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とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

マスメディアのあり方(プロ野球金銭授受問題の対応に関して)

2016-03-16 16:47:37 | ニュース
 昨日のブログで巨人の金銭授受問題について、それほど大げさに騒ぐような問題ではないという意見を書かせていただきました。その後、阪神や西武でも似たような金銭授受があったという報道がなされています。

 昨日の夜「報道ステーション」の冒頭を見ていたら、その話題がトップニュースになっていました。私としてはそこまでの大問題なのかと思いました。そしてコメンテーターの朝日新聞の立野さんが巨人、ならびにプロ野球界にかなり厳しい意見を言っていました。まあ私としてはそこまで偉そうに言わなくてもいいのになあと思って見ていました。

さてそれを受けた古館伊知郎さんが、立野さんの意見を否定はしなかったものの、どうもはっきりしないようなコメントをしていました。録画をとっていたわけではないのではっきりとしたことは言えませんが、なんとなくそれほどの問題なのかというような感じのコメントにわたしにはとれました。本当は古館さんもこの問題に関してはそれほど騒ぐような問題ではないと感じつつも、番組の方針としては大きく取り上げたいということがあったのではないでしょうか。このあたりの不自由さが古館さんを苦しめていたのではと勝手に想像しました。

 今日の朝、「朝チャン」を見ていました。レギュラーの博多華丸さんは金銭授受の問題について大した問題ではないと最初は言っていました。しかし、1時間後同じ問題についてはあいまいなことしか言っていませんでした。そして一方で夏目さんは野球界に厳しく意見を言いまとめていました。これも番組の方針として華丸さんに自分意見を自粛させる何かがあったのではないでしょうか。

 マスメディアは権力です。この権力を使うべき相手は、巨大な権力者に対してです。政治家の不正に対しては厳しくあらねばなりません。その意味では報道の自由は保障されます。しかし、その権力がどうでもいいことにまで使われたらもはやその権力は奪われて当然です。空気を読みながら世間の動向を気にして、視聴率のことばかり考えている今のテレビ報道に本当に権力を持たせていいのでしょうか。

 政府が報道に圧力をかけているような最近の風潮は大きな問題であるのは明らかです。しかし、一方、マスメディアが本当に責任ある報道をしているのかと言われると、そう感じられません。だから政権につけ込まれるのです。

 報道の在り方について示唆を与えてくれているのは池上彰さんだと思います。池上さんはニュースをわかりやすく解説し、一方では自分の意見を露骨に押し付けようとはしていません。池上さんは今後の日本の報道の在り方を示しているように感じます。マスコミの方々はもっとこれからの報道の在り方について研究してほしいと思います。
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巨人の現金やりとり問題について(「世間様はどこにいる」)

2016-03-15 16:35:58 | 社会
 巨人軍の選手が野球賭博に関与して、その後、最近になって新たに一人関与していることが判明しました。昨日になって新たな事実が出てきました。試合開始前の円陣での声出しの際の金銭授受問題です。マスコミは大騒ぎです。

 私はこの問題は整理したほうがいいと思います。野球賭博はやってはいけません。だから問題にするのはいいと思います。しかしそれと円陣のときの声出しの金銭やりとりの問題は次元が大きく異なる問題です。それを同じレベルで論じようとしているのはおかしい。

 野球賭博にプロ野球選手が関わっているとすれば、プロ野球で八百長が行われているのではないかと疑われてしまいます。これではプロ野球はプロスポーツとしての真剣さを失ってしまい、興業として成立しません。

 しかし、円陣のときの声出しでの金銭やりとりはそこまでの問題ではありません。チーム内での決め事であり、確かに金額が高いという問題はありますが、その程度の慣習は少し前ならどこでもあったことでしょう。これを批判しているマスコミの人たちは、これまでこういう仲間内での他愛のないちょっとした賭け事を一切してこなかったのでしょうか。まあ、そういう人もいるかもしれませんが、この程度のことはだれもが遊びでやっている範囲のことでしょう。

 しかし今回のようにこれを大きな声で言い始めたら、だれもその流れに逆らえなくなります。だれも本音が言えなくなり、偽善的な正義だけがまかり通ってしまいます。偽善はあら捜しにつながり、結果として弱いものいじめと同じになってしまいます。

 日本社会の「世間様」はとても偉大すぎます。わたしは「世間様」は一般庶民であるべきだと思います。今のマスコミのような聖人ではないと思います。

 巨人軍をたたきたいのはわかりますが、もっと冷静な報道をしてほしいと思います。
 
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小説家になろう講座

2016-03-12 07:48:37 | ニュース
 山形市で「小説家(ライター)になろう講座」が行われています。もう19年続いているそうです。今や第一線で活躍している柚月裕子さんなどが学んだ講座です。歴史も実績もある地方の地道な活動です。

 月に1度のペースで開催されていて、日曜日の午後、約2時間の講座です。毎回著名な作家が講師になっています。前半が受講生が書いた短い小説の合評会です。かなり厳しい意見が飛び交います。後半が講師の先生に対する質問会という形です。正式なメンバーは年間の会費を支払い参加するのですが、各回だけの参加も可能です。ただしスポット参加の場合は自分の文章を見てもらうことはできませんし、事前に受講生の書いた小説を読んでくることが不可能なのでその場で急いで読まなければなりません。

 数年前、私の好きな作家である横山秀夫さんが講師だったので初めてスポット参加させていただきました。横山さんの小説家としての命を削るような努力がよくわかり、とても感動しました。その後も数回参加させてもらっています。私は小説家になろうと思っているわけではありませんが、とても勉強になりますし、刺激になります。

 さてその「小説家になろう講座」の名称が商標登録されていて、今度使えなくなるという報道がありました。変な話だと思いました。ずっと昔から使っていた名称、しかも特に何らかの工夫があるとも思われないような名称が、後から商標登録されたがために使えなくなる、こんな理不尽な話はありません。

 以前、著作権が死後70年に延長されるということも理不尽だと書きましたが、このような知的財産の権利の問題はおかしなことが多すぎる。法律が常識を侵しています。こんな商標登録を認めるほうがおかしい。

 まあ「小説家になろう講座」が別の名称になろうとやることは変わらないだろうし、こんなことで意地をはる必要もないので、話題になっただけおいしいかなということなのかもしれないのですが・・・・。

 この講座がこれからも発展していくことを期待します。
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3.11

2016-03-11 06:38:20 | 社会
 今日は2016年の3月11日です。東日本大震災から5年がたちました。テレビではこの震災が次第に忘れ去れているのではないかという危惧が語られています。確かに日々の生活のなかであの日のことを思いださない日が増えてきました。しかし、私の体の中にはあの日のことが明らかに残っています。

 町中が停電になって信号のない道を通る恐怖感。暖房のついていない部屋で過ごした一夜。断水になったその日の夜。ニュースを聞くために車のラジオで聞いていた真夜中。そして、福島の原子力発電所の事故。テレビで見た津波。ガソリンのない世界。あの数日の恐怖は体に刻み込まれています。ちょっとした地震でも昔よりも強く恐怖を感じるようになりました。また目まいが以前より多く感じられ、目まいが起こる瞬間の感覚は恐怖感をともなっています。やはりこの大震災は私の人生の中での重大な出来事であることは間違いありません。

 それを考えると人間ってよくできているなあと思います。大震災の恐怖をいつまでも考えていれば、いつまでも前を向くことはできません。だから少しずつ忘れていくことは大切なことなのなのです。しかし、一方では深層心理の中にはしっかりと刻み込まれていて、いつでもその記憶がよみがえるようにできているのです。

 「3月11日」は「日本人の記憶」です。
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なぜ「現代文」の教科書に出てくる文章が難しいのか

2016-03-10 05:37:11 | 高校国語改革
〔国語の教科書が難しすぎる〕
 現代文の教科書に採用されている評論文は非常に難解です。昔から難しかったという人もいるかもしれませんが、近年さらに難しくなっています。

 最近の現代文の教科書に掲載されている評論文には2つの傾向があります。ひとつは昔からの定番です。
「『である』ことと『する』こと」
「ミロのヴィーナス」
「日本文化の雑種性」
 などですね。かなり昔から教科書にあります。わたしが高校生のころからあったような気がします。このような定番教材が残っている理由は、評論としてしっかりしているという理由もありますが、本当の意味は教師が楽できるからです。教材研究の必要がない。これをやっていればとりあえずなんとかなるという教材なのです。教師の怠慢なのですが、しかし、教師が忙しすぎるのも事実です。教科書会社は選んでもらえなければ商売になれません。ですからどうしても定番がはずせないのです。

 もうひとつの傾向は哲学的な内容のもの、現代思想的な内容のものです。「言語論」「身体論」「科学論」などの新しい分野の評論文が取り上げられています。これが難しすぎる。

 もちろんこれらが悪い文章だと言っているわけではありません。しっかりと理解し読みこなせることができればおもしろいとは思います。しかし高校生の誰もが理解できる内容のものではありません。だから授業は読解というよりも解説になってしまいます。

 私が読んでいても「この文章は何がいいたいんだろう。」と思われる文章がたくさんあります。多くの国語教師はそんな評論文でも簡単だという振りをして授業をします。これはプライドが高いからです。いくら国語教師でもむずかしいものはむずかしいのです。わからないものはわかりません。


〔センター試験型が難しくした〕
 なぜ、国語の教科書に出てくる文章はこんなにむずかしいのでしょうか。これはおそらく大学入試のせいだと思います。特に、センター試験型の解答がすべて選択式の問題になったからです。

 大昔の国語の試験問題はもちろん選択問題もありましたが多くは記述式の問題でした。これは受験生にとってかなりの労力を強いるものです。ところが選択式の問題というのはどれを選べばいいかを考えるだけなので、記述式の問題に比べ非常に楽なのです。解答を作り上げるという労力がないわけですし、選択肢がヒントになっていることもあります。漢字の間違いを気にする必要もなく、多くのストレスからも解消されます。私自身、センター試験の前身である、共通一次試験を受けたのですが、国語の問題がゲーム感覚でできるので、非常に楽にできるような気がしました。

 このような状態ですので、大昔の記述式の現代文で扱われていた文章でセンター試験型の問題を作った場合、簡単になりすぎるという結果になってしまったのです。(共通一次以前の国語の問題については別の機会に書ければと思います。)

 私はセンター試験の国語の平均点がいくら高かろうが、別に構わないと思うのですが、大学側としては(あるいは大学入試センターとしては)、あまりに平均点が高いと、その人の力をはかることができないと考えたのだと思います。本当に力のある人も、そこまで力がない人も同じように満点近くの点数をとるので、本当に国語力のある人がわからなくなってしまうのです。(わたしはそれでもいいと思うのですが、それは別の議論となってしまいますので、ここではこれ以上追求しないでおきます。)

 不定期に続きます。
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