うたことば歳時記

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落ち葉

2016-11-10 13:37:13 | うたことば歳時記
温帯に属して、広葉落葉樹の多い日本では、晩秋から初冬にかけて、色づいては散りゆく木々の姿は自然な風景で、日本人はそこにもののあわれや無常を感じ取ります。あれ程春の花が人を魅了した桜も、夏に木蔭をなして涼ませてくれた楢も、山裾を彩ったもみぢも、多少の早い遅いはあるものの、最後にはみな散り果ててしまいます。日本人はそれに人の一生や一年の恋を重ね合わせ、人生や生死の理を観るのです。それだからこそ落葉しない松や橘が常盤木として神聖視されるのでしょうが、日本の樹木が全て常緑樹であったとしたら、日本人の自然観も異なっていたことでしょうね。そんなことを考えながら、この頃の落ち葉を眺めているところです。

 「落ち葉」ということばは大和言葉なのでしょうが、不思議なことに「落ち葉」という言葉を『国歌大観』などで検索しても、あまり引っ掛かってこないのです。古い和歌の秋から冬の歌を片っ端から見てみると、「落ち葉」というかわりに、「木の葉落つ」「木の葉散る」「木の葉降る」「木の葉に埋む」「木の葉も風にさそはれ」「木の葉乱れて」「木の葉波寄る」「窓うつ木の葉」「木の葉吹く」「木の葉時雨(しぐ)る」「紅葉葉雨と降る」「木の葉よどむ」などのように、同じ落ち葉でも様々に表現されているのです。実に繊細で豊かな表現ですね。

 『万葉集』や『古今和歌集』に落ち葉を詠んだ歌が少なく、『千載和歌集』以降に急増するのですが、このことをどのように理解したらよいのでしょうか。落ち葉に無常や「もののあはれ」を感じ取って歌心を刺激されるのは、平安中期以降に流行し始める浄土信仰と関連があるのかもしれないと思っています。あるいは中世の侘びやさびに連なる新しい美意識の先取りかもしれません。まあとにかく、『古今和歌集』以前は、日本人は落ち葉に深い情趣をあまり感じなかったことは確かなようです。

 『万葉集』や『古今和歌集』に見える落ち葉を詠んだ歌をあげてみましょう。

①鴨鳥の遊ぶこの池に木の葉落ちて浮きたる心わが思はなくに (万葉集 711)
②十月(かむなづき)時雨の常か我が背子が宿の黄葉(もみちば)散りぬべく見ゆ (万葉集 4259)
③立ち止まり見てをわたらむもみぢ葉は雨と降るとも水はまさらじ (古今集 秋 305)

 ①の意味は、鴨鳥が遊ぶこの池に木の葉が落ちて浮かぶような、浮わついた気持ちで恋しているわけではありませんよ、という意味です。真剣な恋であることを相手に訴えているのです。歌としては大胆な比喩が優れていると思います。

 ②は大伴家持の歌で、左注によれば、梨が色付いたので詠んだ歌とのことです。神無月に降る時雨の常なのか、あなたのお宅の黄葉が散りそうです、という意味でしょう。あっさりした歌ですが、時雨が木の葉を散らすと言う理解が、早くも万葉時代に「常」として共有されていたことが注目されます。

 ③は、屏風絵を見て詠んだ歌なのですが、立ち止まって、ゆっくり見てから川を渡ろう。紅葉の葉が雨のように降っても、水かさは増さないだろうから、という意味です。とても絵画的で、いかにも「古今集」という雰囲気の歌です。これらのどの歌も晩秋から初冬の寂寥感や無常感は稀薄ですね。別にそのことが悪いわけではありませんが、現代人が晩秋から初冬に感じ取る落ち葉の情趣とは、少々異なっているように思います。

 さて『古今和歌集』より時代の下った歌も見てみましょう。

④木の葉散る宿は聞き分くことぞなき時雨する夜も時雨せぬ夜も(後拾遺集 冬 382)
⑤山里は往き来の道の見えぬまで秋の木の葉にうづもれにけり(詞花集 秋 133)
⑥散りつもる木の葉も風にさそはれて庭にも秋の暮れにけるかな(千載集 秋 337)
⑦まばらなる真木の板屋に音はして漏らぬ時雨や木の葉なるらん (千載集 秋 404)
➇散りはててのちの風さへ厭ふかなもみぢをふけるみやまべの里 (千載集 冬 418)
⑨山里の風すさまじき夕暮に木の葉みだれて物ぞかなしき(新古今 冬 564)
⑩時雨かときけば木の葉のふるものをそれにも濡るるわがたもとかな (新古今 冬 567)

 まだまだあるのですが、取り敢えずはこのくらいにしておきましょう。

 ④は、『無名抄』や『今鏡』によれば、源頼実が歌を掌る神とされる住吉神社に、「わが身と引き換えに一首の秀歌をたまわらん」と祈って得たとされています。木の葉が降る家では、その音と時雨が降る音ととを区別して聞き分けることが出来ない、という意味です。夜は音に敏感になるのか、木の葉の音を詠む歌は、多くが夜に詠まれているのです。

 ⑤は、落ち葉で我が家の前の道が埋もれてしまい、誰も訪ねてこなくなる寂しさを詠んでいます。この趣向に似て、雪が道を閉ざしてしまうため、人が訪ねてこないという歌もよく詠まれます。通信手段の限られる時代だからこそ、積もる落ち葉や雪を見ると、人恋しさが募ってくるのです。電話でいつでも声を聞ける現代人にはない情趣ですね。

 ⑥は庭に降り積もった木の葉に、秋の終わりを感じ取っている歌です。現代人でも素直に共感できる季節理解だと思います。

 ⑦は、寝覚めの床で板屋根に落ちる木の葉の音を聞き、時雨のようだと感じています。本物の時雨なら雨漏りするのですが、木の葉の時雨なので漏ることはないというのです。少々理屈っぽいのですが、「木の葉時雨」「落ち葉時雨」という言葉は、このような歌から生まれたのでしょう。

 ➇は目の付け所の面白い歌です。屋根にもみぢの落ち葉が降り積もっているのを、もみぢ葺きの屋根とみているのです。風が吹くとそのもみぢが飛ばされてしまうので、これ以上は風よ吹くなというのです。「ふく」には「吹く」と「葺く」が掛けられているとみてよいのでしょう。

 ⑨は、初冬の夕暮の木枯らしの寂寥感を詠んでいます。「すさまじ」は、現代では「(程度が)著しい」という意味でよく使われる言葉ですが、本来の意味は、「寒々としている」とか「恐ろしくてぞっとする」というような意味です。ですからただ侘しいだけではなく、荒涼とした雰囲気を感じ取ることが出来ます。

 ⑩は、木の葉が降る音を時雨の音と聞いたけれど、時雨ではなく、涙で私の袂が濡れることだ、という意味です。⑦と同じ趣向ですが、涙で濡れるという分だけ手がこんでいます。
 
 しかし実際に木の葉が降る音が聞こえるのでしょうか。現代のマンションのような建物ではまず聞こえません。瓦葺きでも難しい。古くても茅葺きでは音はしないでしょう。トタン葺きの我が家では、かろうじて聞こえるような聞こえないような。それでも窓際に寝ていると、ベランダに木の葉が降る音は本当に微かですが聞こえました。当時の板葺きの家には天井などありませんから、屋根に落ちる音が直接聞こえたのでしょう。また空気が乾いている時ならば、木の葉の葉擦れの音は屋根の材質に関係なく聞こえることでしょう。落ち葉ではありませんが、団栗の落ちる音はよく響きます。燈火、書に親しみながら、しみじみと聞いています。

 降り積もった落ち葉は、これを掻き集めて燃やしたりするのでしょうが、「落ち葉をかき集める」ことが「筆跡をかき集める」ことを意味することがあります。

⑪木の下に書き集めたる言の葉を別れし秋の形見とぞ見る (千載集 雑 1105)
⑫木の下は書く言の葉を見るたびに頼みし蔭のなきぞかなしき (千載集 雑 1106)

 ⑪は、詞書きによれば、姉が弟に亡き父の筆跡を綴った歌集を返すときに、添えておくった歌で、⑫はその返歌です。「木の下」は「このもと」と読み、「木」は「子」を掛けています。子供であるあなたの許でかき集めたこの歌集を、父上に別れた秋の形見として見ることです、という意味です。「頼みし蔭」は父の庇護を意味しています。父が死んだのが落ち葉の季節であり、「木の葉」が「言の葉」の比喩でもあることから、このような手の込んだ歌に仕立てたわけです。

 このように、落ち葉をかき集めることは、故人の遺文を集めて読むことを暗示しますから、親しい故人の遺文集などを編むことがあれば、是非思い出したい歌だと思います。木の葉を言の葉の比喩と理解すれば、落ち葉を見ても歌心が広がってくることとでしょう。


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