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藤原道長の物忌 日本史授業に役立つ小話・小技 53

2024-08-11 19:18:51 | 私の授業
埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。

53、藤原道長の物忌
 平安時代の貴族の生活について学習する際は、必ず物忌みや方違えなどの陰陽道に基づく風習を学習します。しかし「・・・・などの風習があった」というだけで、それ以上でもそれ以下でもなく、指導する私自身も長い間その段階で止まっていました。しかしこれではいけないと、王朝貴族の日記には必ず記載されているはずであるから、日記を読んでみようと思いました。それなら誰の日記を読むかと考え、迷うことなく藤原道長の日記である『御堂関白記』を選びました。これは手許になくても、国会図書館に閲覧者の登録をして、「国会図書館デジタルコレクション御堂関白記」と検索すれば、簡単に見られます。その冒頭から読み始めたのですが、私はその筋の専門家や研究者ではなく、所詮は一介の高校教師に過ぎませんから、難解な部分や見落としもあるでしょうが、その私が見ても、あるはあるは、立て続けに記述が見つかるので、呆れてしまいました。初めのうちはどのくらいの頻度で見つかるのか数えていたのですが、多すぎてわからなくなってしまい、数えることは止めてしまいました。専門書で調べたところ、20数年間の日記に三百数十回もあるそうです。
 物忌みの理由がわかるものとしては、死の穢れが多そうです。それも人だけではなく、犬や牛もありました。他には人や動物の産の穢れ、また穢れに関わってしまった人と接触した触の穢れも見つかりました。『御堂関白記』などを直に読むのは骨が折れるでしょうから、具体的な例をいくつか書いてみましょう。
 長保元年(999)九月八日には、「道方朝臣云 内有穢 定家宿所下有死人 八九歳許童也 所所犬喰者 右府被申云 可為五体不具者 有身難為五体不具」と記されています。難しいのですが、全体の意味は何となく理解できます。「道方朝臣が言うには、宿所に死人があり、八・九歳くらいの幼児である。所々犬に喰われているとのことである。右府(右大臣?)は、(身体の一部が欠損しているので)五体不具者と見做すべきであると言う。しかし身体(胴体)があるので、五体不具とするのは難しいであろう」という意味であろうと思います。五体が揃っているかどうかにこだわっているのは、全身の死体ならば30日の物忌、身体の一部ならば7日の物忌という期間の長短があったからです。寛弘八年(1011)正月二九日には、北の対に「死人頭」があったので(どの様な)穢とするべきかと問われたので、「五体不具」の穢であるから「七箇日穢」、つまり七日間の物忌とすると答えたことが記されています。
 余りにも多いので、今回はこの程度で止めておきますが、もっとよく調べたい方は、講談社学術文庫には『御堂関白記』の現代語訳がありますから、一読をお勧めします。それにしても当時は疫病は普通にあったでしょうし、加茂河原は事実上死体の捨て場でしたから、そのたびに一月間の物忌みをしていたのでは、政務が滞ってしまうはずです。現代でも狸や犬猫が車に轢かれているのをしばしば見かけます。そのたびに物忌をしていたら、日常生活も生産活動も政治も滞ってしまいます。単純な比較には意味がありませんが、当時の貴族の生活において、陰陽道が大きな影響を与えていたことを感じ取ることはできることでしょう。



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