楽しい映画と美しいオペラ―その31
オペラ演出の新しい地平
―二期会『ファウストの劫罰』
ベルリオーズの音楽は、『幻想交響曲』を別にすれば、ほとんど耳にしたことがない。それで、『ファウストの劫罰』上演の情報を二期会からのDMで得た早い段階で、とにもかくにもチケットを入手した。厳密にいえばこの作品は「オペラ」ではない。ベルリオーズ自身が「劇的物語」と銘打っていて、初演も演奏会形式で行われている。そんなこともあり、内心それほどの期待はしていなかった。もちろん、指揮者、歌手、演出家、いずれにもまったく頓着していなかった。まずはベルリオーズ入門という気分で、東京文化会館に足を運んだのだった。
ところがである、幕が開いた早い段階から、私はこの物語に引き込まれてしまったのだ。いままでに経験したことのない特異な演劇空間が、眼下に展開したのだった(私の席は4階左翼、ゆえに舞台は「眼前」ではなく「眼下」となる)。オペラの舞台において、おそらくこれまでほとんど未開拓であった空間が、自在に使われている。猿之助は歌舞伎で宙乗りをやっているが、それは彼一人の行為で、空間が演技の場になっているとはいい難い。ところが眼下の舞台では、空間が、平面・立体と同等に機能しているのだ。何人ものダンサーがワイヤーで宙吊りにされ、空間を自在に動き回っている。しかもその動きは、ベルリオーズの音楽そのもの。激しく官能的かと思えば、たとえようもなく優しく、天国的である。
第2部が終了して休憩に入るや、私は慌ててプログラムを買った。誰の演出か知りたかったからである。演出・振付、大島早紀子とある。聞いたことがない名前だった。しかしどうやら、コンテンポラリーダンスの領域では世界的な存在らしい。そしてこの二期会のプロダクションは、彼女を中心に作り上げられてきたという。そうか、そういうことか、まったくの予備知識なく作品世界に入っていった私は、プログラムに大きく掲載されている大島の、人の心を透視するかのような不思議な顔写真を眺めながら、深く納得がいったのであった。
大島早紀子は、1989年に、H・アール・カオスというダンスカンパニーを立ち上げている。天上的な陶酔・芸術・混沌という含意だそうだが、このカンパニーの名称は、『ファウストの劫罰』の表現する世界そのものである。2007年2月にR.シュトラウスの『ダフネ』で大島を起用した二期会は、その時点から今回のプロダクションの展望を持ったという。ここでは二期会の慧眼にも敬意を表しておこう。
ところでこの『ファウストの劫罰』という作品が、なぜオペラではなくオラトリオなのか。それはおそらく、一貫性をもった物語として舞台を作ることが困難だからだろう。ストーリーの展開に飛躍があり、主人公のファウストにして心理的な一貫性に欠けている。第3部でマルグリートと情熱的な愛の二重唱を歌ったファウストが、第4部ではいきなり冷めた胸中を晒すのだから、観客としては納得がいかない(もっともこのアリアがなければ、ファウストの地獄落ちにも説得力がなくなる)。さらに、マルグリートが誤って母を殺し牢獄にあるというメフィストフェレスの言葉を聞き、半狂乱になった彼は悪魔のいうままに契約書にサインをし、娘のもとに向かうのだが、ここの場面もやや唐突である。
しかし、そのような物語的欠陥をはるかに超越して、ベルリオーズの音楽は突き進む。天国と地獄を往還しているような、劇的で多彩な響きである。そして大島の演出は、古典派を軽々と超越したその変幻自在な音楽を、見事に視覚化した。ファウストの夢の豊かなファンタジー、地獄落ちの巨大なカオス、マルグリートの救済の天上的な美しさ……。数え上げればきりがないが、どの動きにも音楽が息づいている。ダンサーのみならず、歌手一人ひとりの動作にも大島の目が行きとどいているようだ。
今回の上演では、オペラが総合芸術であることを強く認識させられたが、肝腎の音楽が素晴らしかったことはいうまでもない。ファウストの福井敬は強靭な声が印象的だし、メフィストフェレスの小林輝彦はやや声量に不足を感じたものの、巧みな歌い回しは立派だった。林美智子の代役、マルグリートの小泉詠子は、リリカルな美しい声の持ち主で、今後に期待が持てる。そして何よりもプラッソンの指揮が良かった。ベルリオーズの柔らかな抒情性が心に染みた。
最後に、プログラムに掲載された創作ノートより、大島早紀子の言葉を抜粋しよう――私達は地獄や天上という場所に死後に行くのではない。現実のふとした瞬間にこそ、天上や地獄に通じる入口が開いているのだ。そして愛と美、意志こそが天上に人を誘うのだ。
《ファウストの劫罰》
2010年7月17日 東京文化会館
ファウスト:福井敬
マルグリート:小泉詠子
メフィストフェレス:小森輝彦
ブランデル:佐藤泰弘
ダンサー:白河直子 他 H・アール・カオス
東京フィルハーモニー交響楽団二期会合唱団
指揮:ミシェル・プラッソン
演出・振付:大島早紀子
作曲:エクトール・ベルリオーズ
原作:ヨーハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
台本:エクトール・ベルリオーズ、
アルミール・ガンドニエール、
ジェラール・ドゥ・ネルヴァル
2010年7月29日
j-mosa