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佐佐木幸綱が語る「短歌の色のこと①」

2013-11-15 14:44:34 | 歌う

        「短歌の色・色の短歌①」~朝日カルチャー新宿にて11月14日~
                                 佐佐木幸綱氏の講演より

★秋空の入り口なのかこの虹はうす紅(くれない)のうす紫の  (松井多絵子)

 ひと月前に安達太良山の麓に立ったとき、大きな虹を見た。七色ではなく、ピンクとうす紫の2色、その翌日この虹を思い出しながら歌を書いていたら、「朝日カルチャー新宿」から「短歌の色・色の短歌」の講座の案内状をいただいた。

 「高松塚古墳の壁画とか源氏物語絵巻を見ると、カラフルな服装や調度品など、日本では古代から多様な色彩を楽しんできたことが分かります。当然のこと、詩歌においても古くから積極的に「色」を楽しんできたわけですが、とくに短歌は「色」をうたうのを得意としてきました。ここでは、万葉集から現代短歌まで、さまざまな「色」がうたいこまれている短歌作品を鑑賞しながら、日本の「色」について考えてみたいと思います。  (佐佐木幸綱・記)

▴万葉集より  
✿ 春の園紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ娘子 (大伴家持)

「紅にほふ」は紅がかがやいている、こと。紅の桃の花の下に娘が立っている。ただそれだけのことだが春が始まった喜びが千何百年後の私にも伝わってくる。万葉集はカラフルである。当時は階級により色分けされていたそうである。1位、2位は深紫、3位はうす紫などと。

▴古今集より
✿ 花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせし間に (小野小町)

「移りに」の「に」は完了。無常観が漂うこの歌は現在でも愛誦されている。物に色を付ける。

▴新古今集より
✿見わたせば花も紅葉もなかりけ浦の苫屋の秋の夕暮 (藤原定家)

 あったものが失われる虚無感、望みのない恋、人を想う気持ち、「苫屋」は粗末な家。(秋の終わる今、この歌は身に沁みますよ。定家さん) 万葉のころにくらべると少しづつ「色」を離脱して、わび、さび、人生の深みを表現するようになってゆくようです。

 とても内容の豊富な講座でしたので今日はここまで。次回は与謝野晶子からです。

       11月15日  今夜は小町さんや定家さんと語り合います。 松井多絵子