⌂⌂⌂ いつよりか空き家 ⌂⌂⌂
❤ いつよりか住むひとのなき家となり寄りゆけば昭和の秋が漂う 松井多絵子
わたしの家から2キロ以内に空き家らしい家がいくつもある。郵便受けは蔦で覆われ表札が見えない。古い木造家屋の雨戸がいつも閉まっている。庭は草ぼうぼう、柿の実はだらしなく真冬でもぶらさがっている。モッタイナイ。昨日の朝日「読書」の頁に「2014年の日本では、10軒のうち4軒が空き家になるそうである」と。少子高齢化や出産率の低下のためか。地方の過疎地だけでなく、東京も空き家だらけになるという予想に私は寒くなる。
高度成長が終わり、少子高齢化に突入しているのに、家を新築させ、景気を浮揚させる政策がだらだら続いた。その政策のおかげで民間企業は収益をあげてきたらしい。私たちはマイホームに執着しすぎたのだろうか。旅が好き、というより放浪癖のある私は世界の各地に住みまわりたいが、連れ合いは庭のある家にこだわる。家を自分の城だと思っている。妻は侍女らしい。
家を持つことは、まず成功のひとつ、世間への大いなる身分証明、目に見える幸せの証だろうか。テレビの豪邸訪問で、芸能人たちの新築の豪邸を度々見ている。家だけではない、家具や絵画、陶磁器のコレクション、犬や犬の服までブランドである。見ている私は面白いが、住んでいる人間は手入れや管理が大変だろう。高価な調度品に神経が休まらないないのではないか。まして犬は生き物だ。
「空き家が蝕む日本」の隈研吾の書評の最後の段落は多数の日本人の感懐ではないか。
本当に「家」というハコは必要だろうか。(略) 人間が空間という曖昧で手のかかるものを私有できるか。私有してどんないいことがあるのか。
狭い庭におびただしい荒草、デング蚊がかくれているような荒草がコワイ。
9月8日 晴れ 松井多絵子