クリスマスが近付いてきました。賑やかな所では、クリスマスソングが流れています。その中に「ハレルヤ」という言葉を耳にしました。一応キリスト教徒の私は、その言葉が気になって仕方ありません。有名な「ハレルヤ・コーラス」の他に、日本には歌詞の中に「ハレルヤ」という言葉が含まれる歌がたくさんあるのですが、どの歌一つ取っても、ハレルヤの意味を正しく理解しているものはありません。
私は長い間イスラエルに住んでいたことがあり、ヘブライ語を少々理解できます。しかしもう40年以上前のことなので、ヘブライ語もかなり忘れてしまいましたが・・・・。「ハレルヤ」とはもともとは旧約聖書に書かれた「ハレルー」(褒め讃えよ)と「ヤー」(ヤハウエ・神)という二つの言葉からなっています。聖書では「主をほめたたえよ」と訳され、『詩篇』にはしばしば登場します。ユダヤ教徒とキリスト教徒にとっては、神を賛美したり宗教的感動を表す神聖な祈りの言葉ですから、めったやたらに口にすることはありません。
ところが日本の歌謡曲には「ハレルヤ」がしばしば登場し、本来の意味とは全く異なって使われているのです。また「晴れるや」の意味に理解され、とんでもない使われ方をすることがあります。かなり昔の話ですが、開けポンキッキという子供向けの子供番組がありました。その中である時、『おてんきボーイズ』という歌が流行りました。歌詞を御紹介しましょう。
おてんきボーイズだよ エッヘッヘェ おてんきボーイズだ ウッフッフッフゥ
ぼくらは5人のおてんきやさん ポッカリうかんだくものうえ
おてんきランドがぼくらのおうち ハレルヤ クモルヤ アメノチ ハレルヤ
はれたくん くもたん あめたん ゆきたん ごろたん
ぼくらはなかよし おてんきボーイズだよ ヤッホ
明らかに「ハレルヤ」を茶化した歌詞となっています。所詮子供の歌で悪気はないのはわかりますが、私にはどうにも納得がいきませんでした。そこで早速テレビ局に電話して、ディレクターと話しました。彼が言うには、「子供の歌だから・・・・」とのことで、その言い分はよく理解できます。しかし私はこう尋ねました。そのあたりの応答を、およそ再現してみましょう。録音していたわけではないので、細かい言い回しは覚えていませんが、話の趣旨は正確に再現しています。
「あなたは何か信仰していますか?」「一応仏教徒です」「そうですか。それなら話が早い。南無阿弥陀仏の意味はわかりますね。阿弥陀様、私はあなたを信じます。どうぞ私をお救い下さい、という意味ですね。それなら『ナンマイダア ナンマイダア 一枚だあ 二枚だあ 三枚だあ おしまいだあ』という歌詞の歌をテレビで面白おかしく歌ったらどういうことになりますか?」「仏教界から猛烈に抗議されるでしょうね」「そうでしょうね。そこまでわかっているなら、ハレルヤの意味を知っていますか?」「知りません」「ハレルヤとはユダヤ教やキリスト教で、神を褒め讃えよという意味で、『アーメン』と同じように矢鱈には口にしないもっとも神聖な言葉ですよ。『アーメン ソーメン ヒヤソーメン』という歌を歌わせますか?」「それはまずいでしょう」「わかっているじゃないですか。人の信仰を茶化すような歌はやめませんか。イスラム教徒は『アッラー・アクバル』という祈りの言葉をよく口にします。これは『神は偉大なり』という意味です。もしそれを茶化す歌をテレビで流したら、とんでもない事件が起きるでしょう。ムハンマドを茶化した絵や詩を公表したために、実際に殺されてしまった事件が起きているのを知っていますか。悪気がなかったことは理解できますが、やはり許されることではないので、もうテレビでその歌を流すことはやめませんか」。
その後間もなく、その歌はテレビでは聞かなくなりました。
日本人は信仰心があるように見えながら、その実、ほとんどありません。早い話が信仰する気はないのにクリスマスで馬鹿騒ぎをし、一週間もたたないうちに寺社に初詣に行き、外国人が見たら精神分裂ではないかと思われてしまいそうです。それはそれでよいのですが、だからと言って信仰している人の心を茶化すようなことをしてよいわけではありません。イスラム教を茶化すことをすれば、確実に重大事件が発生するでしょう。その時、悪気はないとか、所詮子供の歌ではないかという言い訳は、全く通用しないのです。私は海外の生活が長いので、そのあたりの感覚はよく身に付けています。日本にイスラム教徒の人が増えつつあります。だからというわけではありませんが、自分が無信仰であることはいっこうに差し支えありませんが、信仰や宗教に対する真摯な姿勢はもっと備えておかなければならないと思います。
追記1
1991年7月、ムハンマドを風刺した『悪魔の詩』という小説を邦訳した筑波大学助教授の五十嵐一氏が、同大学筑波キャンパスで実際に刺殺される事件が起こっています。また世界各地で、反イスラム的活動をしたとみなされた人に殺害予告がされたり、実際に危害が加えられた事件が起こっています。暴力は決して許されるものではありませんが、信者にとって宗教的侮辱とは、事と次第によってはそれ程の怒りを起こさせるものであるということを、日本人はもっと真剣に理解しなくてはなりません。
また2020年には、フランスの学校でムハンマドを風刺した図を生徒に見せたため、先生が首を切断される事件が起きています。暴力は言語道断ですが、聖なるものと信じているものを不用意に汚すことは、そのような怒りを引き起こすおこすものだということを、日本人は知りません。昭和天皇の写真を公共の施設で税金を使用して展示しても、表現の自由と称して平然としていられます。良くも悪くもそれが日本なのです。たしかに表現の自由は憲法で認められていますが、人が大切にしているものを公共の場で侮辱することは、表現の自由以前のことなのです。表現の自由以前に、人としてやって良いことと悪いことがあるのです。もし反論があるなら、「・・・・」を侮辱する言葉や図を表現の自由を根拠に公共の場で全世界に表せるものならやって見せてほしいものです。命懸けで表現の自由を主張したらよろしい。その結果どのようなことになるかはご想像にお任せしますが、このようなことに関しては、日本の常識は世界の非常識なのです。
追記2
先日、読者の方からコメントをいただきました。私がクレームを付けたことについて、皮肉たっぷりと御指摘をいただくような内容でした。そう言われて見れば御指摘の通りで、あらためてなる程なと、御指摘に対して妙に感心してしまいました。確かにクレーマーでしたね。でも長年中東で生活していたので、宗教に対しては相当に過敏になっています。宗教について日本人は鈍感と言いましょうか、何を言っても問題にはなりませんが、それは世界的には極めて少数派であって、外国では通用しないことであることは間違いありません。でも「ここは日本だ」と反論されそうですね。他の人が信じている宗教を茶化すことは絶対に許されないところで、そのようなことをすればどのような結果を招くか、一度体験してみると、私に説にも一理あると理解していただけるのではと思います。でも何はともあれ、わざわざコメントして下さりありがとうございます。
私は長い間イスラエルに住んでいたことがあり、ヘブライ語を少々理解できます。しかしもう40年以上前のことなので、ヘブライ語もかなり忘れてしまいましたが・・・・。「ハレルヤ」とはもともとは旧約聖書に書かれた「ハレルー」(褒め讃えよ)と「ヤー」(ヤハウエ・神)という二つの言葉からなっています。聖書では「主をほめたたえよ」と訳され、『詩篇』にはしばしば登場します。ユダヤ教徒とキリスト教徒にとっては、神を賛美したり宗教的感動を表す神聖な祈りの言葉ですから、めったやたらに口にすることはありません。
ところが日本の歌謡曲には「ハレルヤ」がしばしば登場し、本来の意味とは全く異なって使われているのです。また「晴れるや」の意味に理解され、とんでもない使われ方をすることがあります。かなり昔の話ですが、開けポンキッキという子供向けの子供番組がありました。その中である時、『おてんきボーイズ』という歌が流行りました。歌詞を御紹介しましょう。
おてんきボーイズだよ エッヘッヘェ おてんきボーイズだ ウッフッフッフゥ
ぼくらは5人のおてんきやさん ポッカリうかんだくものうえ
おてんきランドがぼくらのおうち ハレルヤ クモルヤ アメノチ ハレルヤ
はれたくん くもたん あめたん ゆきたん ごろたん
ぼくらはなかよし おてんきボーイズだよ ヤッホ
明らかに「ハレルヤ」を茶化した歌詞となっています。所詮子供の歌で悪気はないのはわかりますが、私にはどうにも納得がいきませんでした。そこで早速テレビ局に電話して、ディレクターと話しました。彼が言うには、「子供の歌だから・・・・」とのことで、その言い分はよく理解できます。しかし私はこう尋ねました。そのあたりの応答を、およそ再現してみましょう。録音していたわけではないので、細かい言い回しは覚えていませんが、話の趣旨は正確に再現しています。
「あなたは何か信仰していますか?」「一応仏教徒です」「そうですか。それなら話が早い。南無阿弥陀仏の意味はわかりますね。阿弥陀様、私はあなたを信じます。どうぞ私をお救い下さい、という意味ですね。それなら『ナンマイダア ナンマイダア 一枚だあ 二枚だあ 三枚だあ おしまいだあ』という歌詞の歌をテレビで面白おかしく歌ったらどういうことになりますか?」「仏教界から猛烈に抗議されるでしょうね」「そうでしょうね。そこまでわかっているなら、ハレルヤの意味を知っていますか?」「知りません」「ハレルヤとはユダヤ教やキリスト教で、神を褒め讃えよという意味で、『アーメン』と同じように矢鱈には口にしないもっとも神聖な言葉ですよ。『アーメン ソーメン ヒヤソーメン』という歌を歌わせますか?」「それはまずいでしょう」「わかっているじゃないですか。人の信仰を茶化すような歌はやめませんか。イスラム教徒は『アッラー・アクバル』という祈りの言葉をよく口にします。これは『神は偉大なり』という意味です。もしそれを茶化す歌をテレビで流したら、とんでもない事件が起きるでしょう。ムハンマドを茶化した絵や詩を公表したために、実際に殺されてしまった事件が起きているのを知っていますか。悪気がなかったことは理解できますが、やはり許されることではないので、もうテレビでその歌を流すことはやめませんか」。
その後間もなく、その歌はテレビでは聞かなくなりました。
日本人は信仰心があるように見えながら、その実、ほとんどありません。早い話が信仰する気はないのにクリスマスで馬鹿騒ぎをし、一週間もたたないうちに寺社に初詣に行き、外国人が見たら精神分裂ではないかと思われてしまいそうです。それはそれでよいのですが、だからと言って信仰している人の心を茶化すようなことをしてよいわけではありません。イスラム教を茶化すことをすれば、確実に重大事件が発生するでしょう。その時、悪気はないとか、所詮子供の歌ではないかという言い訳は、全く通用しないのです。私は海外の生活が長いので、そのあたりの感覚はよく身に付けています。日本にイスラム教徒の人が増えつつあります。だからというわけではありませんが、自分が無信仰であることはいっこうに差し支えありませんが、信仰や宗教に対する真摯な姿勢はもっと備えておかなければならないと思います。
追記1
1991年7月、ムハンマドを風刺した『悪魔の詩』という小説を邦訳した筑波大学助教授の五十嵐一氏が、同大学筑波キャンパスで実際に刺殺される事件が起こっています。また世界各地で、反イスラム的活動をしたとみなされた人に殺害予告がされたり、実際に危害が加えられた事件が起こっています。暴力は決して許されるものではありませんが、信者にとって宗教的侮辱とは、事と次第によってはそれ程の怒りを起こさせるものであるということを、日本人はもっと真剣に理解しなくてはなりません。
また2020年には、フランスの学校でムハンマドを風刺した図を生徒に見せたため、先生が首を切断される事件が起きています。暴力は言語道断ですが、聖なるものと信じているものを不用意に汚すことは、そのような怒りを引き起こすおこすものだということを、日本人は知りません。昭和天皇の写真を公共の施設で税金を使用して展示しても、表現の自由と称して平然としていられます。良くも悪くもそれが日本なのです。たしかに表現の自由は憲法で認められていますが、人が大切にしているものを公共の場で侮辱することは、表現の自由以前のことなのです。表現の自由以前に、人としてやって良いことと悪いことがあるのです。もし反論があるなら、「・・・・」を侮辱する言葉や図を表現の自由を根拠に公共の場で全世界に表せるものならやって見せてほしいものです。命懸けで表現の自由を主張したらよろしい。その結果どのようなことになるかはご想像にお任せしますが、このようなことに関しては、日本の常識は世界の非常識なのです。
追記2
先日、読者の方からコメントをいただきました。私がクレームを付けたことについて、皮肉たっぷりと御指摘をいただくような内容でした。そう言われて見れば御指摘の通りで、あらためてなる程なと、御指摘に対して妙に感心してしまいました。確かにクレーマーでしたね。でも長年中東で生活していたので、宗教に対しては相当に過敏になっています。宗教について日本人は鈍感と言いましょうか、何を言っても問題にはなりませんが、それは世界的には極めて少数派であって、外国では通用しないことであることは間違いありません。でも「ここは日本だ」と反論されそうですね。他の人が信じている宗教を茶化すことは絶対に許されないところで、そのようなことをすればどのような結果を招くか、一度体験してみると、私に説にも一理あると理解していただけるのではと思います。でも何はともあれ、わざわざコメントして下さりありがとうございます。
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