一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

おいしい本が読みたい●第十八話

2010-12-01 14:46:58 | おいしい本が読みたい

おいしい本が読みたい●第十八話 

           
             
イスラームを通して見る世界  

 

 日経新聞の読書欄に、歴史学者成田龍一のいくらか自虐めいた一文がのっていた。アナール派の泰斗マルク・ブロックから刺激を受けて、かつて自分たちも感性の歴史を研究して意気揚々としていたが、ブロックにとってはあくまで出発点にすぎなかった、というのだ。つまり、ヨーロッパに追いついたと思っていたら、あちらはさらに先に進んでいたという話。算数のウサギVSカメ問題のように、この思考方法だと決して追いつくことはない。そもそも同じ競争路を進む必要はどこにあるのか。

 こんな別件もある。十九世紀イギリス・ロマン派の研究書が刊行された。多年にわたる調査・研究の集大成で、類書では群を抜く。敬服に値する労作である。それでも、読んでいてふと疑問が頭をもたげる箇所がある。各章の最後で、さあここで決めの台詞をという段になると、かつて留学先で薫陶をうけた指導教授の分析方法が、必ず使われるのである。ヨーロッパの現象を、ヨーロッパ人の作った分析コードで研究すること、それをわたしたちがやることの意味はなんだろう。  

 こんな疑問がわだかまっていたところに飛び込んできたのが、『失われた歴史 イスラームの科学・思想・芸術が近代文明を作った』(北沢方邦訳、平凡社)である。そうだ、イスラームという視座があったのだ。明治以来、ヨーロッパ文化至上主義の大合唱を聞いて育ったわたしたちは、西洋VS東洋の対立軸でものを考えることに慣れてしまっている。だから、ともすれば、どちらが善か、どちらが優秀か、といった二者択一の罠にはまりがちだ。こんな東西の対立軸を相対化するには第三の視点を求めるしかない。    

 だからこそ南アメリカやイスラームからの視点が貴重である。けれども、どちらの分野も、選択に悩むほど資料がそろっているわけではない。どころか、単発的な著作が志のある出版社から細々と世に問われるにすぎない。現地の人びとによる著作はさらに限られる。イスラームの場合は、さらに、キリスト教ヨーロッパによって意識的に無視され、歴史を奪われてきた。わたしたちの「世界史」はキリスト教を中心とした強者の世界史にほかならない。ゆがんだ歴史をすこしでも修正するために、奪われた歴史をすこしでも回復するために、『失われた歴史』の一読をぜひともすすめたい。                            

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