寒さが一段と厳しくなり、里山の雑木も次第に丸裸になりつつあります。そんな時期に思い浮かぶ唱歌と言えば、『冬景色』があります。大正二年の『尋常小学唱歌』第五学年用に載せられたのが最初ということで、大正生まれの母の大好きな歌でした。情報源は覚えていませんが、確か皇后様もお好きな歌とうかがったことがあります。
まずは歌詞を載せておきましょう。
1、さ霧消ゆる湊江の 舟に白し朝の霜 ただ水鳥の声はして いまだ覚めず岸の家
2、烏啼きて木に高く 人は畑に麦を踏む げに小春日ののどけしや かへり咲の花も見ゆ
3,嵐吹きて雲は落ち 時雨降りて日は暮れぬ もし灯火の漏れ来ずば それと分かじ野辺の里
難解という程のことはありませんが、現代の小学五年生にはわからない言葉がたくさんあります。まず全体としては、題は「冬景色」でも、真冬ではなく初冬であることを確認しておきましょう。まだ雪は降っていませんし、霧・霜・時雨・小春日などの言葉がそれを示唆しています。
1番の「さ霧」ですが、「さ」は名詞や動詞や形容詞の頭に付いて、語調を調える接頭語です。「語調を調える」というのは、要するに歌を詠む時に字数を合わせたり、優雅な印象を付与する効果があります。「小夜」「早百合」「小百合」「小牡鹿」「さ霧」「狭衣」「さ走る」「さ迷う」「さ曇る」などはこの例です。百合よりも小百合・早百合の方が可愛らしい感じがしますね。霧という気象現象は、視程が500m以下の時に使われる気象用語ですが、古歌では秋の景物とされ、春霞に対応するものとされていました。もちろん冬の霧もあるでしょうが、伝統的季節感からすれば、霧と言えば晩秋から初冬のイメージが強いものです。
朝霧が少しずつ消えてくる早朝の港の様子が歌われています。「江」というのですから、海岸線が緩やかに湾曲しているのでしょう。舟の霜が見えるというのですから、作詞者は舟のそばにいます。しかし近くの民家では、まだ家人は目覚めていない様子です。「ただ」というのですから、聞こえてくるのは水鳥の声だけです。ウミネコの仲間なら、鳴き声も大きく、よく聞こえることでしょう。
2番では、烏が高い木にとまって鳴いています。遠くには麦踏みをする農夫の姿が見えます。作詞者の目は、一転して遠くを眺めているのです。私の住む埼玉県は、かつては麦の生産が盛んで、霜柱で持ち上げられてしまった麦を踏みつけて、根が浮かないようにしていたものです。今でも麦の栽培は見られますが、人が行う麦踏みはすっかり見られなくなってしまいました。代わりにトラクターが重いローラーを引いています。あんな重い物で麦は大丈夫なのだろうかと、心配になるくらいですが、この時期には根を張ることが最優先で、上に伸びる時期ではないのです。踏まれるほどに逞しくなるなんて、見習わなければりませんね。
「げに」という言葉に漢字をあてはめるとすれば、「実に」ということですから、「いかにも・全く・本当に・確かに」という意味です。「小春」とは旧暦10月の異称、「小春日」は旧暦10月の春のように暖かい日のことで、『徒然草』にも見られる古い言葉です。「のどけしや」の「や」は詠嘆の間投助詞で、作詞者の心の感動を表しています。「げに」と「や」をセットにして理解すべきものでしょう。「かへり咲き」とは季節外れに花が咲くことですが、一般には春に咲く花が初冬に咲く場合に用いられる言葉ですから、この場合は桜か山吹でしょうか。山吹の返り咲きはしばしば見られるものです。のどかな小春の暖かさに誘われて、二度咲きしているのでしょう。作詞者の観察眼は実に細かいところまで行き届いています。
3番の「雲は落ち」は、急に風が嵐のように強まって、雲が低く垂れ込めている様子でしょう。「時雨」とは、晩秋から初冬にかけて、急にぱらぱらと降ってはまた止み、また降っては止む通り雨のことです。季節感の濃厚な雨ですから、「時雨」と書くわけです。ついでのことですが、「時鳥」と書けばホトトギスを意味するのと同じですね。時雨が降れば冬になったこと、ホトトギスが鳴けば夏になったことがわかるというので、「時」という表現をするわけです。一日中降り続くような降り方ではありません。通り過ぎる雨ですから、「過ぐる」から「しぐる」という変化をします。古い和歌集では、時雨の歌は初冬か晩秋に集中して位置づけられるものです。
時雨が急に降ってきて、日も暮れました。冬の日暮れは早いものです。灯りが漏れてこなかったら、人家があることがわからない程に暗くなってしまった、というのでしょう。「ば」は「・・・・ならば」という順接の仮定条件を意味しますから、「来ずば」は「来ないならば」という意味になります。「分く」ははっきりとわかるという意味ですから、「分かじ」はその打ち消し推量で、わからないだろう、という意味です。「野辺の里」というのですから、家の数は一軒ではなく、小さな集落があるのでしょう。
私が勝手に考えているのかもしれませんが、作詞者は視覚と聴覚によって作詞をしています。1番は霜や霧と水鳥の声、2番は返り咲きの花と烏の声、3番は雲や灯火と時雨の音、という具合です。現代人は時雨に音を感じないでしょうが、古歌では時雨は音に風情を感じ取るものでした。特に板屋根や枯れ葉を打つ音は、しばしば歌に詠まれています。
1番は早朝で、人はまだ寝ています。2番は昼間で、人は働いています。3番は晩で、人は仕事を終えてくつろいでいるのでしょう。また1番は港、2番は麦畑、3番は人里というように、作詞者の観察する場所も移動しています。作詞者が意識したかどうかはわかりませんが、一日の時間の経過と人の動きを、人生に喩えるという理解も有り得るでしょう。それは私の考えすぎかもしれませんが、とにかく3番までそろって初めて物語が完結しているのですから、歌う時には3番まで歌って初めて深く味わえるものです。
まずは歌詞を載せておきましょう。
1、さ霧消ゆる湊江の 舟に白し朝の霜 ただ水鳥の声はして いまだ覚めず岸の家
2、烏啼きて木に高く 人は畑に麦を踏む げに小春日ののどけしや かへり咲の花も見ゆ
3,嵐吹きて雲は落ち 時雨降りて日は暮れぬ もし灯火の漏れ来ずば それと分かじ野辺の里
難解という程のことはありませんが、現代の小学五年生にはわからない言葉がたくさんあります。まず全体としては、題は「冬景色」でも、真冬ではなく初冬であることを確認しておきましょう。まだ雪は降っていませんし、霧・霜・時雨・小春日などの言葉がそれを示唆しています。
1番の「さ霧」ですが、「さ」は名詞や動詞や形容詞の頭に付いて、語調を調える接頭語です。「語調を調える」というのは、要するに歌を詠む時に字数を合わせたり、優雅な印象を付与する効果があります。「小夜」「早百合」「小百合」「小牡鹿」「さ霧」「狭衣」「さ走る」「さ迷う」「さ曇る」などはこの例です。百合よりも小百合・早百合の方が可愛らしい感じがしますね。霧という気象現象は、視程が500m以下の時に使われる気象用語ですが、古歌では秋の景物とされ、春霞に対応するものとされていました。もちろん冬の霧もあるでしょうが、伝統的季節感からすれば、霧と言えば晩秋から初冬のイメージが強いものです。
朝霧が少しずつ消えてくる早朝の港の様子が歌われています。「江」というのですから、海岸線が緩やかに湾曲しているのでしょう。舟の霜が見えるというのですから、作詞者は舟のそばにいます。しかし近くの民家では、まだ家人は目覚めていない様子です。「ただ」というのですから、聞こえてくるのは水鳥の声だけです。ウミネコの仲間なら、鳴き声も大きく、よく聞こえることでしょう。
2番では、烏が高い木にとまって鳴いています。遠くには麦踏みをする農夫の姿が見えます。作詞者の目は、一転して遠くを眺めているのです。私の住む埼玉県は、かつては麦の生産が盛んで、霜柱で持ち上げられてしまった麦を踏みつけて、根が浮かないようにしていたものです。今でも麦の栽培は見られますが、人が行う麦踏みはすっかり見られなくなってしまいました。代わりにトラクターが重いローラーを引いています。あんな重い物で麦は大丈夫なのだろうかと、心配になるくらいですが、この時期には根を張ることが最優先で、上に伸びる時期ではないのです。踏まれるほどに逞しくなるなんて、見習わなければりませんね。
「げに」という言葉に漢字をあてはめるとすれば、「実に」ということですから、「いかにも・全く・本当に・確かに」という意味です。「小春」とは旧暦10月の異称、「小春日」は旧暦10月の春のように暖かい日のことで、『徒然草』にも見られる古い言葉です。「のどけしや」の「や」は詠嘆の間投助詞で、作詞者の心の感動を表しています。「げに」と「や」をセットにして理解すべきものでしょう。「かへり咲き」とは季節外れに花が咲くことですが、一般には春に咲く花が初冬に咲く場合に用いられる言葉ですから、この場合は桜か山吹でしょうか。山吹の返り咲きはしばしば見られるものです。のどかな小春の暖かさに誘われて、二度咲きしているのでしょう。作詞者の観察眼は実に細かいところまで行き届いています。
3番の「雲は落ち」は、急に風が嵐のように強まって、雲が低く垂れ込めている様子でしょう。「時雨」とは、晩秋から初冬にかけて、急にぱらぱらと降ってはまた止み、また降っては止む通り雨のことです。季節感の濃厚な雨ですから、「時雨」と書くわけです。ついでのことですが、「時鳥」と書けばホトトギスを意味するのと同じですね。時雨が降れば冬になったこと、ホトトギスが鳴けば夏になったことがわかるというので、「時」という表現をするわけです。一日中降り続くような降り方ではありません。通り過ぎる雨ですから、「過ぐる」から「しぐる」という変化をします。古い和歌集では、時雨の歌は初冬か晩秋に集中して位置づけられるものです。
時雨が急に降ってきて、日も暮れました。冬の日暮れは早いものです。灯りが漏れてこなかったら、人家があることがわからない程に暗くなってしまった、というのでしょう。「ば」は「・・・・ならば」という順接の仮定条件を意味しますから、「来ずば」は「来ないならば」という意味になります。「分く」ははっきりとわかるという意味ですから、「分かじ」はその打ち消し推量で、わからないだろう、という意味です。「野辺の里」というのですから、家の数は一軒ではなく、小さな集落があるのでしょう。
私が勝手に考えているのかもしれませんが、作詞者は視覚と聴覚によって作詞をしています。1番は霜や霧と水鳥の声、2番は返り咲きの花と烏の声、3番は雲や灯火と時雨の音、という具合です。現代人は時雨に音を感じないでしょうが、古歌では時雨は音に風情を感じ取るものでした。特に板屋根や枯れ葉を打つ音は、しばしば歌に詠まれています。
1番は早朝で、人はまだ寝ています。2番は昼間で、人は働いています。3番は晩で、人は仕事を終えてくつろいでいるのでしょう。また1番は港、2番は麦畑、3番は人里というように、作詞者の観察する場所も移動しています。作詞者が意識したかどうかはわかりませんが、一日の時間の経過と人の動きを、人生に喩えるという理解も有り得るでしょう。それは私の考えすぎかもしれませんが、とにかく3番までそろって初めて物語が完結しているのですから、歌う時には3番まで歌って初めて深く味わえるものです。
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