一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

『目にみえない世界のきざし』について★清水茂

2010-12-28 10:35:53 | 書評・映画評

『目にみえない世界のきざし』について

                                   清水 茂

あれから半世紀以上もの時が経った。取り返しのつかない過誤ともいうべきあの戦争が終ってほどなくの頃、残された精神の廃墟のなかで、いっそう人間らしい新たな価値を模索していた若者たちの数人が片山敏彦の存在と仕事とに惹かれて、おのずから一つの小さなグループを形成したのだった。北沢方邦はそのなかにあって、歯切れのよい口調でバルトークの音楽を論じ、まだあまりよくは知られていなかった十九世紀デンマークの作家ヤコブセンの『ニールス・リーネ』について語っていた。その姿は私にはいささか眩く映るものだった。

一九六一年に片山敏彦が亡くなり、グループの若者たちはそれぞれの道を辿りはじめた。隔たりはしだいに大きくなるように感じられた、互いの姿が見えなくなったと思われるほどに。

ところが、私たちの生涯の道がほぼ果てにまで到るかに思われたこの時期になって、思いがけず彼の姿が大きく私の目のまえに、それもほとんど同じ道の上で見えてこようとは! 詩集『目にみえない世界のきざし』を携えて。

驚き? だが、当然といえば当然のことでもあるのだ。戦時の困難のなかで、ゲーテの『西東詩篇』の「不思議な魔力に囚われ」、片山敏彦によってリルケを知った彼がひそかに詩の道を辿りつづけていたとしてもそれを訝しく感じることはない。そして、この一冊が久しい歳月に亙ってのその道筋の全体を顕してくれているのだ。

比較的初期に属する詩篇の多くは短詩型で整えられているが、その器はずっと後にまた繰り返し用いられている。芭蕉やオマール・ハイヤームの名を挙げて、それらとの親近性のあることを彼自身が述べている。

けれども小さな器に注がれる詩想は広大な人間の文化領域に、時代を超えて飛翔している。ときに、生死の境域を跨ぎ、見える世界と見えない世界とを自在に往還する。そして、透けて見えてくるのは、近代以降の西欧的自我が世界に、あるいは自然にむかって投影する飽くことを知らぬ欲望が、私たち人類の全体を終焉へと導こうとしている事実への憤りとともに、いま一度、その自我から解放されて、万物との共生の衷に身を置きたいという強い願望である。

あの楽園が、いつか甦ることがあるだろうか。

松葉杖や義足の男たち、身寄りを失った老人たち、
幼な児を餓死させた女たち、そして裸足の孤児たちの
瓦礫の下に埋めてきた遠い遠い記憶とともに。

しかしやがていつか、黄褐色の沙漠の谷間の廃墟の村落と、
焼け残った巴旦杏の老木にも、春のきざしと、萌えいでる芽生えのときが、
訪れるにちがいない、死者たちの記憶とともに。

「アフガニスタンの黙示録」という詩篇からの引用である。詩は宇宙の呼吸のリズムに倣うものではあるが、同時に、絶えず私たち自身の置かれている現実空間との接点を持ちつづけていなければならないものであることを、この詩集は私たちに再度確認させる。

だが、また、こんな四行詩、
     
きらめく若葉、囀る小鳥たち、
       色と音がひびきあう初夏の交響曲、
         いまここにあるものに酩酊しつつ、なおも
           永遠なるものの使信を聴きとりたい欲求。

あるいはまた、
     
われらは目にみえる世界を過信している。
       たしかにこの世も美しい。だが目にみえない
         隠された世界は、なお美しい。夕映えの空の
           彼方からひびく、無音の楽に耳を傾けよう。

ほとんど片山敏彦を想わせるこれらの表現には、また別種の驚きが感じられる。そして、私たちのあいだの隔たりはそれほど大きくはなかったのかと改めて思うのである。

※『洪水』第7号より。執筆者と洪水企画の了承済み
  http://www.kozui.net/frame-top.htm