一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

おいしい本が読みたい●第二十四話

2013-03-25 10:42:23 | おいしい本が読みたい

おいしい本が読みたい●第二十四話  


                  亡き恩師へ

 

 フランスの文豪バルザックの作品に『風流滑稽譚(コント・ドロラティック)』という、ラブレーを髣髴とさせる、おおらかにエロチックな物語集がある。古めかしい言い回しと綴りが、浪曲師のような語り口とあいまって、絶妙な味わいを感じさせる作品である。邦訳では、晩年の永井荷風が寄寓した小西茂也のものが名訳の誉れが高い(新潮文庫。ただし絶版)。今の世代がどれほど原語に強くなっても、日本語の気品からいえば、明治・大正から遅くとも昭和一桁生まれまでの訳者には、到底かなわない。単に語彙の問題だけでなく、どこか日本語への感覚が違っているとすら思う。

 小西訳のおかげでだいぶ泣いた人もいる。泣いて兜を脱ぐ、そんな屍累累たるところに、敢然と挑んだ研究者がいる。先月三巻めが完結した、岩波文庫版『艶笑滑稽譚』の石井晴一である。昭和九年生まれ。この世代あたりまでが、日本語の伝統を体で知っている。石井訳の新機軸は、これでもかこれでもかと付されるルビ。原文の雅語を置き換えるひとつの手がこれである。それはそれで、きわめて納得のゆく工夫である。もっとも、ある種ディレッタント趣味の嫌味を感じる人もいるかもしれない。が、ずっと読みつづけていると不思議な効果が生じてくる。

 小西訳と石井訳の日本語比べをしても、あまり生産的ではないと思う。石井訳の何よりの特徴は、徹底した原文への読み込みにあるからだ。なぜそんなことが分かるかといえば、石井晴一はわが恩師のひとりで、翻訳に先立つ講義に毎週顔を出していたのである。

 とにかく、あれほど仏仏辞典をていねいに紐解く学者も珍しい。なにしろ買ったばかりのロベール大辞典7巻が6,7年で背表紙ぼろぼろというすさまじさ。本人いわく、「これがないと手足をもぎ取られたようだ」と。うーむ、立派。もうひとつ、つねづね語っていたのは、「仏文を読むときは、考えるんじゃない、辞書を引くのだ」という教えだ。「考えても分かりませんでした」と開き直った学生が、大目玉をくらった光景も忘れられない。

 フランス語の辞書の引き方を教えることのできる数少ない学者だった。一度こういうことがあった。十九世紀前半の小説を読んでいて、わたしは、ある単語の意味がどうしてもうまく捕えられなかった。かろうじて、リトレ大辞典という有名な辞書は引いたのだが、解決しない。それを先生に告げると、では18世紀の辞書を引きなさい、との助言があった。もちろん指示に従って、18世紀フランス語辞典を引いた。でも分からない。その旨を伝えると。その前の時代のユゲ辞典はどうだい、とこうくる。それでも駄目で、つぎはいっそ古語のゴッドフロワ辞典を引く… 終わりのない、ことばの遡上の旅の終着駅はどうなったか。ある日、石井先生は、「ラテン語の辞典にこんな意味が載っていた。おそらくこれだろう。でも君はラテン語は知らんから、ちと無理か、はは」、といって、どうだ恐れ入ったか、という顔をした。クソっ!と思ったが、ことばの旅の醍醐味をはじめて味わった、至福の時でもあった。

 その石井先生が急死して2カ月たつ。今あらためて教えていただいた書物を思い返すと、山なす書物群のなかで浮上してくるのは、なぜか川端康成の『眠れる美女』と藤沢周平の『用心棒日月抄』である。今なお愛読書であるのが、せめてもの恩返しか。

                                                     むさしまる



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