の仕草でよく見かけるものに、右掌を胸の高さで前方に向け、左掌を下におろして前の方に向けているものがあります。この右手の仕草は「施無畏印」(せむいいん)と呼ばれるもので、読んで字の如く、阿弥陀様が恐れを取り除いて平安を与えようとなさる姿です。決して何気なく手を上げているわけではありません。宗教的には、畏怖の対極は平安です。阿弥陀様は「恐るることなかれ。我、汝に平安を与えん」と、手話で語りかけるのです。ですから人生の大きな問題を抱えて悩み苦しんでいる人は、その仕草の阿弥陀様の前では、「阿弥陀様、どうぞ私の心の恐れを取り除き、極楽であなたの傍らにいるような平安の中に入れて下さい」と祈るのです。
左掌を下して前に向ける仕草は、「与願印」(よがんいん)と呼ばれるもので、これも読んで字の如く、願いを与えようとして下さる姿です。願いを与える、つまり「汝、何を願うや」と語りかけている手話なのです。こういう場合の願いとは、あくまでも信仰的な事柄ですから、宝籤が当たりますようになどというような、個人の悦楽などは論外です。鉄の斧をなくしたのに、金の斧をなくしたと偽る心は、阿弥陀様には見抜かれてしまいます。
施無畏印と与願印の組み合わせは、最もよく目にする仕草かもしれません。この両手の仕草を合わせて、「来迎印」と言うこともあります。来迎とは、念仏の行者を極楽浄土に迎えにやって来ることで、阿弥陀様を信じる人にとっては究極の歓びでしょう。
この場合、親指と人差し指・中指・薬指のいずれかと輪を作っている場合がありますが、それは極楽浄土内のランク付けを意味しています。全部で9段階あるのですが、親指と薬指で輪を作る、最も下位の仕草だけは覚えておきましょう。阿弥陀様は、「往生を願うお前の罪業の深さには呆れないわけではないが、だからこそ救い上げたいものよ。極楽ではあるが、最下層でもよいか?」とおっしゃっているのかもしれません。
そのような仕草の阿弥陀様の前では、罪業の深い私のような者でも、阿弥陀様の本願にすがって、最下位のランクでもよいですから、極楽浄土にお救い下さいと祈るほかはありません。
珍しい仕草として、阿弥陀様が胸の前で両手の指でそれぞれに輪を作っている仕草があります。これは説法印(転法輪印)といいます。仏様が説法している姿を表しています。この仕草の像は大変珍しく、もし拝観することがあれば、貴重な体験だと思って下さい。
このような仕草の阿弥陀様は、肉体の耳には聞こえませんが、阿弥陀様は何かをしきりに語っていらっしゃるのです。その声はこちらの心の雑念を払わなければ聞こえない声なのでしょう。煩悩の心、我執の心を捨て去り、「阿弥陀様、どうぞお聴かせ下さい。お従いいたします。」というような心で祈らなければ、声ならざる声は聞こえません。
金剛界の大日如来は、忍者が呪文を唱える時に結ぶような仕草をしています。左手をこぶしに握り、人指し指だけを立て、それを右手で握るのですが、これを智拳印といいます。左手は衆生を、それを包む右手は仏を表すということですが、インドでは伝統的に左手は不浄であり、右手は清浄と考えられていたことと関係があるのでしょう。
金剛界の大日如来は、宇宙の中心にある真理そのものを象徴する仏様で、仏の中の仏と言うことが出来るでしょう。そもそも「金剛」とはダイヤモンドのことで、大日如来の智慧である「金剛智」が、決して傷付いたり揺らぐことのない絶対的なものであることを意味しています。ですから、智拳印の仕草の大日様は、絶対的な智慧をもって、「全てを見通しているぞ」とおっしゃっているのでしょう。絶対的な智慧の前では、人間の小賢しい智慧など見透かされてしまいます。誤魔化しはききません。そういう意味では、偽りの心を持っている時には、畏ろしい仏様であります。しかし煩悩具足の人間を、そのままで仏の絶対的な智慧で包んで下さるのですから、煩悩即菩提とでも言いましょうか、即身成仏の密教的奥義を象徴しているのかもしれません。
合掌している仕草の仏様もたくさんあります。特に菩薩様に多く見られますね。合掌する姿を前にすると、拝観する側も自ずと厳かな気持ちになり、こちらも思わず合掌してしまいます。以前はあまり感じなかったのですが、仏様の合掌する姿は、多くの言葉を物語っていることに気が付きました。
本来ならば、拝む私達が合掌するのですが、拝まれる仏様の方がさきに合掌しているのです。拝んでいる者に拝まれているのです。立場が逆だとは思いませんか。仏様はなぜ煩悩だらけの私のような者に対して、合掌されるのでしょうか。ある時はっと気が付きました。私の魂の中には、仏性の種が密かに蔵されている。まだ芽生えずにいるので、私自身も気が付いていないのですが、それが芽生えて成長すれば、私のような者でも菩薩行をすることができるようになる。仏様は私の心の中の仏性に対して合掌して下さっているのだ、と。
仏様の指の仕草には、まだまだ多くの種類と変化があります。とてもそれら全てについて、仏教徒でもない私が説明することは出来ません。しかし仏像は美術品として鑑賞するものではなく、信仰の対象として拝むものです。その時ただ拝むのではなく、仏様が声ならざる声で語って下さることを聴こうという心で拝むことが大切であるという趣旨は、お伝えできたのではないかと思います。
なお、私のブログ「うたことば歳時記」には、既に「古寺巡礼の基礎知識(仏像編)」を公開してありますが、内容が重複している部分があることは御容赦下さい。また併せてそちらをも御覧下さい。仏像を拝観する際に、きっと役に立つと思います。