一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

シンポジウム「生殖革命と人間の未来」報告

2010-12-07 11:03:19 | シンポジウム

シンポジウム「生殖革命と人間の未来」報告 

                                 
 
                                  
                                               石田久仁子 

 10月30日、知と文明のフォーラム、日本女子大学女性キャリア研究所、日本女子大学人間社会学部文化学科の共催による標記シンポジウムが東京・目白の日本女子大新泉山館に於いて開催された。 

 昨年11月に亡くなられた青木やよひさんは、エコロジカル・フェミニストとして、体外受精と胚移植で始まった生殖革命に対し1980年代からすでに、それが生殖への人為的介入を許すとして、危機感をもたれていた。青木さんは人類がはじめて体験するこの現象を、「人間と自然との関係や人間の思考体系のあり方を問う根本的な問題」であるとして、生殖倫理という新しい概念を打ち立てる必要を主張されていた。昨年10月、「知と文明のフォーラム」が青木さんのこの問題提起をもとに、「生殖革命と人間の未来」と題する2日間にわたるセミナーを伊豆高原のヴィラ・マーヤで開催した。私は青木さんがお書きになるはずだった生殖倫理についてのご著書のためのフランス語の関連資料を紹介していたご縁で、司会者として参加させていただいた。私にとってそれはとても刺激的な2日間だった。  

●第1部
 昨年のセミナーの成果をより多くの方々と共有し、より議論を深めるために、このときと同一のテーマ、報告者、司会で、本シンポジウムを企画したという、共催団体を代表する日本女子大学の杉山直子教授のご挨拶に続いて、第1部が始まった。

 最初の報告はフェミニズム研究の第一人者で首都大学東京教授の江原由美子さんによる「フェミニズムと生殖革命—−その問題点と展望」と題するもので、女性の自己決定権と生殖技術の進展をめぐる全体的な見取り図が次のように提示された。 

 身体の自由が保障されない限り対外活動は抑制されるという意味で、自由権(人身の自由)は人権の基本である。しかし近代の出発点の「人権宣言」における「人」とは男で、女は含まれていなかったから、フェミニズムの闘いは、「女性の人権」取得の歴史であった。女性参政権獲得後のフェミニズムの課題として、性や生殖といった身体の自由に関わる自己決定権が残っていた。第2波フェミニズム運動では中絶権の獲得にそれが焦点化されていた。

 フェミニストは、ある時までは、避妊法や人工中絶等の生殖技術を女性の身体の自己決定の自由を広げるものと評価し、その発展には概ね賛成だった。しかし1978年の体外受精児誕生を境に、生殖技術とフェミニズムとの関係が変化する。新しい生殖技術が、両側卵管閉塞の女性への不妊治療という当初の目的を越えて、個人にも社会にも多くの問題をもたらしたからである。成功率が低いにもかかわらず、子どもをもてることへの期待ばかりが膨らみ、不妊治療を受ける女性は、江原さんが「生殖への閉塞」と呼ぶ状況に陥った。この技術はまた、遺伝子診断や遺伝子治療技術と結びついて優性思想を強化する一方で、人間身体を商品化・部品化(配偶子や子宮の提供)し、経済格差を背景に若い女性や貧困層の女性がそのターゲットにされる。そして人間の生殖機能を部品化する社会意識を強化する危険もある。 

 近代の人権思想が生み出した自己決定権は、他者の身体を手段化するこの「生殖革命」を前に、再考を迫られる。生殖の領域はすぐれて、自立した個々人を前提とするリベラリズムの虚構性をあぶり出す。そこでは自己であり他者でもある胎児の思想は欠落している。女性の身体の自己決定権は他者の身体をコントロールしないようにするわれわれの義務としての「自己決定権の尊重」に基づかなければならない。最後に江原さんは、青木さんがフェミニストとしてこの産む産まないは女が決めるという自己決定権を重視していたが、代理懐胎などの生殖技術を利用して子どもをもつことは、生殖への社会的操作となるから、青木さんの自己決定権には含まれない、と述べて、どこからが社会的操作なのかと問い、青木さんが提唱された「生殖倫理」への議論へとつなげた。  

 続いてマリ=アンジュ・ダドレール他著『生殖革命』(共訳)等の多数の翻訳書のある、十文字学園女性大学非常勤講師で日仏女性研究学会代表の中嶋公子さんが「女性の身体の自己決定権と人工生殖技術〜フランスの代理懐胎をめぐる論争を中心に〜」について報告。現在、フランスでは生命倫理法改正が準備されているが、その最大の争点の一つ、代理懐胎の合法化をめぐる議論の紹介を通して、法と倫理の関係、女性の自己決定権と人工生殖技術の関係が考察され、「生殖倫理をどうつくるか」という青木さんの問題提起へと向かう報告であった。 

 この法改正を前に、一昨年から、主な決定機関が相次いで人の身体の不可処分性と人の身分の不可処分性の公共秩序を根拠に代理懐胎禁止維持の見解を出した。倫理と法の関係で注目すべきは、法案への最も影響力のある国家倫理諮問委員会が示した、代理懐胎を法制化しても残る倫理的問題への視点である。他方市民社会では賛否がほぼ均衡。賛成派は子どもをもつ権利を主張する人々、合法化による代理母の身体的リスク削減や代理懐胎が許された外国で代理母からすでに生まれた子どもの身分保障を訴える人々だ。反対派は倫理的立場から女性の身体の道具化・商品化・搾取に加え、子どもの製品化を問題にする。 

 今、フランスでは、1970年代の女性たちの「欲しいと望んだときに、欲しいと思った子どもをもちたい」の主張が、優生学と結びつく生命の制御可能性の言説を生み、人工生殖医療発展を促したという反省がある。国家・個人・市場の優生学を前にして、身体(母性)の自己決定権は問い直しを迫られる。その時、胎児不在のこの自己決定権が根ざす人権概念を、他者性を含む「主体」の概念に基づくものにできないものか。生殖倫理はこの新たな主体概念を通してしか打ち立てられないのではないか、と中嶋さんは問う。  

 最後の報告者は慶応大学准教授の長沖暁子さん。「今年は体外受精のパイオニア、R.G.エドワードのノーベル医学賞受賞、50歳の女性政治家の生殖補助医療による妊娠等、まさに今回のシンポジウムのテーマを考えさせる出来事が起きた」という言葉で始まった「生殖技術とは何か・・・当事者の視点が与えるもの」と題する報告は、発生学を専門とする生物学者とフェミニズム運動家としての二つの視点が交差する場からのもので、キーワードは変革だった。 

 1970年代から、遺伝子工学・生命工学・生殖技術はセットになって発展し、生命への操作が行われてきた。体外受精・胚移植の技術は人間の生命の作り方にありとあらゆる可能性を拓いた。その背景には、生物を機械と同様に部品から構成され、悪い部分は交換すればよいという機会論的自然観・生命観がある。それを根本から問い直したのが1985年のフィンレージ会議で、新しい生殖技術が
1)身体の部品化・商品化を進める
2)女の自己決定権を奪う
3)不妊問題を解決しない
とし、変わるべきは社会だと主張した。この診断はまったく正しかったが、現状はさらに深刻化している。 

 これまでの生命観を変えるには当事者の語りから考えるしかない。不妊の女たちの語りが示すのは「不妊治療でこどもを得ても、不妊は解決しない」ことだ。不妊を癒すことなしに、即ち予め子どもを失ったという喪失体験に対するグリーフワークなしに治療が始まるからである。また生殖医療は不妊の男女、配偶子ドナー、代理母、子ども、子孫へと当事者を拡大する。生まれてくる子どもへ視点を向けるとき、生殖医療におけるインフォームド・コンセントや自己決定の限界は明らかになる。子どもたちは「商品、モノとして存在したものから生まれた」ことの苦悩を表現する。子どもも含めたすべての当事者の語りの場をつくり経験を言語化すれば、皆で共有できる経験・知識となる。それをもとに他者との関係の中で決定が行われる社会をつくることが重要で、この社会の変化が科学の枠組みを変えるのだ、と長沖さんは主張した。  

●第2部
 
第2部では、最初に「知と文明のフォーラム」を主宰する北沢方邦さんが「青木がこの場にいたらお話ししただろうこと」をご自身の見解も交えて次のように話された。「青木のフェミニズム」が自然との共生とうちなる自然としての身体の2つの上に立つもので、「女性の身体性の根本にある生殖は青木の問題意識の中心」を占めていた。「生殖革命」は自然の状態ではありえない生命系への人工的操作であり、核エネルギー開発と同様に、これまでの諸概念の枠組みを越える技術開発である。この新しい技術は生物学的にも社会的にも人間のあり方を変えるだけでなく、生態系を揺るがす。人類の福祉に対立するその進展に歯止めをかけるための生殖倫理を緊急に確立する必要がある。 

 2人目のコメンテーター、和泉和恵日本女子大学専任講師からは、「理論、制度、当時者という3つの視点からの報告」を踏まえて、
1.生殖補助医療における女性同士の推進派/規制派の分断を越えた多様性を尊重する価値観をどうつくるのか 
2.生殖補助医療における男性の位置、あるいは男性隠蔽の現実をどう考えるのか
3.女性の自己決定権の範囲とされる一般的中絶とその範囲を越えるとされる選別的中絶の明確な線引きは可能か
の3つの問題が提起された。最期にご自身の研究テーマである、里親や養子などの血縁でない親子関係と比較し、生殖補助医療で生まれた子どもの家族と共通する問題の構図があると指摘、その例として出自の隠蔽問題や当時者としての子どもの語りがようやく注目がされ出したことなどが挙げられた。 

 季節はずれの台風の接近で激しい雨の降る一日だったが、シンポジウムには大勢の方が参加され、会場からも多くの質問、コメントが出され、予定時間を大幅に越えて、活発な議論が展開された。青木やよひさんが提起された問題の大きさを前にして、私たちは、市民レベルで、医療関係者や法律家を始めとする生殖医療に関わるあらゆる領域の人々、そして一般市民が参加し、それぞれが自らの問題として広く議論できる場をつくっていく必要があることを再確認して、シンポジウムを終えた。