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一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

楽しい映画と美しいオペラ―その16

2008-11-25 00:50:50 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラ―その16

         
        
ハイドンのオペラはおもしろい!
                                
北とぴあの『騎士オルランド』  

 心と身体をリラックスさせたいと思うときよく聴くオペラは、やはりモーツァルトやロッシーニのものだ。ヨハン・シュトラウスやレハールもいいし、最近はヘンデルも加わったが、まさかハイドンがその仲間に入ろうとは思いもよらなかった。 

 ハイドンは、モーツァルトとベートーヴェンとほぼ同時代の作曲家なのだが、二人の巨人の陰に隠れて、あまり光をあてられることがなかった(少なくとも私のなかでは)。古典派様式の確立に貢献し、交響曲・弦楽四重奏曲の世界では音楽史に輝かしい名を残している――こんな初歩の教科書的知識はもちろん持っていたけれど、交響曲だけで106曲、弦楽四重奏曲となると150曲以上も作曲していると知るにつけ、ハイドン作品に対する意欲は萎えてしまっていた。ましてオペラおやである。ところが先日、王子の北とぴあでハイドンの『騎士オルランド』を観るに及んで、自分の音楽に対する姿勢は根本的な転換を要すると、いくぶん大げさな反省を迫られることとなった。 

 北区は年に一度、古楽を中心とした「北とぴあ音楽祭」を開催している。その目玉演目がここ数年、ヴァイオリニストの寺神戸亮さんの指揮によるオペラの上演である。いずれも水準の高い演奏で、私は毎年鑑賞することを楽しみにしている。そしてハイドンのオペラといえば、実は2年前にも、『月の世界』という作品がこの音楽祭で上演されている。実相寺昭雄さんの最後の演出作品ということもあって話題をよび、超現実的な台本も面白かったのだが、音楽にはそれほどの魅力を感じなかった。「ハイドンのオペラ? ああ、そう」という感じで過ぎてしまっていた。しかし今回の『騎士オルランド』は、なによりも音楽に圧倒されたのだった。

 『騎士オルランド』の初演は1782年。この年、モーツァルトの『後宮からの逃走』がウィーンで初演されている。モーツァルトは26歳の新進の作曲家だったが、ハイドンはすでに50歳の円熱期にあった。イタリア語を台本とするハイドンのオペラ作品全13曲のうち、この作品は最後から2番目に位置づけられる。

  これは偶然にすぎないだろうが、この作品の背景は『後宮からの逃走』と同じく、西洋とイスラームの関わりである。台本の原作は、イタリア・ルネサンスの巨匠アリオストの『狂えるオルランド』(1532年)。そしてこれは中世フランスの叙事詩『ロランの歌』をもとに作られている。ロラン即ちオルランドは実在の人物で、フランク王国のカール(シャルル)大帝の甥である。軍の指揮官のー人であり、778年、スペインを支配するイスラームとの闘い(これは初期のレコンキスタの闘いのひとつ)で壮烈な戦死をとげる。

 このオペラでも、ロドモンテというイスラームの勇将がしつこくオルランドをつけ狙うが、しかし、ここで「イスラーム」は、刺身のつまの役割でしかない。『騎士オルランド』のテーマは、古今のオペラのもっとも普遍的なテーマ、「愛」である。

 モーツァルト好きは、このオペラのなかに、その後の彼の傑作オペラの登場人物の片鱗を見い出し、驚いたはずである。性格描写もそうなのだが、何よりも彼らのうたう歌の雰囲気に共通点を感じたのだ。『コシ・ファン・トゥッテ』のフィオルディリージ(中国の王女アンジェーリカ)、『ドン・ジョヴァンニ』のオッターヴィオ(アンジェーリカの恋人メドーロ)とレポレッロ(オルランドの従者パスクワーレ)、『フィガロの結婚』のスザンナ(羊飼いの娘エウリッラ)、『魔笛』の夜の女王(魔女アルチーナ)……。特にレポレッロとパスクワーレの類似性には驚くばかりで、「カタログの歌」とそっくりな歌もある。

 モーツァルトはどこかでこのオペラを観たにちがいと思ったほどだが、『騎士オルランド』がいかに評判をよんだオペラであったにしても、その上演記録からは可能性を見い出すことはできない。モーツァルトもハイドンも、イタリアのコメディア・デラルテなど、オペラ制作上の共通の伝統の上にあったのだと考えるべきだろう。

 アリオストの『狂えるオルランド』は、多くのオペラ作品の題材となっている。すでにオペラの草創期1619年に、ペーリとガリアーノが『アンジェーリカとメドーロの結婚』を、また1625年には、フランチェスカ・カッチーニという女性作曲家が『ルッジェーロの救出』を作曲していて、これは日本でCD化されている(1989年FONTEC)。リュリとスカルラッティにもオルランドものはあるようだし、ヴィヴァルディとヘンデルにはそのものずばり『オルランド』という作品がある。ヘンデルにはあと2作、『アリオダンテ』と『アルチーナ』という名作が『狂えるオルランド』を原作としている。私がすっかり魅了されてしまった、キャサリン・ネイグルステッド演じる妖艶極まるアルチーナは、ハイドンのこのオペラのアルチーナと同一人物だったのである。

 「ルネサンスの精華」「芸術に捧げられた神殿」(デ・サンクティス)とまで評されている『狂えるオルランド』は、ヨーロッパの文化を知るうえでの必読の書であるようだ。2001年に脇功氏の訳で全訳が出版されている(名古屋大学出版会)。大部で高価の書のようだが、これは読まないですますわけにはいかないだろう。オルランドの、アンジェーリカ姫への狂恋のみをテーマとしたこのオペラの台本からは、原作の奥深さをとうてい感じ取ることはできない。

 さてハイドンの音楽である。人が音楽を聴いて感動するのは、そこに「真実の感情」を感じ取るからである。とりわけオペラにおいては、多彩な登場人物一人ひとりにリアリティが内在していないと、まず劇として成り立たない。オルランドの狂気、アンジェーリカとメドーロの愛と哀しさ、エウリッラとパスクワーレの輝く生気、ロドモンテの行き場のない怒り……。音楽は台本を超えて、聴くものの心に強く響くものがあった。

 若い臼木あいさんの、どこまでもコントロールされた美しいコロラトゥーラ・ソプラノは、今公演の最大の収穫。バッハ・コレギウム・ジャパンのカンタータ演奏でリリックな声を聴かせてくれている櫻田亮さんとの二重唱もとても良かった。お二人のモーツァルトのオペラを是非とも聴きたいものだ。パスクワーレを歌ったルカ・ドルドーロさんは、そのコミカルな演技で異彩を放っていた。オーケストラ・ピットまでせり出す額縁つき舞台とスクリーンを用いて、場面転換の多いこのオペラを巧みに視覚化した粟国淳さんの演出も、この上演の成功に一役買っている。寺神戸亮さんの指揮するレ・ボレアードの上質な演奏抜きには、このオペラを語ることはできないのはもちろんである。


2008年10月25日 

北とぴあ・さくらホール
指揮:寺神戸 亮
演出:粟國 淳
出演:
[オルランド]フィリップ・シェフィールド 
[アンジェーリカ]臼木あい  
[ロドモンテ]青戸知
 [メドーロ] 櫻田亮
[エウリッラ]高橋薫子  
[パスクワーレ]ルカ・ドルドーロ
[アルチーナ]波多野睦美
[リコーネ]根岸一郎
[カロンテ]畠山茂
管弦楽=レ・ボレアード

2008年11月23日 j-mosa


楽しい映画と美しいオペラ―その15

2008-10-17 01:12:09 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラ―その15

   肉体の快楽と精神の愉悦 『バベットの晩餐会』

 初秋の夕刻、露天の温泉に身をゆだねて、空ゆく雲を眺めていた。暮れなずむ青空を背景に、わずかに夕陽に染められた雲が、ゆったりと動いていく。豊かな湯で身体はほどよく温められ、自然を楽しむあり余る時間もある。まさに至福の瞬間だった。肉体の快楽が人生に及ぼす影響も、なかなかに無視できるものではない、などと思いをめぐらせたのも、前日に観た『バベットの晩餐会』の余韻が色濃く残っていたからだろう。

 『バベットの晩餐会』が製作されたのは1987年。すでに20年余の歳月が流れている。我が家のDVDは、2005年に12チャンネルで放映されたものを録画したものである。なぜか旅の空の下で、もう一度その録画を観てみたいと、出発の直前、私はそのDVDをリュックに詰め込んだのだった。旅先の小さな受像機に映し出された映像は、またも私の心に静かな感動を呼び起こした。そして、肉体と精神の関わりについて、ささやかな思考を展開することになったのである。

 北国の荒涼とした砂浜。打ち寄せる波が荒々しい。海岸近くには漆喰で固められた粗末な家が何軒かあり、軒下には何尾もの鱈が吊るされている。そのうちの一軒の家の、さほど広くない一室に、年老いた姉妹を中心に何人かの人々が集っている。賛美歌が歌われているところをみると、どうやらクリスチャンの集いであるらしい。いかにも宗教映画が始まるという厳かな雰囲気である。

 そう、この映画は、ある意味では宗教映画である。舞台となるユトランド半島先端の小さな漁村は、教会を中心にして生活が営まれており、かつて存在した高潔な牧師の教えを精神的な支えとしている。生活は貧しいながらも、神への信仰を共有して、互いに助けあう毎日である。単調ではあるものの、このような日常が幸せでないことはあり得ないであろう。

 時は19世紀の半ばをはさんでの50年間、世界は大きなうねりをもって動いていた。この寒村にかかわることになる二人の青年もその渦に巻き込まれる。一人はスウェーデンの軍人として出世し、一人はバリトン歌手として一世を風靡するが、ともに晩年の満ち足りなさを嘆くことになる。富や名声や権力だけでは人生を完結できない。この映画は、人間の幸せとは何かを問う、哲学的な映画ともなっている。

 このように書いてくると、いかにも真面目で、面白さに欠ける映画のような印象を与えてしまうが、なかなかそうではないのである。この映画は、気の利いた恋愛映画ともいえるのだ。登場人物は前述の二人の青年と、牧師の二人の娘である。50年の時を遡った彼ら二組のほのかな恋のやりとりは、謹厳な牧師もからんで、ユーモアに溢れている。とりわけバリトン歌手パパンと妹娘フィリパの出来事はおかしい。この寒村で休暇を楽しんでいるパパンは、教会で賛美歌を歌うフィリパの美声の虜になる。神の栄光を美しく歌うのに役立つと牧師を説得し、フィリパの歌のレッスンをすることになるのだが、その教材はなんとモーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』。しかもあろうことか、ドン・ジョヴァンニが村娘ツェルリーナを誘惑する二重唱なのである。これは私も大好きな美しい歌だが、ツェルリーナの揺れ動く女心が見事に表現された、ある意味でまことに危うい歌である。パパンは即刻首になる。

 さてこの映画の最大の観所は、もちろん、家政婦バベットが料理を供する晩餐会である。極め付きのフランス料理が出てくるので、この映画はグルメ映画ともいえそうである。ところで、そもそもバベットとは何者なのか。貧しい老姉妹の家に、なぜ家政婦が存在するのか。知的な相貌をもつ彼女は姉妹には一目置かれ、どうやら信者の人たちにもなくてはならぬ存在であるようだ。

 バベットが姉妹の家の戸を激しく叩いたのは、1871年のある嵐の夜だった。バリトン歌手パパンの紹介状を携えていた。彼がこの村を去ってすでに35年、フランスではパリ・コミューンの革命の嵐が吹き荒れていた。すでにコミューンは崩壊のさなかにあり、バベットはその混乱を逃れてきたのだ。夫も息子も動乱の中で死亡しており、行くところのない彼女は、いわば拾われる形で姉妹の家に住み込んだのであった。

 それからまた14年の歳月が流れ、バベットはすっかりこの村の住民となっている。パリとの関わりはただひとつ、宝くじである。パリにいる友人が折をみては買ってくれているのだ。そしてその宝くじで、彼女は1万フランという大金を得ることになる。庶民に大金が転がり込む契機としては、宝くじに当たるか、遺産が手に入るかしかない。後者ではありふれており、この映画の場合、宝くじがふさわしい。それはともかく、バベットはその大金を、亡き牧師の生誕百年を祝う集いに使うことを決意する。  

 食材の準備からして破天荒である。巨大な海亀が不気味に首を振り、ケージでは十数羽の鶉がせわしく鳴き交わす。何種類ものワイン、野菜果物の数々、氷の固まり。食材だけではなく、見慣れぬ食器や調理道具もある。すべてバベットが十数年ぶりにフランスに帰国して買い求めたものである。質素を旨とするプロテスタントである姉妹は動転する。バベットは悪魔に魂を売り渡した魔女にしか見えない。炎に焼かれて海亀がのたうちまわり、バベットが毒を盛る。そんな悪夢に姉娘マーチーヌは悩まされる。

 晩餐に集った人は12人。功なり名遂げ、将軍にまで栄達したローレンスもそのうちの1人である。彼ははるか昔、マーチーヌに恋をして思いを遂げられず、この村を淋しく去ったスウェーデンの士官である。集いは彼を核にして進められる。バベットが供する料理を正当に評価できるのは、彼のような上流階級でしかない。

 食前酒を口に含むや、ローレンスの目の色が変わる。「とびきりのアモンティヤード!」。スープはさらに彼を惑乱させる。「これは正真正銘、海亀のスープですぞ!」。極めつきは鶉のパイである。彼はかつてパリの超一流レストラン、カフェ・アングレでこれと同じものを食べた経験があった。料理の名は「鶉のパイ詰め石棺風」。フォアグラとトリュフも仕込まれている。そこの女性シェフのオリジナル料理だと言う。「彼女は料理を、一種の情事にまで高めたのです!」。将軍はいささか興奮気味である。「食べ進めると、もはや肉体の喜びなのか、精神の高まりなのか、区別がつかなくなる!」。

 他の臨席者の反応は鈍い。舌は神を賛えるためにあるのであって、料理を味わうためにあるのではない、と固く信じている彼らにとっては当然の反応なのである。ここは、敬虔なプロテスタントたちに、カトリックのバベットが力の限り挑戦しているのだと解釈できないこともない。そしてバベットの供するとびきりの料理は、そんな彼らの頑なな思いを少しずつ溶かしていく。牧師がこの世を去ってすでに数十年、信者たちの間にはすき間風が吹きはじめていた。料理は、人と人との関係を融和する力さえ持っていたのである。また、己れの人生に懐疑的であったローレンスの心も、異性の愛を知ることのなかったマーチーヌの心も、ともに料理に温められ、別れ際には永遠の愛を誓うことになる。

 姉妹がもっとも恐れていたことは、1万フランを手にしたバベットがこの地を去っていくことだった。しかし彼女は留まる。1万フランはすべて料理に注ぎ込まれたし、カフェ・アングレの元シェフ、バベットの帰る場所はパリではなく、この貧しい村なのであった(ちなみに当時の1万フランは今の700~800万円くらいか)。

 この映画は、確かに、すべてがおとぎ話かも知れない。しかし、このおとぎ話は、物語のすみずみにまで血が通い、不思議なリアリティを持っているのだ。宗教について、革命について、愛について、人間の幸福について、心と身体のあり方について――観終わって、様々に思いをめぐらさないわけにはいかない。しかし、満ち足りた、とても幸せな気分になることは間違いない。「私は人を幸せにしました」。晩餐の後、バベットは誇らしげに姉妹にこう告げるが、ここにこそ芸術の本質があるのにちがいない。

 巻頭に流れる、不協和音を多用した、それでいて心に染み入る不思議なピアノの調べ――これはローレンスとマーチーヌの若き日の出会いの場面でも用いられるが、フィリパが劇中で弾く晴朗なロココ風の音楽ともども大変印象的である。音楽の流れる場面は少ないものの、じつに大きな効果を上げている。光と闇をたくみに交錯させた、まるでフェルメールを思わせる美しい映像と合わせて、この映画はまた、第一級の「雰囲気の映画」といえよう。

1987年デンマーク映画

監督・脚本:ガブリエル・アクセル
原作:アイザック・ディネーセン
撮影:ヘニング・クリスチャンセン
音楽:ペア・ヌアゴー
出演:ステファーヌ・オードラン(バベット)、
ジャン・フィリップ・ラフォン(パパン)、
グドマール・ヴィーヴェソン(ローレンス・青)、
ヤール・キューレ(ローレンス・老)、
ヴィーベケ・ハストルプ(マーチーネ・青)、
ベアギッテ・フェザースピール(マーチーネ・老)、
ハンネ・ステンゴー(フィリパ・青)、ボディル・キェア(フィリパ・老)。

2008年10月3日  
j-mosa


楽しい映画と美しいオペラ―その14

2008-09-02 23:41:30 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラ―その14

  壮麗で絢爛そして哀切極まる歴史劇
          ―ヴェルディの『ドン・カルロ』

 前にも書いたように、私はモーツァルトと並んで、ヴェルディのオペラがとりわけ好きである。なかでも中期を代表する作品『ドン・カルロ』は、聴くたびに畏敬の念を伴った感動を覚える。ここにはヴェルディの鋭い歴史感覚、人間性への深い洞察力、そして何よりも、崇高で高貴な精神を感じとることができる。スケールの大きい大伽藍を思わせる音楽と、心に染み入る哀しみの音楽が見事に調和して、3時間を超える上演時間の長さをまったく感じさせない。

 『ドン・カルロ』は、パリのオペラ座から作曲を委嘱され、1867年に初演された。初演はフランス語で、タイトルも『ドン・カルロス』。原作は1787年シラー作の戯曲『スペインの王子ドン・カルロス』である。16世紀後半のスペイン王室を舞台にしている。初演は成功とは言い難かったようだが、同じ年にロンドンで上演されたイタリア語による『ドン・カルロ』は喝采を得た。そして今ではイタリア語版のほうが多く上演されている。もっともイタリア語版にも何種類もの版があり、今回取り上げるメトロポリタン・オペラのプロダクションは、1974年のクリティカル・エディションに拠っている。

 主要登場人物のスペイン国王フィリッポ(フェリペ)2世、その息子ドン・カルロ、王妃エリザベッタ(イサベル・ド・ヴァロア)は実在の人物で、物語の大枠も歴史的事実を踏まえている。フィリッポ2世時代のスペインは、新大陸とアジアに広大な植民地を持ち、「陽の没することのない大帝国」といわれていた。政治的にはハプスブルク・スペインの黄金時代であったわけだが、その経済力は彼の治世の初めから破綻をきたしていた。領土を護るための絶え間のない戦争と国内産業の不振。さらに領土の一部であるフランドルにはカルヴィニズムが浸透し、カトリックの主柱スペインに牙を剥きつつあった。

 フィリッポは1559年、フランスとカトー・カンブレジの和約を結び、イタリアの支配権を争って長年続いた戦争を終結させた。物語はここから始まる。スペインの使節とともに密かにフランスにやってきた王子ドン・カルロは、フォンテンブローの森で婚約者のフランス王女エリザベッタと初めて出会う。そして二人はたちまち恋に落ちるのだが、その喜びは束の間のものとなる。フランス王は娘を、二人目の妻を亡くしていたフィリッポと結婚させることにしたのだった。

 エリザベッタを忘れることができないカルロ。エリザベッタの心もカルロにあり、フィリッポはまたそのことを知っている。物語の核心部分をなすこの三角関係は、しかしどうやらシラーのフィクションであるらしい。精神を病んで言葉もまともに話せなかったといわれる実在のドン・カルロは、虐げられたフランドルを救わんという偉丈夫に変身させられたのである。

 ドン・カルロとエリザベッタの秘められた恋は、例えようもなく哀しい。ひたすら自分の恋情を訴えるかけるカルロに対して、恋心を深く胸に秘めながらも耐え忍ぶエリザベッタの姿は、痛々しくも胸を打つ。第1幕第3場、修道院前庭の場面、恋の苦しさで自失したカルロを前にして、自らも崩れ去る危うさを抱えながらも彼を厳しく諭すエリザベッタは、崇高の域に達している。このエリザベッタを歌って右に出るものはいないと思われるのは、ミレッラ・フレーニである。美しさはいうまでもなく、気品と繊細さ、さらにしなやかな強さを併せ持っている。このオペラには6人もの主要登場人物がいて、それぞれに力のある歌手を割り当てなければ成り立たない。なかでも、このエリザベッタ役はとりわけ重要である。この上演の成功は、何よりもフレーニの起用にあると思われる。

 いくつもあるこのオペラの聴きどころのひとつに、ドン・カルロとポーサ侯爵ロドリーゴ(この役のみフィクション)の友情がある。彼らはフランドルに同情を寄せている。第1幕第2場の2人の歌う二重唱は力強く印象的だが、ロドリーゴ役のルイ・キリコの影が薄いのがこのディスクの唯一の弱点。しかし同じ第1幕の第3場、フィリッポにフランドルの窮状を訴える場面は、歌唱はともかく、熱演である。対してフィリッポは、王の孤独を露わにしてロドリーゴに忠誠を誓わせるのだが、フィリッポを歌うニコライ・ギャウロフはキャリアの豊富さを感じさせて圧巻。ここは、王の側近という権力の座を前にして、ロドリーゴの心が揺らぐ場面である。権力は人間の持つ究極の欲望のひとつだが、このオペラは、権力をめぐる壮絶な戦いの物語でもあるのだ。

 絶え間のない戦争、国家財政の破綻、異端(カルヴィニズム)の勃興、それに加えて家族間の不和――フィリッポ2世の孤独は筆舌に尽くしがたい。フランドルの割譲を迫った息子カルロは、今や牢の中である。第3幕冒頭の彼のアリア「ひとり寂しく眠ろう」は、その孤独を歌って秀抜である。ここでもギャウロフが深い美声を駆使して素晴らしい。直後の宗教裁判長との論争も迫力満点である。王子カルロは処刑すべし、しかし最大の危険分子はロドリーゴであると声を荒げる宗教裁判長に、フィリッポは屈するほかはない。宗教と政治の激しい権力闘争を目の当たりにする思いだ。

 ロドリーゴの命をかけた犠牲とエボリ公女の機転でカルロは牢を抜け出る。そしてエリザベッタの待つサン・ジュスト修道院に向かう。大詰めの第3幕第3場、エリザベッタのアリア「世のむなしさを知る方よ」で始まるこのサン・ジュスト修道院の場面は、観るたびに涙が溢れ出る。アリアでは、カルロとのたった1日の美しい思い出とその後の苦悩の日々が切々と歌われ、残された願いはただひとつ墓所の安らぎのみと、締めくくられる。ここでのフレーニはエリザベッタそのものである。絶望の深さ、神への静かな、しかし激しい希求。私は、こんなにも美しく崇高なソプラノ歌手は、彼女以外にいまだ知らない。カルロと永遠の別れを歌う二重唱も、フレーニとドミンゴの類稀な歌によって、絶望が次元を超えた愛に昇華される。エリザベッタはもはや恋する人ではなく、母として息子カルロをフランドルに送ろうとする。しかし、二人の沈黙の間を縫って奏でられるオーケストラから聴きとれるのは、エリザベッタの哀しい女心である。ここでのエリザベッタの心中は、彼女の言葉からは容易に読みとることはできない。ただヴェルディの音楽のみが、彼女の底知れぬ哀しみを伝えるだけである。音楽の力に驚嘆する。 

 フィリッポと宗教裁判長はカルロをサン・ジュスト修道院に追い詰める。カルロはカール5世(フィリッポ2世の父)の墓に引き入れられて幕となるのだが、どの上演に接しても、この場面では戸惑うことになる。カルロは現実的に救われるのか、あるいは墓所の奥深く生を終えるのか。この演出はカルロに生を与え、一筋の希望を提示しているように思われる。

 ドン・カルロに横恋慕するエボリ公女役のグレイス・バンブリーの歌唱力にも脱帽する。他方ドン・カルロは、タイトル・ロールにしてはひ弱さがあり、いまひとつ物足りなさを感じさせる役柄なのだが、ドミンゴが演じるとその弱さは悲劇性を帯び、十分に主役のひとりとなっている。彼の柔らかく、それでいてドラマティックな歌は、やはり素晴らしいというほかない。とりわけフレーニと絡む場面は息をのむ出来栄えである。ジェイムズ・レヴァインは、最後のサン・ジュスト修道院の場面を聴いただけでも、第一級の指揮者だと納得させられる。

1983年3月26日 メトロポリタン歌劇場

指揮:ジェイムズ・レヴァイン
演出:ジョン・デクスター
出演:[ドン・カルロ]プラシド・ドミンゴ   
    [エリザベッタ]ミレッラ・フレーニ   
    [フィリッポ2世]ニコライ・ギャウロフ
    [ロドリーゴ] ルイ・キリコ
    [エボリ公女]グレイス・バンブリー   
    [宗教裁判長]フルッチョ・フルラネット  
    メトロポリタン歌劇場管弦楽団・合唱団

2008年9月1日  j-mosa


楽しい映画と美しいオペラ―その13

2008-08-12 12:11:06 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラ―その13

日常のなかの広島の悲劇今村昌平『黒い雨』  

 夏になると、ことに8月に入ると、かつての戦争のことを思い出させる情報が増えてくる。暦も6日の広島、9日の長崎、15日の終戦記念日と、戦争にまつわるメモリアルな日が続く。

 暑い夏の日の夜、私も戦争に思いを馳せて、何ヵ月も前にNHKのBSで放映された『黒い雨』の録画を観ることにした。長い間気に掛っていた映画なのだが、完成してからすでに20年近い歳月が流れていた。この怠慢を責めなければならないと感じたほど、今村昌平の『黒い雨』は力作であった。

 原作は井伏鱒二の同名の小説である。しかし物語そのものにはかなり変更が加えられていて、小説を読んだ後にこの映画を観た人は、少なからず戸惑うところがあるだろう。とはいえ、物語の大きな枠組みは原作から借用され、冷静沈着、しかし巧まざるユーモアを含んだ語り口は、原作そのものといえよう。

 1945年8月6日の朝、広島の空は高く晴れわたっている。その空を、風にゆられて、何かがゆっくりと舞い降りてくる。街では、戦時下の日常ではあるが、いつもの人々の生活が始まっていた。矢須子(田中好子)はたまたま広島を離れていて、荷物を預けにいった知人宅のお茶席に同席していた。戦争を忘れるのどかなひとときである。矢須子の叔父閑間重松(北村和夫)は、会社に向かうべく、横川駅から電車に乗ろうとしていた。通勤客などで一杯の、これも変わらぬ日常の光景である。空から降りてくる原子爆弾も、上空600メートルで炸裂するまでは、のどかな風景のなかにあったのだ。日常が一瞬のうちに地獄に化す。この恐怖を生なましく伝えて、映画は始まる。

 5年後、25歳になる矢須子は、福山市小畠村の重松の実家で、重松・シゲ子(市原悦子)夫妻、重松の母キン(原ひさ子)とともに暮らしている。家には、重松の幼なじみ庄吉(小沢昭一)や好太郎(三木のり平)などが出入りし、平和な毎日である。重松の悩みは、被爆者である自身の健康よりも、矢須子の縁組だった。彼女の元へは絶えず縁談が持ち込まれるのだが、被爆したという噂のため、破談になっていたのだ。重松は矢須子が直接被爆していないことを証明しようと、彼女の日記を清書し始める。それを縁談の相手に見せようというのである。日記が再現する広島の阿鼻叫喚の世界と、5年後ののどかな小畠村の情景。映画はこの二つの世界を対比させながら進む(重松の日記も援用される)。

 小畠村は小高い山に囲まれた、懐かしい日本の農村である。豊かな田園と緑濃い森。町からの木炭バスが、おそらく1日に1度、細い山道を登ってやってくる。重松は、庄吉と好太郎の3人で、原爆病にいいといわれる鯉の養殖を始める。幼なじみということの他に、彼らの共通項は被爆者であるということである。庄吉と好太郎は重松とは異なり、間接的な被曝であったのだが。彼らは小畠村出身者の救済のため、被爆直後の広島を歩き回ったのである。しかし原爆病の発症は、直接間接を問わなかった。まず庄吉が、続いて好太郎が原爆病で死ぬ。穏やかな日常のすぐ隣合わせに悲劇は存在する。被爆者は、63年経った今でも、その恐怖のなかで生きている。その状態を、「だまし打ちの恐怖」と、存命の被爆者が先日ラジオで語っていた。

小畠村ではさらに矢須子が、そしてシゲ子が発症する。シゲ子は広島市内の自宅で被爆し、矢須子は広島に戻る途中、船上で黒い雨を浴びたのだった。小畠村の被爆者にふりかかる出来事は、8月6日の広島のそれに劣らない悲惨なものであった。

 日常のなかの悲劇を表現してこの映画は高い水準に達しているのだが、全編に漂うそこはかとないユーモアが救いとなっている。几帳面で合理的な重松と、どこか現実離れしたシゲ子とのズレが、何ということもなくおかしい。それに、三木のり平と小沢昭一という濃厚なキャラクターが、ユーモアに大きく寄与している。生きていることの悲惨とおかしさ――その両面が彼らの演技から滲み出ている。

 救いといえば、矢須子と、戦争で神経を冒された悠一(石田圭裕)との、ひそやかな愛であろう。地主階級の重松の姪である矢須子に比べれば、悠一は家柄も低く、精神障害者である。悠一の母親(山田昌)は、矢須子を息子の嫁にほしいと重松の家を訪れるのだが、この場面がなかなかにいい。母親はもう端から恐縮して、用件を言い出せない。さんざん迷ったうえでの彼女の話を聞いた重松は、唖然とする。身分も違うし、おまけに悠一には障害がある。容易に縁談がまとまらない矢須子の足元を見透かしているのではないか、と怒るのである。そこに矢須子が現れて悠一との関係を打ち明ける。彼とは心を開いて話し合うことができるのだと。何時間話し合っても飽きることがなく、沈黙さえも共有できる間柄になっていたのである。

 矢須子はこの場面の直後、原爆症が悪化して車で病院に運ばれる。そしてそこには悠一がつき添う。エンジン音を聞くと神経症を発症していた悠一が車に同乗したのである。車が小畠村を去った後、重松は遠くの山の峰々に目をやってこう思う。そこに虹がかかったなら矢須子の命は助かると。その峰を遠望して映画は終わるのだが、虹はまだ見ることはできない。しかし、間違いなく虹はかかったはずである。原爆症も精神障害も乗り超えた美しい虹が。

 田中好子は不思議な存在感があり、静かで自然な演技で好感が持てた。またこの映画は、北村和夫の代表作に数えられるのではないだろうか。新劇俳優独特の臭いも取れて、実直で愛情深い、初老でありながらまだ生命力の残滓を感じさせる男を好演した。河原で荼毘に付される遺体の前で、僧に代わって「白骨の御文章」を読むくだりは、原爆の残酷さと命の儚さを伝えて、とりわけ印象深い。この映画の成功は、何よりも北村和夫の存在にあるとの思いを強くした。

1989年日本映画
監督:今村昌平
脚本:今村昌平・石堂淑朗
撮影:川又昂
音楽:武満徹
出演:北村和夫、市原悦子、田中好子、三木のり平、小沢昭一

2008年8月6日 

j-mosa


楽しい映画と美しいオペラ―その12

2008-07-02 22:46:05 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラ――その12

反戦と愛、それがメッセージ!――コンヴィチュニーの『アイーダ』

 ヴェルディはモーツァルトと並んで私の特別に好きなオペラ作曲家である。なかでも中期の作品、『仮面舞踏会』『運命の力』『ドン・カルロ』は繰り返し聴く演目だ。『アイーダ』となると、有名な凱旋行進曲に象徴されるように、あまりにきらびやか過ぎて、ちょっと敬遠するところがあった。にもかかわらず、今年の春は立て続けに『アイーダ』を観ることになった。3月10日のゼッフィレッリのものと、4月17日のコンヴィチュニー作品である。

 フランコ・ゼッフィレッリはイタリアのヴェテラン演出家で、『ロミオとジュリエット』など何本もの映画作品もある。一方、ペーター・コンヴィチュニーは今をときめくドイツのオペラ演出家である。この『アイーダ』は、1994年にオーストリアのグラーツで初演されたもので、いわば彼の出世作である。あまりの斬新さゆえに、トマトを投げつけられたという話が伝わっている。

 さて私の観た2つの『アイーダ』は、演出の面でまったくの両極端にあるものといっていいだろう。それは第2幕の凱旋の場面を観ればよくわかる。ゼッフィレッリの方はそれこそ絢爛豪華、数えきれないくらいの老若男女が登場し、本物の馬が闊歩する。コンヴィチュニーはそれとはまったく正反対の手法をとった。壁に囲まれた狭い室内で、アイーダをはじめとする数人の人物しか登場しない。凱旋の行進は部屋の外で行われていて、観客にはその勇姿は見えない。

 だいたいコンヴィチュニーの『アイーダ』は、一貫して額縁つきの室内で物語が展開する。装置といっても赤いソファが1つあるばかり。従来のファンからは詐欺だとの謗りを受けてもおかしくはない。しかしそのお陰で私は、『アイーダ』という作品の、絢爛さとはまったく別の側面を再認識することとなった。

 『アイーダ』は、スエズ運河開通を記念してカイロに歌劇場を建設したエジプトの太守から依頼された作品である。壮麗な見せ場を要請されていたことも察せられるが、当時ヴェルディは円熟の58歳、このオペラには重層的な人間ドラマが十分に織り込まれた。そしてコンヴィチュニーは過剰な装飾をばっさりとそぎ落とし、そのドラマに強烈な光を当てたのである。しかも今まで誰も試みたことのない、ヴェルディの反戦の意思を浮き彫りにした。

 第2幕のラダメスはエチオピア軍を打ち負かした英雄などではなく、ちょうどヴェトナム戦争帰りのアメリカ軍兵士のように疲弊している。軍服は血と埃で汚れ、表情も虚ろである。戦場で戦争の悲惨さを体験してきたに違いない。一方室内では、エジプト国王、祭司長、アムネリスが乱痴気騒ぎに興じている。

 この第2幕は、コンヴィチュニーの主観的な歪曲なのだろうか。そうではなさそうである。『アイーダ』初演は1871年12月24日。普仏戦争が終結した翌年である。ヴェルディは、プロイセンのヴィルヘルム1世をエジプト国王に投影させたのだ、という見方もあるのだ。友人に宛てた手紙のなかで、神の名のもとにヨーロッパを破壊したと、ヴィルヘルム1世を非難している。エジプト国王=ヴィルヘルム1世は、少なくともコンヴィチュニーにとっては、勃興する帝国主義の象徴なのだ。

 額縁つきの狭い室内空間は2度だけ開け放たれる。第2幕の最後、エチオピアの捕虜たちが慈悲を求める場面では、後ろの壁が突然開き、副指揮者に率いられたサブ・オーケストラと合唱隊が演奏している姿が現れる。それまで私の意識もまた狭い密室空間のなかにあったのだが、ここでまず開放される思いがする。虚構と現実が入り混じる新しい空間は、実に新鮮であった。

 最後の場面は、第2幕どころでない開放感を観るものに与えてくれる。地下牢と化した室内空間のすべての扉が開き、背後には大都会の夜景が舞台一面に映し出される。点のように小さく車が走り、電車が通り、ビルの窓の明かりが瞬く。閉じ込められて窒息死を待つしかなかったラダメスとアイーダが、手を携えてその夜景のなかに姿を消す。政治のドラマは、永遠の愛を歌い上げることにより、静かに幕が下ろされるのであった。

2008年4月17日 
オーチャードホール
指揮:ウォルフガング・ポージッチ
演出:ペーター・コンヴィチュニー
出演:[アイーダ]キャサリン・ネーグルスタッド   
    [ラダメス]ヤン・ヴァチック   
        [アムネリス]イルディコ・セーニ
        [アモナスロ]ヤチェック・シュトラウホ   
       [エジプト王]コンスタンティン・スフィリス   
       [祭司長]ダニロ・リゴザ   
東京都交響楽団、
東京オペラシンガーズ、
栗友会合唱団

2008年6月30日 j-mosa


楽しい映画と美しいオペラ―その11

2008-05-24 21:32:54 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラその11

  働くことの意味を問う――黒澤明『わが青春に悔なし』  

 日本映画の巨匠たち、溝口健二、小津安二郎、成瀬巳喜男、この三人に比べれば、私にとって黒澤明は、少し遠い存在だった。『羅生門』、『生きる』、『蜘蛛巣城』、『七人の侍』、『用心棒』、『天国と地獄』、『赤ひげ』など、主要作品は観てきたつもりだが、面白いものの、いまひとつ心に訴えるものに欠けるというのが、正直な印象なのである。

 何年間かごとに繰り返し観る映画がある。例えば成瀬巳喜男の『浮雲』や小津安二郎の『東京物語』などがそうなのだが、観るたびに受ける印象が異なる。それはそれらの作品の内容に少なからず多面性があり、歳を重ねるごとに新しい発見があるということである。他方、黒澤の作品は明解である。弱者へ暖かい眼差しを注ぐそのヒューマニズムには強く共感するが、芸術作品としてどうしても物足りなさを感じてしまう。染み入るような情感に乏しく、またテーマが直接的でありすぎて、考える楽しみを与えてくれない。

 今年は黒澤明の没後10年。それを記念して、NHKのBSで全作品を放映中である。先日、初期の作品である『わが青春に悔なし』を観た。なにやかや述べているものの、時間をみつけては黒澤作品を鑑賞するのは、やはり面白いからである。映画作品として、この要素は一番大切なものなのかもしれない。黒澤は現実をよく心得ていたといえる。それと、画面が構築的で、優れた建築物を観る思いがする。美的感覚の鋭さ、雄大さ、また、効果的なクローズアップの用い方など、黒澤作品の特徴がこの初期の作品からも十分にみてとれる。

 『わが青春に悔なし』は、1933年の京大・滝川事件と41年のゾルゲ事件に題材をとった、黒澤の戦後第一作である。戦中の思想弾圧から解放されて、彼ははじめて自分の考えを作品に反映させることができた。それも渾身の剛速球である。テーマは明解で女性の自己実現。今でこそ珍しいテーマとはいえないが、1946年にこういう映画を作った黒澤には敬意を表さざるをえない。

 二人の男性から想いを寄せられる、大学教授(大河内伝次郎)の令嬢幸枝を演じるのが原節子である。男性は二人とも教授の教え子で、秀才型で穏健な糸川(河野秋武)と、左翼思想の行動家野毛(藤田進)。自由思想家ということで大学を追われようとする教授を支援する京大生である。彼女は二人の愛の狭間で迷うが、迷いはそれだけではない。ピアノを弾き、お花を習いという、いわゆる花嫁修業の毎日の生活に苛立つ。母親の望みどおり糸川と結婚することも考えるが、結局は自立を求めて、一人東京に出る。タイプが打てることで職は得られるものの、その仕事で自分の空虚を埋めることができない。身も心も投げ出すほどの仕事がしたい、と思い続けるのである。

 この映画は、働くことの意味を根底から問うものとなった。単に経済的自立を超えて、仕事に「生きがい」を求める女性を登場させたのである。さらにいえば「自由」を求める女性を。彼女は、「自由の裏には厳しい自己犠牲と責任がともなう」という父親の言葉を常に意識して生きていくことになる。

 野毛と激しく結ばれたのも束の間、彼はスパイの嫌疑で逮捕され、獄中で死ぬ。そして幸枝は、野毛の両親を助けるために田舎に赴く。スパイを出したとして村八分にされた家で、彼女は慣れぬ鍬を手に、田んぼを耕す。この労働は死ぬほどに辛いものであったはずである。しかし彼女は、ここではじめて仕事に生きがいをみいだすのだ。彼女の労働は老いた義父母を助け、愛するひとにもつながるものであった。働くことの意味は、関係性のなかにこそあるのだと、実感させられる。

 幸枝を演じた原節子が素晴らしい。小津安二郎や成瀬巳喜男の映画で幾度となく彼女の姿は観ているのだけれど、この映画の原節子は際立って美しい。優美さはもちろん、強さ、激しさから弱さ、残酷さまで、原節子のすべてが堪能できる。人間原節子をここまで表現しえたとは! やはり黒澤明は、尋常な監督ではないようだ。

1946年日本映画
監督:黒澤明
脚本:久板栄二郎
撮影:中井朝一
音楽:服部正
出演:原節子、藤田進、大河内伝次郎、河野秋武、志村喬、杉村春子

2008年5月16日 
j-mosa


楽しい映画と美しいオペラ―その10

2008-05-13 12:09:14 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラ――その10

イスラームの寛容――モーツァルトのオペラ『後宮からの誘拐』

 現代の世界は、アメリカの主導する経済のグローバリズムに、すっかり席巻されている。それに対抗しうる政治勢力はきわめて少なく、イスラームはその中の最大のものといっていいだろう。もちろん、自爆テロをはじめとするその戦いの方法は受け入れることができないが、イスラームの中に、反グローバリズムの確かな精神的背景を探り出したい気持ちは強くある。

 このブログの2007年8月28日号で、北沢方邦先生は中世のイスラーム文明について書かれている。それによるとイスラームは、数学、化学、医学、天文学、建築学、航海術、さらには哲学、文学、音楽と、あらゆる文化の領域にわたって豊かな成果を生み出している。これらの文化的遺産がなければ、現代の世界はまったく異なったものになっていただろう。そしてその豊穣な文明が生まれた背景には、イスラームの宗教的寛容があったという。ユダヤ教、キリスト教、ゾロアスター教、ヒンドゥー教が、イスラーム教とともに併存していたというのだ。グローバリズムを推進する現代世界の主流勢力はもちろん、肝腎のイスラームも、残念ながら、もっとも大切なイスラームの精神、「寛容」を学んでいないということになる。

 『後宮からの誘拐』は、モーツァルト14番目のオペラで、1782年に初演された。1782年といえば、モーツァルトがザルツブルクの宮廷から飛び出し(つまり脱サラをし)、ウィーンで自由な音楽家として出発した翌年にあたる。コンスタンツェ・ウェーバーと結婚したのもこの年で、いわばモーツァルトがもっとも活力にあふれ、またおそらく幸せな時期でもあったろう。明快なメロディーと弾けるリズム、若さあふれる意欲作である。そしてこの作品を特徴づけるもうひとつの大きな要素が、「イスラーム」なのである。

 13世紀末に登場したオスマン帝国は、16世紀にはアジア・アフリカ・ヨーロッパにまたがる勢力を持ったが、17世紀末からは衰退に向かっていた。モーツァルトの時代にはもはや脅威ではなくなり、むしろその文化は、異国情緒を醸し出すオリエンタリズムの魅力で、多くの芸術家たちを惹きつけていたようだ。モーツァルトも、有名なピアノ・ソナタK331やヴァイオリン協奏曲K219に、トルコ風の音楽をつけている。トルコ風の音楽とは、トルコの軍楽隊の音楽で、何よりも弾けるようなリズムが特徴である。シンバル、トライアングル、大太鼓など、打楽器が大活躍をする。

 『後宮からの誘拐』は、まず序曲からしてトルコそのもの。指揮者のミンコフスキーの大きな丸っこい身体が、右に左に、上に下に、リズミカルに躍動する。大成功の初演に臨席したモーツァルトの得意満面の顔も浮かんでくるようだ。そして、トルコ音楽をもっともよく体現しているのが、後宮の番人(この上演では太守の秘書官)オスミンである。最初の台本ではほんの端役だったそうだが、モーツァルトが大きく手を加えて、このオペラの一方の要の役となった。恋人の救出を阻むいわば悪役なのだが、どこか憎めないキャラクターで、魅力的な音楽がふんだんに与えられている。『後宮』の魅力は、何よりも、このオスミンにあるといっても過言ではないだろう。モーツァルトは、大衆の心をつかむ術をよく心得ていたと、感心せざるをえない。

 オスミン役のフランツ・ハヴラタ、囚われの女性コンスタンツェ役のクリスティーネ・シェーファーなど、歌手陣は総じて巧みで、ミンコフスキーの指揮も最後まで躍動感を失わない。申し分のない演奏といえる。しかし、この上演を特別に印象深くしているのは、何よりも、パレスチナ人であるフランソワ・アブ・セイラムによる演出である。

 この上演は現代劇である。後宮は有刺鉄線で囲われ、武装した兵によって厳重に守られている。こうしてのっけから、イスラームと西洋世界の対立の構図を見せつけられる。太守セリムはビジネスマンなのか、仕事着はスーツである。しかし室内ではアラブ風の服装で、そこではイスラームの音楽が奏でられている(これはもちろんモーツァルトの原曲にはない)。彼はアラビア語(?)でコーランを読む。後宮は濃密なイスラームの世界であり、太守セリムはその伝統を守りながらも、西欧の知識にも通じた知識人なのである。心の通じ合わない愛などありえないこともよく理解している。コンスタンツェを愛しながら、彼女にそれを強要することはない。

 この太守役のアクラム・ティラウィがなかなかいい。テル・アヴィヴ大学で演劇を学んだ人らしいが、若々しくて情熱的、しかも知的という、女性に好まれる要素をたっぷりと備えている。囚われのコンスタンツェが、抗いながらも惹かれていくのも、もっともだと思わせる。恋人ベルモンテは、危険を冒して彼女を救いに来ているのだが、人間的魅力という点では太刀打ちできない。

 芝居としてのハイライトは最後の場面。後宮から逃走しようとするベルモンテとコンスタンツェたちは捕らえられ、まさに死刑に処せられようとする。ベルモンテが太守の宿敵の息子だとわかってさらに危機は深まる。しかし太守セリムは、彼らの命を救うのである。憎しみには、憎しみにかえて、寛容で応えるほかはない、というのが太守の哲学なのだ。当時の啓蒙君主・ヨーゼフ2世の寛容を称える意図はあったにせよ、イスラームの太守の道徳律が、西洋人ベルモンテ一族(スペインの貴族)のそれよりもはるかに勝っていることを、このオペラは明確に伝えている。原曲の精神を踏まえたうえで、この上演は、太守の美しい旋回舞踏で幕を閉じる。中世イスラームの神秘思想スーフィズムの、神との一体感を表現するのが旋回舞踏だといわれている。私たちは今こそ、イスラームの精神を、真剣に学ぶ必要がありそうである。

1997年8月 ザルツブルク・レジデンツ
指揮:マルク・ミンコフスキー
演出:フランソワ・アブ・セイラム
出演:
[コンスタンツェ]クリスティーネ・シェーファー   
[ベルモンテ]ポール・グローヴズ   
[ブロントヒェン]マリン・ハルテリウス
[ペドリルロ]アンドレアス・コンラート   
[太守セリム]アクラム・ティラウィ   
[オスミン]フランツ・ハヴラタ   
ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団、
ウィーン国立歌劇場合唱団

2008年4月17日 j-mosa


楽しい映画と美しいオペラ―その9

2008-01-28 21:09:15 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラ―その9

人生の空虚と愛――カール・ドライヤー『ガートルード(ゲアルトルーズ)』  

 デンマークの映画には圧倒される思いがする。とはいっても、実は3本しか観ていないのだが。そのうちの2本は、ラース・フォン・トリアーの『奇跡の海』と『ダンサー・インザ・ダーク』。ともにカンヌ映画祭で賞を得ている。前者は1996年のグランプリ、後者は2000年のパルム・ドールである。商業化されているとはいえ、この2本に高位の賞を与えているカンヌ映画祭は、捨てたものではないと思っていた。2つの映画とも女性が主役で、信仰あるいは愛について、極限の問いかけをした内容だった。手持ちカメラを駆使した不安定な映像に自分の心の動揺を反映させて、息をのむ思いで観入った記憶がある。

 そのトリアー監督は、故国デンマークの大先輩、カール・ドライヤー(1889~1968)を、当然のことながら尊敬している。もちろん大きな影響を受けているらしい。この事実を知っていながら、恥ずかしいことに、私はドライヤー作品を1本も観ていなかった。今度『ガートルード(ゲアトルーズ)』をNHKのBSで観たのも、まったくの偶然だった。友人から録画を依頼され、数日後にそれを観るに及んではじめて、それがドライヤーの作品だということを知ったのである。

 ドライヤーの作品でもっとも有名なものは、無声映画時代の『裁かるるジャンヌ』だろう。クローズアップが「映画史上もっとも美しく」用いられていると評されているが、これが1927年制作。そして私が観た『ガートルード』は1964年の作品。この37年の間に、長編映画としては、ドライヤーは5本の作品しか撮っていない。もっとも、1918年の第1作から生涯に作った長編作品は14本というから、寡作の映像作家であったようだ。

 『ガートルード』のモノクロの映像は、緊密で、構築的で、少しの無駄もない。まずこのことに感銘を受ける。最後の作品ということもあり、ベートーヴェンの最後の3つのピアノ・ソナタを連想する。作品の核が「愛」ということも共通している。ベートーヴェンのピアノ・ソナタに秘められた愛は、〈不滅の恋人〉アントーニアへの愛であるが、この映画は、女主人公ガートルードの、男性への愛を中心に展開する。

 ガートルードは、全身全霊をこめて男性を愛する。その愛は神聖であり、善であり、美でもある。それは、彼女が観にいこうとしているオペラ、ベートーヴェンの『フィデリオ』に描かれる愛に共通する。女主人公レオノーレ(男装してフィデリオと名乗る)は、命を賭して囚われの夫を救うのだが、このような愛に近い、ガートルードの存在を賭けた愛を、男たちはよく受け止めることができない。

 男たちには仕事がある。別れたかつての恋人には詩作が、夫には弁護士業が、愛人には作曲が。愛は彼らの心に大きな位置を占めるものの、彼らの人生のすべてだとは言い難い。しかし、愛がすべてだと信じるガートルードにとって、男たちは愛を見下しているとしか思えない。ここに悲劇が生じる。彼女は男たちから去り、ひとりパリに向かう。男たちには、なぜ彼女が去っていったのか理解できない。

 ところで、「愛を見下していた」男たちは、幸せを得たか。芸術上の名声も、権力も、富も、彼らの心の空虚を埋めることはできなかった。幸福は、愛を欠いては得られない。では、愛を成就させるためには、いったい何が必要なのか。この映画は、根源的な問いを投げかけている。

製作年:1964年
製作会社:パレージウム(コペンハーゲン)
監督・脚本:カール・ドライヤー
原作:ヤルマール・セーデルベルイ
撮影:ヘニング・ベンツセン
編集:カール・ドライヤー、エーディト・シュルッセル
サウンド:クヌズ・クリステンセン
音楽:ヨアン・イェアシル
舞台美術:カイ・ラーシュ
衣装:ベーリット・ニュキェア
出演:
ガートルード/ニーナ・ペンス・ローゼ
グスタフ・カニング/ベンツ・ローテ
ガブリエル・リーズマン/エッベ・ローゼ
エアラン・ヤンソン/ボアズ・オーヴェ
アクセル・ニュグレン/アクセル・ストレビュ

2008年1月19日 j-mosa


楽しい映画と美しいオペラ―その8

2007-11-01 23:35:53 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラ――その8

モーツァルト・オペラの極北――ザルツブルクの『フィガロの結婚』
            
           

 2006年はモーツァルトの生誕250年ということで、世界中のコンサート会場に彼の曲が溢れかえった。前年12月31曰のべルリン・フィルのジルベスター・コンサートも、『フィガロの結婚』序曲で幕を開け、『ピアノ協奏曲第9番』、『交響曲第38番』、そして『フィガロ』第4幕のフィナーレで終わるという、オール、モーツァルト・プログラムだった。

 モーツァルトの生誕地ザルツブルクで毎年夏に行われる「ザルツブルク音楽祭」も、もちろんモーツァルト一色で、オペラ作品全22作すべてが上演された。指揮者も歌手も話題の人たちを登場させて、それぞれの作品が話題をよんだようだが、なかでもオープニングを飾った『フィガロの結婚』は、チケットが容易に手に入らず、40万円ものプレミアムが付いたとか。アーノンクールの指揮はもちろんだが、何より、スザンナ役のロシアの歌姫、アンナ・ネトレプコがお目当てということだったのだろう。

  この『フィガロ』が、10月8日の午前1時前から、NHKのBSで放映された。いつものように予約録画でと思いながら、さわりの部分を観始めたら、もう止めることができず、結局、早朝4時まで観るハメになってしまった。

 この舞台は、オペラ『フィガロの結婚』の極北に位置するものではないだろうか。演出のクラウス・グートは、オペラの革新者モーツァルトの意図を、極限まで押し進めたのだ。オペラは、モーツァルトにおいて、真の意味でドラマとなるが、グートが作り上げた舞台は、男女の激しい愛憎が交錯する、それこそ現代心理劇となった。その結果、主役はもはやフィガロではなく、ましてやスザンナでもなく、彼らの雇用主、伯爵とその夫人になってしまった。この舞台の最大のウリが、スザンナ役のネトレプコであったはずが、皮肉なことに、影がきわめて薄くなったのである。その意味では、この舞台は失敗ということになるが、これはおそらく、グートの考えを超えたことだったに違いない。

 本来の主役フィガロも、また音楽上の主役スザンナ(美しいアリアを与えられており、重唱に参加する割合がもっとも多い)も、心理的にはそれほどの深みを持っていない。陽気で明るく、機転もきくが、男女間の微妙な心の綾からは遠いところにいる。いっぽう、夫の心変わりに傷ついている伯爵夫人の絶望は深い。夫人を愛しながらも、他の女性を追い求めざるを得ない伯爵の心も、複雑である。心理劇としたからには、必然的に、伯爵とその夫人が主役にならざるを得ないのである。アーノンクールも、演出意図を正確に把握して、モーツァルトの音楽から、かつて耳にしたこともない激しい情念を引き出した。脱帽と言うほかない。この意味では、稀にみる舞台となった。

 モーツァルトの音楽の凄さは、第2幕に集中的に表れる。伯爵夫人の部屋の衣裳部屋にケルビーノが隠れ、彼女はそれをスザンナだと言い逃れをするのだが、伯爵は信じない。夫人の愛人が隠れているものだと確信して、夫人を非難する。嫉妬に荒れ狂う伯爵と、それに必死で対抗する伯爵夫人。この二人の二重唱(ときにスザンナも絡む三重唱となる)は、争いと嘆きの場面だけにとても激しい。しかし、その美しさは何としたものだろう。人間の醜さと弱さが、激烈でありながら、同時にこんなにも美しく表現されるとは! モーツァルト以外の、誰がこのような音楽を書くことができただろう。ここでは、「ドラマティスト」アーノンクールの面目が、躍如としている(ドロテア・レシュマンは伯爵夫人の哀しみを激しく歌って見事、ボー・スコウフスも伯爵の欲望と嫉妬をよく表現した)。

 モーツァルトの音楽は、エロスを抜きには語れない。『フィガロ』ももちろん、エロスに満ち溢れたオペラだが、とりわけケルビーノがふんだんにそれを体現している。彼には有名な2つのアリアがあり、特に第2幕の「恋とは何かを知るご婦人方」には、伯爵夫人やスザンナならずとも、男の私でさえ、恍惚の境地にひき込まれてしまう。アーノンクールは、もう、音楽の流れなどにこだわらない。少年ケルビーノの、女性に対する憧れや欲望、満たされない想いなどが、尽きぬ泉のように溢れ出、渦巻き、ときに行き場を失う。ケルビーノのクリスティーネ・シェーファーが素晴らしい。

 私の『フィガロ』の原点は、ベームが指揮をし、プライ、フレーニ、テ・カナワ、フィッシャー=ディースカウが歌った、1976年録画のものである。演出はジャン=ピエール・ポネル。優美で、牧歌的で、誠に楽しい。私はこのディスクが大好きである。主役はまさしくフィガロとスザンナで、彼らが歌いあげるアリアや重唱は、まさに天上の音楽。現代は、もう、あのような舞台を作ることはできないのだろうと思うと、寂しさはひとしおである。

2006年7月 ザルツブルク・モーツァルトハウス
指揮:ニコラウス・アーノンクール
演出:クラウス・グート
装置・衣装:クリスティアン・シュミット
出演:[アルマヴィーヴァ伯爵]ボー・スコウフス   
[伯爵夫人]ドロテア・レシュマン   
[スザンナ]アンナ・ネトレプコ   
[フィガロ]イルデブランド・ダルカンジェロ   
[ケルビーノ]クリスティーネ・シェーファー   
[マルチェリーナ]マリー・マクローリン   
[バルトロ]フランツ=ヨーゼフ・ゼーリッヒ   
[バジリオ]パトリック・ヘンケンス   
[ドン・クルチオ]オリヴァー・リンケルハーン   
[アントニオ]フローリアン・ベッシュ   
[バルバリーナ]エヴァ・リーバウ   
[ケルビム(キューピッド)]ウリ・キルシュ   
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、
ウィーン国立歌劇場合唱団

2007年10月29日 
j-mosa


楽しい映画と美しいオペラ―その7

2007-10-02 11:51:45 | 楽しい映画と美しいオペラ
楽しい映画と美しいオペラ――その7

イングマール・ベルイマン追悼――『ファニーとアレクサンデル』

 7月30日、ベルイマンが死んだ。スウェーデンの映画監督、イングマール・ベルイマンである。1960年代の後半に学生時代を過ごした私たちには、心に強く残る映画監督のひとりである。

 たまたま先日、あることを調べていて、昔購入した本をひもとくことがあった。そしてその本の中ほどの頁に、しおり代わりに使っていたのだろう、映画館のラインナップを記した小片を見つけた。新宿の、確か伊勢丹の前にあった小さな映画館、日活名画座のしおりである。3日交代で2本立ての映画が公開されていたらしく、ベルイマンの『沈黙』(1963)と『鏡の中にある如く』(1961)が、10月16曰から18日に上映されていたことがわかる。それらのタイトルの横には、〇印が付されている。さらにしおりのはさまれていた本の奥付の頁には、‘68、9/6と、購入された日付が記されていて、私のはじめてのベルイマン体験が、おそらく、68年の10月であったろうことが推測されるのである。

 その後は、『野いちご』(1957)、『処女の泉』(1960)、『ある結婚の風景』(1974)、『魔笛』(1975)、『秋のソナタ』(1978)を観たくらいで、ベルイマンのいい観客では必ずしもなかったけれど、神と性、そして夫婦のあり方を執ように問いかけるその姿勢と、モノクロームの、暗く静かな、しかし、大胆な構図の映像ともども、彼は忘れ去ってはならない映画監督であり続けてきた。

 7月の訃報に接して、初期の『不良少女モニカ』(1953)と『夏の夜は三たび微笑む』(1955)、70年代の『叫びとささやき』(1973)、80年代の『ファニーとアレクサンデル』(1982)の4本を、立て続けに観た。今回は、ベルイマン最後の映画作品、『ファニーとアレクサンデル』について書こうと思う。どうやらこの作品には、ベルイマン映画のあらゆる要素が盛り込まれているような気がするのである。

 『ファニーとアレクサンデル』は、私のベルイマン映画に対する先入観を完全に覆すものだった。「神」というベルイマンの終生のテーマがこの映画の1つの核であるにせよ、全編にユーモアが溢れ、猥雑さが垣間見え、まるでフェリーニの映画を観ているような気分に陥った。モーツァルトのオペラを映画化した『魔笛』と、『夏の夜は三たび微笑む』からは、ベルイマンの巧まざるユーモアのセンスが感じとれるけれども、これらはやはり例外であろう。「深遠な哲学的映像作家」の最後の映画作品ということで、いささか身構えて鑑賞に臨んだのだが、その思いはものの見事にはぐらかされることとなった。しかし私は、この偉大な「喜劇」を大いに楽しんだのだった。

 物語は、10歳の少年アレクサンデルと、その一族エークダール家を中心に展開する。この少年と祖母ヘレーナの、2つの視点が交錯する壮麗な家庭劇である。

 優れた芸術作品は人生を正確に反映するが、この映画もその例に洩れず、エピソード一つひとつはかなり悲惨である。にもかかわらず不思議な明るさに満たされているのは、ヘレーナの存在故であろう。聡明で包容力があり、老いてなお瑞々しい感性の持ち主である。元女優の彼女は広壮な邸宅の女主人であるばかりではなく、成長した3人の息子の精神的支柱でもある。長男オスカル(アレクサンデルの父)は劇場主で俳優、次男カールは大学教授、三男グスタフはレストラン主。この3人の息子は、アレクサンデルと同じく、ベルイマンの分身と言っていいだろう。

 無類の女好きの三男グスタフは、この作品に、ユーモアと祝祭的気分を与えている。クリスマスの、一家挙げてのパーティのあと、妻が待っているにもかかわらず、召使の一人の部屋に忍び入ったりする。これらの行為が一族皆の公認というのもおかしいが、この世を生きる力の源泉のひとつが、エロスであることを伝えている。

 次男カールは、グスタフとは対照的である。理由は定かではないが、暖炉に焚く薪もないほどの困窮ぶりで、人生に絶望している。ささいなことで妻を非難し苛むが、結局は彼女なしでは生きていくことができない。不眠症で、被害妄想、そして自省的な鬱病。これもベルイマンのひとつの側面であろう。

 実直な劇場主、長男オスカルは、舞台人であるというだけでも、ベルイマンの分身の資格を持つ(ベルイマンは終生舞台の演出をし続けた)。彼は『ハムレット』のリハーサルの最中に倒れ、やがて死ぬ。そして物語は、ここから悲劇へと転回する。未亡人となったオスカルの妻エーミリーは孤独に耐え切れず、アレクサンデルとファニーを連れて、主教ヴェルゲールスと再婚する。このヴェルゲールスとアレクサンデルとの対立が、この映画のハイライトである。「神」というベルイマンの生涯のテーマが展開されることになる。

 主教という仮面を自分の顔からはがすことができないこの原理的宗教家は、おそらく、牧師であったベルイマンの父親のある側面を反映しているのだろう。「わが家の教育は、主として罪、告白、罰、許し、そして赦免といった概念から成り立っていて、それは同時に父と子ならびに神との関係における具体的な要素でもあった」とベルイマンは自伝で述べている。

 アレクサンデルは主教に徹底的に反抗する。それに対して主教は、神の名の下に強圧する。頬を打ち、尻を棒で叩き、挙句の果てに格子窓の部屋に閉じ込める。当然、アレクサンデルにとっての神は、「クズみたいな存在」となる。

 アレクサンデルは、10歳のベルイマンそのものであろう。気が弱いくせに反抗的で、夢想癖があり、大人の本質を見抜く力を持っている。また、しばしば幽霊を見る。特に父親の幽霊が、彼のことを心配してよく現れる。彼は抗議する、「ただ見守っているだけなら、早く天国へ行ってよ。そこに本当に神様はいるの?」。

 ベルイマンにとって、神とは、いったい何だったのだろう。少女を犯し殺害する男たちとその復讐に殺人をためらわない父親(『処女の泉』)、精神を病み弟との近親相姦に陥る娘(『鏡の中にある如く』)、行きずりの男と獣のようなセックスを繰り返す女(『沈黙』)、死してなお死の恐怖から逃れられない敬虔なキリスト者(『叫びとささやき』)。神は沈黙するばかりである。

  「賢明で寛大で公平」を自認する主教からアレクサンデルとファニーを救い出すのは、祖母ヘレーナの恋人、ユダヤ人の骨董商イーサクである。主教館に衣装箱を買いに行き、そこに2人を入れて奪還するのだが、この場面は傑作である(主教はこのあと、焼死という悲惨な最期をとげる。その死にはアレクサンデルの「祈り」が深くかかわっているが、このテーマについては稿を改めたい)。このイーサクとヘレーナの、何十年と続いている恋人関係がなかなかにいい。ヘレーナが熱く何かをしゃべっているとき、イーサクは居眠りをしてしまう。しかし、彼女が、時の哀しさに涙を流すと、そっと抱きしめる。

  救いはどこにあるのか? ベルイマンは神を見出したのだろうか? 私にはわからない。しかし、ヘレーナとイーサクの、一見何気ない関係のなかに、ホッと安堵するものがあることは事実である。救いは、結局は、ささやかな、普段は意識にものぼらないような、日常的な存在のなかにこそあるのではないだろうか。ヘレーナにとりイーサクであり、イーサクにとってヘレーナであるように。死の恐怖で死ぬこともできない『叫びとささやき』の中年女を救うのも、謹厳な牧師などではなく、心優しい召使なのだ。姉と妹が恐れをなして近寄ることができない死者を、召使は豊かな胸をはだけて抱きしめる。

 ヘレーナが寝室で、ストリンドベルイの新作『夢の国』の台本を読むところで、この映画は終わる。「あらゆることが起こる。起りうる。時間も空間も存在せぬ。浅薄な現実を土台にして、空想が新しい模様をつむぎ出してゆく……」。アレクサンデルが、祖母の膝に頭をのせ、じっと聞き入っている。

1982年●スウェーデン・西ドイツ・フランス
監督:イングマール・ベルイマン
出演:バッテル・グーヴェ(アレクサンデル)、ペルニッラ・アルヴィーン(ファニー)、グン・ヴォルグレーン(ヘレーナ)、アラン・エードヴァル(オスカル)、エーヴァ・フレーリング(エーミリー))、ボルイェ・アールステッド(カール)、ヤーク・クッレ(グスタフ)、ヤーン・マルムシェー(ヴェルゲールス)、エールランド・ユーセフソン(イーサク)

2007年9月22日 j-mosa

楽しい映画と美しいオペラ―その6

2007-07-25 21:50:12 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラ―その6

男がいなくても生きていけるか?――成瀬巳喜男『流れる』  

 小津安二郎、溝口健ニ、成瀬巳喜男といった、いわゆる曰本映画の巨匠たちの映画は、リアル・タイムでは観ることができなかった。しかし私は、そのなかの名作といわれるものの多くを、銀座の並木座で観ることができた。会社が目黒区の東急線沿線にあった1994年から2000年の6年の間に、通勤途上にあった銀座で途中下車して、あるいは休日に出掛けて、集中的に日本映画を観たものだった。

 並木座が姿を消してもう何年にもなるが、その存在がなくなったことは、日本映画にとって大きな損失だと思わざるを得ない。巨匠たちの映画の多くはDVDで観ることはできるにしても、映画はやはり映画館で観るのがー番であろう。何本かの予告編が終わって、さあ本番が始まるぞというときの心のときめき、エンディングの音楽とともに味わう終演時の静かな余韻、これらも含めて、映画を観るということなのだから。

 しかしながら、これから書こうとする成瀬巳喜男の『流れる』は、並木座でも観逃がした映画で、NHKのBSで放映したものの録画を観たのだった。成瀬の生誕100年を記念して2005年に集中的に放映が行われたが、それから2年も経ってからのことである。

 成瀬巳喜男は、女性映画の名匠、とよくいわれる。確かに彼の映画では、主演女優がとりわけ際立つ。『浮雲』の高峰秀子をはじめ、『めし』の原節子、『晩菊』の杉村春子などがすぐに思い浮かぶが、この『流れる』では、山田五十鈴の存在感が圧巻である。しかも例えようもなく美しい。

 彼女の若いときの映画、『浪花悲歌(エレジー)』や『祇園の姉妹』(ともに監督は溝口健二)も観たことはあるのだが、それほどきれいだとは思わなかった。むしろ黒澤明の『蜘蛛巣城』(シェイクスピア『マクベス』の翻案)での「マクベス夫人」が、演技派女優として印象に残っている。ところが、この『流れる』の山田五十鈴の美しさはどうだろう。私は何よりも、その眼差しに魅了されてしまった。映画が作られたのは1956年。彼女は39歳の、まさに女ざかりであったのだ。

 山田五十鈴の役柄は落ちぶれかかった芸者置屋の女将。しっかりものの娘が高峰秀子、芸者2人に杉村春子・岡田茉莉子、お手伝いに田中絹代という豪華キャストである。そして彼女たちが実に生きいきとスクリーンを動き回る。それぞれの人物造型が的確で、それぞれの生活のありようが明確に観る者に伝わってくる。これは成功した成瀬映画に特有のもので、終映後には充実感と、同時にそのあまりの濃密さ故に、いささか疲労感を覚えることにもなる。

 山田五十鈴演じる女将は、芸事は一流だが、人の好さに問題がある。経営者としての成り立ちは覚束なく、大金をどうしようもない男に貢いでしまう。借金で首が回らない彼女の日常を、田中絹代演じるお手伝いが支える。この映画の観どころのひとつは、山田五十鈴と田中絹代、この2人の大女優の見事な対照である。化粧鏡に己を映して、山田が玄人と素人の違いを述べるくだりがある。近頃はその差がなくなりつつあると嘆くのだが、化粧する山田は息を呑む艶やかさ、その姿を後ろから見守る田中は穏やかな微笑をたたえている。そしてその2人の姿が鏡に映る。秀逸な場面である。

 「男がいなくても生きていける女がいるなんて信じられない!」。若い燕に逃げられた杉村春子演じる芸者の愁嘆場での言葉であるが、実はこの映画、男は登場しない。仲谷昇、宮口精二、加東大介などは登場するものの端役で、恋を語るような役柄ではない。男が登場しないにもかかわらず、この映画は、極めて濃厚な男と女の物語になっている。なぜか。それは、登場する女優たち一人ひとりが、その背後に、男の重い影を背負っているからである。姿のない男たちとの葛藤が、観客の胸を打つ。女優たちの演技力であり、それを引き出した成瀬の力量は並ではない。

 山田五十鈴と杉村春子の、真剣な三味線の稽古の場面で映画は終わる。家を借金のかたに取られた山田は川向こうに落ちゆくのだろうし、田中は里に帰り亡き夫と子どもの弔いをするのだろう。先は見えないにしても、杉村も高峰も、何とか生き延びていくはずだ。三味線の音は、寂しく、しかし力強い。隅田川はまた、何ごともなかったかのように流れてゆく。

1956年●日本映画
監督:成瀬巳喜男
出演:山田五十鈴、田中絹代、高峰秀子、杉村春子、岡田茉莉子、栗島すみ子

2007年7月21日 j-mosa


楽しい映画と美しいオペラ―その5

2007-07-02 02:36:06 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラ―その5

移ろいゆく「時」、そして諦念――新国立劇場『ばらの騎士』


 カルロス・クライバーが日本で指揮した『ばらの騎士』は、「伝説の舞台」となり、今でも語り草となっている。1994年のウィーン国立歌劇場の来日公演である。これを私は観損なった。チケットが取れなかったわけではない。だいたい私は、高額な海外引越し公演にはほとんど足を運ばないし、その分できるだけ日本人の手になる舞台を観ることにしている。ではなぜ「観損なった」のか。

 理由はもう失念したが、クライバーの『ばらの騎士』のチケットが1枚、金曜日当日の昼前、私の元に転がり込んだのである。あろうことかその日の午後は、よんどころない事情で半日休暇をとることになっていて、夜の公演にも間に合いそうにない。涙をのんで知人にそのチケットを譲ったのだった。つい先ごろ、その公演を観たという人と話をしていて、主役のひとりである元帥夫人を歌ったのがフェリシティ・ロットだったということを知り、今さらながら無念の思いを噛み締めたのだった。

 6月15日の『ばらの騎士』も、友人からチケットが回ってきた。13年前の秋の出来事を思い出しながら、新国立劇場に赴いた。そして、リヒャルト・シュトラウスの豊麗な音楽を堪能した。

 このオペラのテーマは明瞭で、それは「時」である。一夜を共にした若い愛人オクタヴィアンから、「あなたは素晴らしい」と甘い言葉を囁かれる元帥夫人だが、鏡のなかの自分の姿に、移ろいゆく「時」を意識する。すくってもすくっても、指の間からこぼれ落ちていく時間。オクタヴィアンとの別れも、今日か、また、明日か。窓に差し込む日の光が翳り、いつしか外は雨になる。ジョナサン・ミラーの演出が冴え、カミッラ・ニールント(元帥夫人)の歌からは深い諦念が感じ取れる。

 第2幕ではばらの騎士が登場する。結婚が決まると、花婿から花嫁へ銀のばらが贈られるが、その使者がばらの騎士である。18世紀のウィーンにいかにも実在したような風習だが、これは台本を書いたホフマンスタールの創作。それはともかく、オクタヴィアンがそのばらの騎士となり、オックス男爵の許婚ゾフィーのもとへ銀のばらを届ける。オクタヴィアンはいわゆるズボン役で、女声の男役である。明らかに『フィガロの結婚』のケルビーノの末裔であり、これを美しいメゾ・ソプラノが演じると、何ともいえないエロスを醸しだすことになる。当夜はエレーナ・ツィトコーワというロシア出身の若い歌手が歌ったが、エロスにはいささか欠けるものの好演した。

 第1幕から第3幕まで通して登場するのはオクタヴィアンとオックス男爵である。銀のばらを届けられたゾフィーだが、オックスのあまりの傍若無人ぶりに愛想をつかす。そしてオクタヴィアンがオックスを懲らしめるのが第3幕である。オックスは、好色で滑稽、しかし品性を欠いてはならないという難役。演じたのはバスのペーター・ローゼで、音楽性が高く、演技もうまい。まさにはまり役であろう。  

 元帥夫人はオクタヴィアンをゾフィーに譲り、若い2人の愛の二重唱で幕が閉じられる。2人にとって「時」は永遠であるかのようだ。しかし、ここでのリヒャルト・シュトラウスの音楽は、甘美さだけでは説明できない。言いようのない不安が顔を覗かせる。舞台となったマリア・テレジアの時代には革命が迫り、初演された1911年の数年あとには第1次世界大戦が勃発する。このような時代背景を踏まえたうえでなお、「時」の持つ普遍的な「哀しさ」を感じとらざるを得ないのである。

 指揮はペーター・シュナイダー。繊細で香り高く、爛熟の美しさと頽廃を良く表現していた。オペラを支えるのはやはり指揮者だなと、改めて思った。

2007年6月15日●新国立劇場
カミッラ・ニールント
エレナ・ツィトコーワ
ペーター・ローゼ
オフェリア・サラ
ゲオルグ・ティッヒ
ペーター・シュナイダー[指揮]
東京フィルハーモニー交響楽団
ジョナサン・ミラー[演出]     
   
                              

2007年6月30日 j-mosa


楽しい映画と美しいオペラ―その4

2007-04-28 11:06:52 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラ―その4

絢爛、妖艶、冷酷、そして可憐ヘンデルの『アルチーナ』

 音楽好きのイギリスの友人と楽しい一夜を過ごしたことがある。オペラ談義で盛り上がったとき、好きなオペラを5つ挙げるよう提案された。突然のことでもあり、私はうーんと困ってしまった。『フィガロの結婚』は文句なしだけどなぁ。これには彼も異議はない。あとが困るのだ。好きなオペラと言われると、モーツァルトとヴェルディだけで5本の指は尽きてしまいそうだ。しかし、それではいくらなんでも曲がなさすぎる。

 彼はモーツァルトに続けて、『トゥーランドット』と『ヴァルキューレ』を挙げた。うーむなるほど。プッチーニとヴァーグナーから選ぶとするとその選曲はごもっとも。しかし、この2人のオペラは私のベスト5には入らない。そして『ポッペアの戴冠』だと言う。モンテヴェルディか、これには1票を投じてもいいかなという気分。

 最後に挙げられたのが『ジュリオ・チェーザレ(ジュリアス・シーザー)』。ヘンデルとはなんとも渋いではないか。2005年の10月、私はこのオペラを王子の北とぴあで観た。鈴木雅明がバッハ・コレギウム・ジャパンを指揮した、二期会中心の公演だった。若い歌手が好演し、指揮も素晴らしく、大変印象に残っている。

 しかし、いたるところにアリアが登場し、劇の進行を妨げてしまう。それに長いのだ。このオペラをベスト5に入れるとはいったいどういうことだろうと怪訝に思った。しかも彼は、オペラの作曲家ではヘンデルが一番好きだと言う。ヘンデルはイギリスに帰化したから、ある意味でイギリス人である。そういうこともあるのだろうかとも推察したのだった。

 NHKのBS2で、しばらく前に、ヘンデルの『アルチーナ』を放映した。いつものように深夜放映なので、自動録画してDVDにおとしたものの、そのままラックに眠らせていた。それを観てみようと思い立ったのは、イギリスの友人の、ヘンデルのオペラが一番好きだという言葉を思い出したからだ。そしてなんと、このオペラは、とびきり面白かったのである。

 今、世界のオペラ界でもっとも刺激的なのはドイツの歌劇場である。そのなかでもシュツットガルト歌劇場は、演出のペーター・コンヴュチュニーを中心に、斬新な舞台を作り続けている。この『アルチーナ』の演出はコンヴィチュニーではないが、時代を現代に移し、騎士が背広を着て登場する。

 ヘンデルの音楽は耳に快く、主要登場人物7人が入れ替わり立替わり美しいアリアを披露する。透明な響きのオーケストラに伴奏されたそれらのアリアは、うっとりするほどに美しい。しかしこの音楽から、思ってもみないような生々しい愛憎劇が生まれたのである。

 魔女アルチーナの登場場面からして、度肝を抜かれることになる。新しい恋人ルッジェーロと熱い口づけをかわし、体を絡みあわせたまま、彼女の国に迷い込んだ2人の新参者の前に姿を現す。身体にぴたりとあったワンピースを着こなしたその姿は、なまめかしく深い声ともあいまって、観るものを魅了する。よく見ると、上半身が透けて見える。

 この舞台は、アルチーナを演じるキャサリン・ネイグルステッドの存在があって初めて可能となったものだろう。歌のうまさはいうまでもなく、容貌もまことに魔女にふさわしい。冷やかで底の知れない美しさである。彼女は何度も衣装を変えるが、すべて黒のボディ・コンのワンピースで、豊かな肢体を見せつける。彼女に魅入られた数知れない男たちが、もてあそばれ、獣にされてしまったのも無理はない。

 さて、アルチーナの国に迷い込んだ2人とは、失踪した恋人ルッジェーロを探すブラダマンテとその後見人である。ブラダマンテは男装しており、アルチーナに魂を奪われたルッジェーロには彼女の真の姿がわからない。そしてアルチーナの妹がブラダマンテに恋をして、その恋人は嫉妬にかられる。さらに獣に変えられた男の息子がからみと、筋書きは複雑だが、アルチーナ、ルッジェーロ、ブラダマンテの、恋の三角関係が本筋といっていい。

 そして、聴きどころは何よりも、激しい心の動きを歌うアルチーナのアリアである。正気にかえったルッジェーロは、ブラダマンテと共に逃亡をはかる。アルチーナの怒り、嘆き、苦しみ、また脅し……。冷酷さと可憐さが表裏となった、女性のある一面が浮かび上がる。

 ヘンデルの音楽が、単に美しいだけのものではないことが、この舞台を観ているとよくわかる。ロマン派のオペラのように、人間の感情が生に表出されることはないものの、その存在の奥深さ、掴みどころのなさ、あるいははかなさなど、そくそくと伝わってくるものがある。

 ヘンデルには40以上ものオペラ作品がある。私が観たり聴いたりしたものは、この『アルチーナ』以外では、『ジュリオ・チェーザレ』と『ジュスティーノ』だけである。もっとヘンデルを聴いてみたい。オペラを聴く楽しみがまた増えたというものだ。私のオペラ・ベスト5にヘンデルが入ってくる予感も強くする。イギリスの友人、ポールさんに感謝しよう。

2000年5月~7月
シュツットガルト国立歌劇場

キャサリン・ネイグルステッド
アリス・クート
ヘレン・シュナイダーマン
カトリオナ・スミス
ロルフ・ロメイ
ミヒャエル・エベッケ
クラウディア・マーンケ
ハインツ・ゲルガー

アラン・ハッカー[指揮]
シュツットガルト国立歌劇場管弦楽団  

ヨッシ・ヴィーラー/セルジョ・モラビート[演出]                                      

2007年4月25日 j-mosa


楽しい映画と美しいオペラ―その3

2007-02-23 23:41:19 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラ―その3

美こそが愛するに足りるもの――ヴィスコンティの『ベニスに死す』

 アルコールが入ると聴きたくなる音楽がある。マーラーの交響曲もそのうちのひとつで、先週も、職場近くの居酒屋で飲んだ帰り、iPodから聴いたのは第4交響曲だった。鈴の音とともに始まる第1楽章の素朴な出だしを聴くたびに、私の心は、何十年も昔の中学時代に帰っていくような気がする。小遣いを貯めてやっと手に入れたバーンスタイン指揮の第4番交響曲のLPは、私の宝物のひとつだった。期末試験の終わった夜などの、音楽好きの仲間と一緒に聴く、あの幸福な時間を懐かしく思い出すのである。

  ところで、飲むとなぜマーラーが聴きたくなるのか。その秘密は、マーラーの音楽の持つ過剰さにあるのではなかろうか。人間の感情や思想のみならず、動物、植物、鉱物、さらには惑星、恒星と、その表現する世界はまさに宇宙そのものである。神や天国も登場する。飲んで異常に鋭敏になった感覚は、マーラーの拡大・拡散した宇宙をそのまま受け入れるのであろう。

 さて昨年は、ルキーノ・ヴィスコンティの生誕100年を記念する年だった。NHKのBSでもヴィスコンティの映画が何本か放映された。『ベニスに死す』はそのうちの1本で、私は三十数年ぶりでこの映画を観ることになった。そして、この映画が実は、音楽映画であることを発見したのだった。つまりヴィスコンティは、マーラーの第5交響曲の第4楽章アダージェットを映像化するために、トーマス・マンの原作を用いたに違いないと確信したのである。主人公が、原作の作家から作曲家に変更されていることも、私の独断を後押ししている。

 ハープと弦楽器のみで奏でられる第5交響曲のアダージェットは、数あるマーラーの緩徐楽章のなかでも、もっとも美しいもののひとつである。マーラー特有の誇大さもなく、人間のひたむきな感情を素直に聴き取ることができる。恋する対象が女性であれ少年であれ、その焦がれるような激しさと不安、憧れ、甘美に満ちた恋の感情が、余すところなく表現されている。エロスと美が、これほど渾然一体となった音楽も珍しい。この楽章から、ヴィスコンティは、ヴェネツィアのリドの砂浜に戯れる美少年の姿をひたすらに追う老作曲家像を作り上げたのに違いないのだ。

  美のみが愛するに足りるものであり……美こそはわれわれが感覚的に受け容れ、感覚的に堪えることのできるたったひとつの、精神的なものの形式なのだ――ソクラテスが美青年パイドロスに語った言葉を、トーマス・マンは『ベニスに死す』で引用している。ヴィスコンティは、この小説の他の要素は切り捨て、全編をマーラーの音楽で満たすことによって、美の本質をみごとに映像化したのである。

1971年イタリア・フランス映
監督:ルキーノ・ヴィスコンティ
出演:ダーク・ボガード/シルヴァーナ・マンガーノ/ビヨルン・アンデルセン


2007年2月23日 j-mosa


楽しい映画と美しいオペラ―その2

2006-12-13 23:38:30 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラ―その2

永遠は存在しないか―アーノンクールポネル『コシ・ファン・トゥッテ』

  先日、オペラ好きの友人から連絡が入った。新しいDVDを入手したので観に来ないかとのこと。『コシ・ファン・トゥッテ』、しかもアーノンクールとポネルの組み合わせだという。これはなんとしても行くしかない。
 
アーノンクールは、いうまでもなく、先ごろ来日して日本の音楽界を賑わせたニコラウス・アーノンクール、そしてポネルとは、フランスの演出家、ジャン=ピエール・ポネルのことである。

  ポネルはすでに1988年に事故で亡くなっている。50歳代半ばの若さだったが、幸いその舞台の多くが映像として残されている。オペラの映像を初めて鑑賞するのなら、ポネルの舞台に優るものはない。現在のオペラ上演は、特にヨーロッパでは、本来の設定から離れて、かなり自由奔放に行われている。同じ『コシ・ファン・トゥッテ』でも、2002年のベルリン国立歌劇場でのそれは、時代は現代、旅客機も登場し、ゲバラのTシャツを着た若者たちのマリファナ・パーティーまであるという「過激さ」である(バレンボイムの指揮、ドリス・デーリエの演出)。これはこれで一見に値するのだが、やはり「正統的な」上演を経験してから観るべきものだろう。

  ポネルの演出は、作品の時代背景もキチンと押さえた、それこそ「正統的な」演出である。しかし彼の作り出す舞台は、どれをとっても、この言葉にややもすると含まれる退屈さとは無縁の、生命力に溢れたものとなっている。とりわけモーツァルトの『フィガロの結婚』、ロッシーニの『セビリアの理髪師』『チェネレントラ』など、オペラ・ブッファが素晴らしい。

  さて『コシ・ファン・トゥッテ』である。ダ・ポンテ3部作の掉尾を飾るオペラ・ブッファの傑作を演出して、ポネルの右に出る者はいないだろうとまで期待したのだった。しかも音楽はアーノンクール指揮のウィーン・フィルである。期待の裏切られるはずはない。
 この映像は、舞台そのものではなく、声と映像を別々に収録した「映画」である。まず音楽が録音され、映像がそれに合わせて作られたのは間違いない。ポネルはおそらく、音源が作られる過程にまで関わったのではないか。そう思えるほど、この映画は音楽と映像が緊密に結びついている。グリエルモがドラベッラを口説き落とす、バリトンとメゾ・ソプラノの二重唱の場面など、音楽は濃密な官能に満たされ、これ以上先に進められるのだろうかと観るものを惑乱させるほどの危うさである。映像は、触れなば落ちんというドラベッラの姿をアップでとらえて、そのなまめかしさは、音楽に対してぎりぎりの拮抗を保っている。
 
 『コシ・ファン・トゥッテ』、すなわち「女はみんなこうしたもの」は、男たちが寄ってたかって姉妹の貞節を試そうとする、ある意味でまことに不道徳な、女性蔑視のオペラである。同時代のベートーヴェンはそのテーマに不快感を持ったし、ワーグナーも「これほどひどい台本ではさすがのモーツァルトも力を発揮できなかった」と切り捨てている。20世紀はじめのマーラー指揮による上演が再評価への道を開いたようだが、歌劇場のレパートリーに必要不可欠な作品となったのは第二次世界大戦の後である。

  このオペラの何よりの特徴は重唱の美しさである。三組の男女(二組の恋人同士、老哲学者、召使)が繰り広げる二重唱、三重唱、四重唱、さらに五重唱、六重唱は、それこそ天上の美しさである。モーツァルトは嬉々としてこの音楽を書いたにちがいないし、二転三転するダ・ポンテの台本は、傑作を生み出した源泉にふさわしくよく出来ている。そして、そのテーマも、19世紀のヨーロッパが切り捨てた単なる「不道徳さ」を超えて、もっと人間の本質を見つめたものではないかというのが現代の見方であろう。

  アーノンクールとポネルが、この多義性に満ちたオペラに見出したテーマとは何か。それは、移ろいゆくものへの愛惜である。「永遠の愛」という美しい理想が崩れ去り悲嘆にくれる若者たちを尻目に、老哲学者ドン・アルフォンソは、ひとりその姿を楽しんでいる。
 
  ところがである、モーツァルトの音楽を聴いていると、「永遠」という言葉を信じるほかはなくなってくるから、やはり一筋縄ではいかない。

エディタ・グルベローヴァ
デローレス・ジーグラー
ルイス・リマ
フェルッチョ・フルラネット
パオロ・モンタルソロ
テレサ・ストラータス
ニコラウス・アーノンクール[指揮]
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ウィーン国立歌劇場合唱団
ジャン=ピエール・ポネル[製作/装置/演出]

2006年12月10日 j-mosa