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金銀比価問題の真相  日本史授業に役立つ小話・小技 24

2024-02-11 08:16:13 | 私の授業
日本史授業に役立つ小話・小技 24  金銀比価問題の真相 

埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。

24、金銀比価問題の真相
 江戸時代末期、欧米との貿易が始まると、大量の金貨が海外に流出してしまいました。その理由として全ての教科書は欧米と日本の金銀比価の違いを指摘していて、山川出版の『詳説日本史B』には次のように記されています。「金銀の交換比率は、外国では1:15、日本では1:5と差があった。外国人は外国銀貨(洋銀)を日本にもち込んで日本の金貨を安く手に入れたため、10万両以上の金貨が流出した」。(金銀比率は金と銀のどちらを基準にするかにより、1対5にも5対1にもなるが、要するに同じこと)
 私はかねてからこの記述に疑問を持っていました。それは教材として生徒に見せるため、天保一分銀や安政一分銀をいくつも購入していて、その軽さを感覚的に知っていたからです。さすがに小判金は買えませんでしたが・・・・。また日本では金銀比価が1:5であったとするならば、極端な金安・銀高の日本にとっては、安い金が流出しても代わりに高い銀が流入するのですから問題ないではないかとも思ったからです。このことは後でお話しする専門家の論文でも指摘されていました。
 この問題を理解するためには、まずは江戸時代の金銀比価が実際にはどれ程であったのか検証しなければなりません。幕府は元禄13年に小判1両は銀60匁(225g)とするのですが、同じ小判でも金の含有量が異なりますし、しかも相場の変動を考慮しなければなりませんから、専門の研究者ではない私の手には負えそうもありません。それでそのような研究成果をお借りすると、江戸時代後期の金銀比価は、1対13くらいだそうです(井上正夫氏の論文「江戸時代末期における金銀比価について」による)。
 修好通商条約に基づく貿易においては、日本の金銀貨と外国の金銀貨は、同じ重さで交換するという「同種同量」の合意がありました。外国人の持ち込む洋銀(メキシコ銀)1枚は銀の地金で23.1gでした。一方日本の天保一分銀は同じく1枚8.563gありました。それで洋銀1枚(23.1g)は一分銀3枚(銀25.69g)にほぼ近くなり、同種同量の原則に従って、洋銀1枚を一分銀3枚と交換することになりました。ところで日本国内では小判金一両は一分銀4枚、つまり1両=4分で両替できたのですが、当時日本国内では金銀比価は1対13でしたから、一分銀4枚、つまり銀4分を1対13の比価で金に換算すると、銀8.563g×4枚÷13=金2.63gとなります。天保小判は金の地金が6.76gもありますから、全く釣り合いません。どうしてこんなことになってしまうのかというと、実際には小判の四分の一に見合う価値がないのに、幕府の信用によって一分銀4枚で金1両とするということにしていたからです。つまり一分銀は実質通貨ではなく名目通貨なのです。ただ国内だけで流通している分には、これで問題は生じませんでした。
 ここに目聡い外国人が着目します。まず洋銀4枚を一分銀に両替すると、同種同量の原則に従い一分銀12枚になります。つまり洋銀1枚は一分銀3枚と交換できるので、洋銀4枚は一分銀12枚となるわけです。次に一両が銀4分の交換比率で一分銀12枚を小判に両替すると、小判三枚になるわけです。これを海外に持ち出して、欧米の金銀比価である1対15で交換すると、銀287.55gとなり、それは洋銀12枚になってしまうというからくりでした。
 ですから金銀比価が1対5で日本の金が海外に流出したこと自体は事実ですが、当時日本国内の金銀比価が1対5であったため流出したのではありません。国内では実質1対13くらいであったのは紛れもない事実です。天保一分銀が幕府の信用により四分の一両の価値で流通していたことを逆手に取り、同種同量の原則を振りかざして、事実上1対5の比率で金を海外に持ち出したのです。
 教科書や参考書は、ほぼ例外なしに日本の金銀交換比率が1対5(5対1)であったとしているのですが、これは出鱈目とまでは言いませんが、正しくは金と一分銀の交換比率としなければなりません。このことに気付いている高校の先生や予備校の講師がどれ程いるのでしょうか。たぶん知らないと思います。それでも大学入試で出題されれば、日本の金銀比価は1対5であったと答えなければならないのでしょう。



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