私事で恐縮であるが、私の育ったかつての浦和市のはずれにある田園が舞台となった童謡がある。それは『案山子』という歌で、明治44年(1911年)『尋常小学唱歌』第二学年用に掲載された。
1、山田の中の一本足の案山子 天気のよいのに蓑笠着けて
朝から晩までただ立ちどおし 歩けないのか山田の案山子
2、山田の中の一本足の案山子 弓矢で威して力んで居れど
山では烏がかあかと笑う 耳が無いのか山田の案山子
作詞は武笠三(さん? あつむ?)、作曲は山田源一郎によるとされているが、作曲については疑問視する説もある。そういうことについてはその道の研究者でもない私の及ばないところである。ただ作詩者はさいたま市三室にある氷川女体神社の神官を勤める家柄の出身で、彼が見た田園風景は、その神社の前に広がる見沼田んぼということになっている。現在、氷川女体神社のそばには案山子公園という公園があり、案山子の像も立っている。
氷川女体社周辺はは、かつて私が高校生の頃、部活動の長距離走のコースであったから毎日のように眺めていた、私にとっては懐かしい景色である。その頃は「案山子」の舞台となったことなど全く知らなかったが、ある日そのことを知りとても驚いた。それは歌詞では「山田の中の」となっているのに、どこにも「山田」と呼べるような場所はないからである。目の前に見えるのは、享保の改革で新田に開発された見渡す限りの水田である。強いて言えば、神社が立地している大宮台地の末端を浸食して、ヤツデの葉のように入り込んでいる谷田がある程度である。神社周辺で遊んで育っただけに、「山田の中の」という言葉には違和感があった。しかしまあ大した問題ではない。ついでのことに少々脱線するが、「三室」という地名は全国にあるが、「神南備の御室」と古歌にしばしば詠まれたように、神の鎮まる場所を示す由緒ある地名である。
歌詞の内容はわかりやすく、特に解説を要することもなさそうである。私が興味を持ったのは、歌そのものではなく、案山子そのもので、明治の頃には弓を構える姿であったことがわかる。また「烏がかあかと笑う」という歌詞も、なかなか愉快である。稲を啄むのは雀であろうが、雀でなく烏であるところに作詩者の意図がある。「カーカー」という烏の鳴き声を、古来からの笑い声の形容である「呵々」と聞いているのである。子供にそこまで理解するのは無理としても、大人になってから改めて歌詞を読んでみると、作詞者のユーモアがわかってくる。
さてその案山子であるが、その目的は、農作物を害する鳥獣を、獣肉を焼き焦がした臭いを嗅がせ、その悪臭で退散させるためのもの。そして古くは「かがし」と言ったものが、「かかし」となったと、多くの書物や情報に説明されている。本当かいな。自分で確認もせず、みな受け売りをしているのではないかと、私は素直には納得できない。焦げた獣肉を串刺しにして置いておけば、夜の間に獣が喰ってしまうのではないか。実際我が家では、毎晩のように狸が生ごみを漁りに来る。焦げた肉などを置いておけば、反って獣を呼び寄せるようなものである。またそのように思うもう一つの理由は、案山子の起源はかなり古くまで遡るが、古くは「かかし・かがし」ではなく、「そほづ」と呼ばれいたからである。
この「そほづ」が文献に登場するのは、何と『古事記』まで遡る。少々わかりにくいが、まずは原文のまま引用し、現代訳をしてみよう。
「故、大國主、出雲の御大の御前に坐す時、波の穗より天の羅摩船に乗りて、蛾の皮を内剥に剥ぎて衣服にして、帰り来る神ありき。ここにその名を問はせども答へず、また所従の神に問はせども、皆「知らず」と白しき。ここに谷蟆白しつらく、「こは崩彦(くえひこ)ぞ必ず知りつらむ。」とまをしつれば、すなはち崩彦を召して問はす時に、「こは神産巣日の御子、少名毘古那神ぞ」と答へ白しき。故ここに神産巣日の御祖命に白し上げたまへば、答へ告りたまひしく、「こは実に我が子ぞ。子の中に、我が手俣より漏きし子ぞ。故、汝葦原色許男命と兄弟となりて、その国を作り堅めよ。」とのりたまひき。故、それより、大穴牟遲と少名毘古那と、二柱の神相並ばして、この国を作り堅めたまひき。然て後は、その少名毘古那神は、常世国國に度りましき。故、その少名毘古那神を顯はし白せし謂はゆる崩彦は、今著に山田のそほどといふぞ。この神は、足は行かねども、侭に天の下の事を知れる神なり。」
ある日、大国主神が海岸で、天の羅摩船(あめのかがみぶね)に乗って来た、蛾のようなものを着た小さな神に出会った。名を聞いても答えず、また誰もその名を知らない。そこへ谷蟆(たにくく、ヒキガエル)がやって来て、崩彦(くえひこ)ならきっと知っているだろうと言う。そこで早速、崩彦に尋ねてみると、「この神は神産巣日神の御子、少名毘古那神である」という。そこで神産巣日神に確認してみると「間違いなく我が子である。この子は余りに小さすぎて生まれてすぐに手のひらから零れ落ちてしまった。少名毘古那よ。お前は葦原色許男命(あしはらのしこお、大国主)と協力してこの国の国作りを行なえ」と言った。そして国作りを終えて、少名毘古那はまた常世の国に帰っていった。少名毘古那を知っていた崩彦は、「山田のそほど」という。この神は足が不自由で歩けないが、世の中の事を悉く知っている神である。
話はこれだけなのであるが、以上のことから、山田には歩くことはできないが何でも知っている「そほど」という神がいると理解されていたと推測できる。しかしただこれだけでは、直ちに案山子に結び付けられない。もうすこし材料が欲しい。
そこでもう少し後の史料捜してみると、その「そほづ」を詠んだ古い歌がある。
①あしびきの山田のそほづおのれさへ我をほしといふ憂(うれ)はしきこと (古今集 雑体 1027)
②あけくらしまもるたのみをからせつゝたもとそほづの身とぞなりぬる (後撰集 秋 268)
③山田もるそうづの身こそあはれなれ あきはてぬればとふ人もなし (続古今和歌集 雑 僧都玄賓)
①は、山田のそほづよ、おまえまでが私を欲しいというのか。困ったことだ、という意味。②はなかなかややこしい歌である。前書きによれば、二人の男をその気にさせていた女が、片方の男に心を寄せたので、振られた男がその女におくった歌である。明けても暮れても番をしていた田の実(稲のこと、「頼み」を掛ける)を他人に刈取らせて、私は袂を濡らして泣くそほづのような身となってしまったことだ、という。「田の実」と「あてにさせる」という意味の「頼み」を掛け、「そほづ」と「濡れる」ことを意味する「そほつ」を掛けていて、二重構造となっている。振られてしまった我が身を、四六時中、田を見張っていても、他人に稲を刈り取られてしまい、役に立たないそうづになぞらえているのである。ここでは「そほづ」は嘲笑の対象となっているが、童謡でも烏に馬鹿にされるという点で、共通点がある。③は、訪ねてくる人のいない侘びしさを、自分の身分である「僧都」を「そうづ」に掛け、山田に寂しげに立っているそうづになぞらえている。
『続古今和歌集』は13世紀半、後嵯峨上皇の命による勅撰集であるから、要するに鎌倉期までは、田の稲を護る呪いとして、「そほづ」「そうづ」と呼ばれるものが田に立てられ、時に孤独の比喩や嘲笑の対象として見られていたことがわかる。
それではその「そうづ」をなぜ「案山子」と書き、また「かかし」「かがし」と読ませたのであろうか。このことについて適切に解説する書物にはなかなか出会えないが、江戸後期の狂歌師・国学者である北慎言の随筆『梅園日記』(1845年)には、以下のような記述があるという。(本来なら原典に直接当たって確認したいが、どうしても見られないので、インターネット情報に拠った)。それによれば、「案山」とはどうやら禅問答に使われた言葉で、大きな山に添う小さな山のことだという。大きな山の陰にあって、何の役にもたたない存在であるため、影法師のように役に立たない人を「案山子」と呼んだという。しかし北慎言はこれを俗説として退け、「案山」とは低くて上部が平らな机(「案」とは机のこと)のことで、低い山なので田畑が開け、鳥おどしの人形を案山の辺に立てる。これを僧が戯れに「案山子」と名付けたことから通称されるようになった、と言う。私はこの話を検証する材料を持ち合わせていないが、「案山子」とはもともとは役に立たない人を意味する禅語であり、田に立っている「そうづ」が役に立たない存在なので、「案山子」と書き表すようになった。そう理解してよいのではなかろうか。禅僧が自嘲的にそうづを役に立たないものと理解したのは、「そうづ」が「僧都」と表記されることもあったため、悟りについて知ったかぶりをする「僧都」に対する諧謔であろう。
しかしこれでは「かがし」と呼ばれるようになったことの説明にはなっていない。イエズス会宣教師が、江戸初期に長崎で出版した『日葡辞書』には「かがし」と濁って表記され(未確認)、ヘボン式ローマ字で知られるヘボンが編纂した『和英語林集成』(1867年)には「Kagashi カガシ 案山子 (n.) A scarecrow made in the shape of a man」と記述されているから、本来は「かかし」ではなく「かがし」と濁って読んでいたもののようである。そこから前述の悪臭を「嗅がし」て鳥獣を退散させたという説明になるのであろうが、既に述べたような理由で、私は今一つ納得できていない。取り敢えずは「案山子」を「かがし」「かかし」と読むことについては、宿題ということにしておこう。
ここまで書いてきてまだ引っ掛かることがある。それは古語で「そうづ」(添水)と言えば、案山子と同時に鹿威(ししおどし)をも指すことである。案山子と形状は全く異なり、日本庭園の閑寂とした風情を増幅させる仕掛けとして使われている。しかし音で鳥獣を驚かせる仕掛けで、鳥獣除けという共通点がある。そうすると、鹿威がどこまで遡るのかまだ検証していないが、「そうづ」「そほづ」とは、案山子に限らず、もっと広い意味で田畑の鳥獣除けのための小道具や仕掛けを意味していたのかもしれない。
さていつものように唱歌・童謡からすっかり離れてしまい、「案山子考」のような文章になってしまった。ここでもう一度改めて童謡『案山子』の歌詞を読んでみると、まず「山田の中の」という表現が気に掛かる。古歌で「そうづ」を詠んだ歌を見ると、「山田」という表現が慣用的に用いられているからである。初めにも述べたように、作詞者が眺めた風景は一面見渡す限りの水田で、山田などはどこにもない。あるいは、「山田のそほづ」という慣用表現を意図したのかもしれない。歌詞の「歩けないのか」については、『古事記』の「 足は行かねども」という「そほど」の神のことを連想させる。烏が「かあかあ」と笑うことについては、既に述べたように、「呵々と笑う」という古来の慣用的表現を意図したものであろう。また案山子が嘲笑の対象となることは、禅僧が役に立たないものの比喩として、そうづを「案山子」と表記したことと共通している。まあ「嘲笑」と言っても、この場合はユーモアのあることであるから、笑って済ますことができる。
私の故郷の童謡だからと思って書き始めたが、書いているうちにまたもや取り留めもなく広がってしまった。
1、山田の中の一本足の案山子 天気のよいのに蓑笠着けて
朝から晩までただ立ちどおし 歩けないのか山田の案山子
2、山田の中の一本足の案山子 弓矢で威して力んで居れど
山では烏がかあかと笑う 耳が無いのか山田の案山子
作詞は武笠三(さん? あつむ?)、作曲は山田源一郎によるとされているが、作曲については疑問視する説もある。そういうことについてはその道の研究者でもない私の及ばないところである。ただ作詩者はさいたま市三室にある氷川女体神社の神官を勤める家柄の出身で、彼が見た田園風景は、その神社の前に広がる見沼田んぼということになっている。現在、氷川女体神社のそばには案山子公園という公園があり、案山子の像も立っている。
氷川女体社周辺はは、かつて私が高校生の頃、部活動の長距離走のコースであったから毎日のように眺めていた、私にとっては懐かしい景色である。その頃は「案山子」の舞台となったことなど全く知らなかったが、ある日そのことを知りとても驚いた。それは歌詞では「山田の中の」となっているのに、どこにも「山田」と呼べるような場所はないからである。目の前に見えるのは、享保の改革で新田に開発された見渡す限りの水田である。強いて言えば、神社が立地している大宮台地の末端を浸食して、ヤツデの葉のように入り込んでいる谷田がある程度である。神社周辺で遊んで育っただけに、「山田の中の」という言葉には違和感があった。しかしまあ大した問題ではない。ついでのことに少々脱線するが、「三室」という地名は全国にあるが、「神南備の御室」と古歌にしばしば詠まれたように、神の鎮まる場所を示す由緒ある地名である。
歌詞の内容はわかりやすく、特に解説を要することもなさそうである。私が興味を持ったのは、歌そのものではなく、案山子そのもので、明治の頃には弓を構える姿であったことがわかる。また「烏がかあかと笑う」という歌詞も、なかなか愉快である。稲を啄むのは雀であろうが、雀でなく烏であるところに作詩者の意図がある。「カーカー」という烏の鳴き声を、古来からの笑い声の形容である「呵々」と聞いているのである。子供にそこまで理解するのは無理としても、大人になってから改めて歌詞を読んでみると、作詞者のユーモアがわかってくる。
さてその案山子であるが、その目的は、農作物を害する鳥獣を、獣肉を焼き焦がした臭いを嗅がせ、その悪臭で退散させるためのもの。そして古くは「かがし」と言ったものが、「かかし」となったと、多くの書物や情報に説明されている。本当かいな。自分で確認もせず、みな受け売りをしているのではないかと、私は素直には納得できない。焦げた獣肉を串刺しにして置いておけば、夜の間に獣が喰ってしまうのではないか。実際我が家では、毎晩のように狸が生ごみを漁りに来る。焦げた肉などを置いておけば、反って獣を呼び寄せるようなものである。またそのように思うもう一つの理由は、案山子の起源はかなり古くまで遡るが、古くは「かかし・かがし」ではなく、「そほづ」と呼ばれいたからである。
この「そほづ」が文献に登場するのは、何と『古事記』まで遡る。少々わかりにくいが、まずは原文のまま引用し、現代訳をしてみよう。
「故、大國主、出雲の御大の御前に坐す時、波の穗より天の羅摩船に乗りて、蛾の皮を内剥に剥ぎて衣服にして、帰り来る神ありき。ここにその名を問はせども答へず、また所従の神に問はせども、皆「知らず」と白しき。ここに谷蟆白しつらく、「こは崩彦(くえひこ)ぞ必ず知りつらむ。」とまをしつれば、すなはち崩彦を召して問はす時に、「こは神産巣日の御子、少名毘古那神ぞ」と答へ白しき。故ここに神産巣日の御祖命に白し上げたまへば、答へ告りたまひしく、「こは実に我が子ぞ。子の中に、我が手俣より漏きし子ぞ。故、汝葦原色許男命と兄弟となりて、その国を作り堅めよ。」とのりたまひき。故、それより、大穴牟遲と少名毘古那と、二柱の神相並ばして、この国を作り堅めたまひき。然て後は、その少名毘古那神は、常世国國に度りましき。故、その少名毘古那神を顯はし白せし謂はゆる崩彦は、今著に山田のそほどといふぞ。この神は、足は行かねども、侭に天の下の事を知れる神なり。」
ある日、大国主神が海岸で、天の羅摩船(あめのかがみぶね)に乗って来た、蛾のようなものを着た小さな神に出会った。名を聞いても答えず、また誰もその名を知らない。そこへ谷蟆(たにくく、ヒキガエル)がやって来て、崩彦(くえひこ)ならきっと知っているだろうと言う。そこで早速、崩彦に尋ねてみると、「この神は神産巣日神の御子、少名毘古那神である」という。そこで神産巣日神に確認してみると「間違いなく我が子である。この子は余りに小さすぎて生まれてすぐに手のひらから零れ落ちてしまった。少名毘古那よ。お前は葦原色許男命(あしはらのしこお、大国主)と協力してこの国の国作りを行なえ」と言った。そして国作りを終えて、少名毘古那はまた常世の国に帰っていった。少名毘古那を知っていた崩彦は、「山田のそほど」という。この神は足が不自由で歩けないが、世の中の事を悉く知っている神である。
話はこれだけなのであるが、以上のことから、山田には歩くことはできないが何でも知っている「そほど」という神がいると理解されていたと推測できる。しかしただこれだけでは、直ちに案山子に結び付けられない。もうすこし材料が欲しい。
そこでもう少し後の史料捜してみると、その「そほづ」を詠んだ古い歌がある。
①あしびきの山田のそほづおのれさへ我をほしといふ憂(うれ)はしきこと (古今集 雑体 1027)
②あけくらしまもるたのみをからせつゝたもとそほづの身とぞなりぬる (後撰集 秋 268)
③山田もるそうづの身こそあはれなれ あきはてぬればとふ人もなし (続古今和歌集 雑 僧都玄賓)
①は、山田のそほづよ、おまえまでが私を欲しいというのか。困ったことだ、という意味。②はなかなかややこしい歌である。前書きによれば、二人の男をその気にさせていた女が、片方の男に心を寄せたので、振られた男がその女におくった歌である。明けても暮れても番をしていた田の実(稲のこと、「頼み」を掛ける)を他人に刈取らせて、私は袂を濡らして泣くそほづのような身となってしまったことだ、という。「田の実」と「あてにさせる」という意味の「頼み」を掛け、「そほづ」と「濡れる」ことを意味する「そほつ」を掛けていて、二重構造となっている。振られてしまった我が身を、四六時中、田を見張っていても、他人に稲を刈り取られてしまい、役に立たないそうづになぞらえているのである。ここでは「そほづ」は嘲笑の対象となっているが、童謡でも烏に馬鹿にされるという点で、共通点がある。③は、訪ねてくる人のいない侘びしさを、自分の身分である「僧都」を「そうづ」に掛け、山田に寂しげに立っているそうづになぞらえている。
『続古今和歌集』は13世紀半、後嵯峨上皇の命による勅撰集であるから、要するに鎌倉期までは、田の稲を護る呪いとして、「そほづ」「そうづ」と呼ばれるものが田に立てられ、時に孤独の比喩や嘲笑の対象として見られていたことがわかる。
それではその「そうづ」をなぜ「案山子」と書き、また「かかし」「かがし」と読ませたのであろうか。このことについて適切に解説する書物にはなかなか出会えないが、江戸後期の狂歌師・国学者である北慎言の随筆『梅園日記』(1845年)には、以下のような記述があるという。(本来なら原典に直接当たって確認したいが、どうしても見られないので、インターネット情報に拠った)。それによれば、「案山」とはどうやら禅問答に使われた言葉で、大きな山に添う小さな山のことだという。大きな山の陰にあって、何の役にもたたない存在であるため、影法師のように役に立たない人を「案山子」と呼んだという。しかし北慎言はこれを俗説として退け、「案山」とは低くて上部が平らな机(「案」とは机のこと)のことで、低い山なので田畑が開け、鳥おどしの人形を案山の辺に立てる。これを僧が戯れに「案山子」と名付けたことから通称されるようになった、と言う。私はこの話を検証する材料を持ち合わせていないが、「案山子」とはもともとは役に立たない人を意味する禅語であり、田に立っている「そうづ」が役に立たない存在なので、「案山子」と書き表すようになった。そう理解してよいのではなかろうか。禅僧が自嘲的にそうづを役に立たないものと理解したのは、「そうづ」が「僧都」と表記されることもあったため、悟りについて知ったかぶりをする「僧都」に対する諧謔であろう。
しかしこれでは「かがし」と呼ばれるようになったことの説明にはなっていない。イエズス会宣教師が、江戸初期に長崎で出版した『日葡辞書』には「かがし」と濁って表記され(未確認)、ヘボン式ローマ字で知られるヘボンが編纂した『和英語林集成』(1867年)には「Kagashi カガシ 案山子 (n.) A scarecrow made in the shape of a man」と記述されているから、本来は「かかし」ではなく「かがし」と濁って読んでいたもののようである。そこから前述の悪臭を「嗅がし」て鳥獣を退散させたという説明になるのであろうが、既に述べたような理由で、私は今一つ納得できていない。取り敢えずは「案山子」を「かがし」「かかし」と読むことについては、宿題ということにしておこう。
ここまで書いてきてまだ引っ掛かることがある。それは古語で「そうづ」(添水)と言えば、案山子と同時に鹿威(ししおどし)をも指すことである。案山子と形状は全く異なり、日本庭園の閑寂とした風情を増幅させる仕掛けとして使われている。しかし音で鳥獣を驚かせる仕掛けで、鳥獣除けという共通点がある。そうすると、鹿威がどこまで遡るのかまだ検証していないが、「そうづ」「そほづ」とは、案山子に限らず、もっと広い意味で田畑の鳥獣除けのための小道具や仕掛けを意味していたのかもしれない。
さていつものように唱歌・童謡からすっかり離れてしまい、「案山子考」のような文章になってしまった。ここでもう一度改めて童謡『案山子』の歌詞を読んでみると、まず「山田の中の」という表現が気に掛かる。古歌で「そうづ」を詠んだ歌を見ると、「山田」という表現が慣用的に用いられているからである。初めにも述べたように、作詞者が眺めた風景は一面見渡す限りの水田で、山田などはどこにもない。あるいは、「山田のそほづ」という慣用表現を意図したのかもしれない。歌詞の「歩けないのか」については、『古事記』の「 足は行かねども」という「そほど」の神のことを連想させる。烏が「かあかあ」と笑うことについては、既に述べたように、「呵々と笑う」という古来の慣用的表現を意図したものであろう。また案山子が嘲笑の対象となることは、禅僧が役に立たないものの比喩として、そうづを「案山子」と表記したことと共通している。まあ「嘲笑」と言っても、この場合はユーモアのあることであるから、笑って済ますことができる。
私の故郷の童謡だからと思って書き始めたが、書いているうちにまたもや取り留めもなく広がってしまった。