とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

「コミュニケーションとしきり」(国語教材シリーズ)

2016-04-21 17:43:05 | 国語
 国語の授業についてのブログです。教育出版の高校の国語の教科書『新編現代文B』に収録されている教材「コミュニケーションとしきり」(柏木博)について雑感を書きます。授業は2年生の現代文の授業です。本校はいわゆる進学校ではなく、偏差値50くらいの学力の生徒の学校です。

 授業の方法については、「全体読み」をして筆者の主張をとらえさせました。この程度の量の文章で細かく区切って授業するのは変だと思います。筆者の主張は容易に読み取れるはずで、実際無理もなく生徒は読み取ってくれました。グループ学習を適宜取り入れ、筆者の主張に各自傍線を引かせ(3分)、班で確認の話し合いをさせました(3分)。

 さてその後、根拠の部分を探させました。

「根拠、論拠、意見」については以前にこのブログで説明しています。早稲田大学の福澤一𠮷先生の提唱しているもので、論理にはこれまで隠れていた「論拠」というものがあるという考え方です。根拠は事実で、論拠は根拠と意見をつなぐ論理の部分のことを言います。この考え方を評論文の読解に応用する実践として今回取り組んでいます。

 根拠の部分も簡単にみつかります。事実の部分を探せばいいのだからそれほど難しくはありません。

 ジャンジャックルソーの例です。こんな内容でした。

「ルソーが子供のころ牧師ランベルシエのもとに預けられる。ランベルシエ嬢はルソーに優しくしてくれ、ルソーにとって母親のような存在になった。そんなある日、ランベルシエ嬢の櫛が壊されてたという事件があった。しかもその櫛があった場所がルソー以外の人が出入りしていない部屋の中であった。みんながルソーを疑った。母親のような存在であったランベルシエ嬢もルソーを疑った。しかしルソーは無罪であると主張する。」

 以上が根拠です。

 さてこの根拠のもと、論拠が展開され意見へと続きます。

 意見は次の通りです。抜き出しで紹介します。

「なんらかの言葉によるコミュニケーションが必要であるのは、『わたし』と『他者』との間にしきり(障害)があるからだ。では、言葉はそのしきりを取り払うことができるのだろうか。言葉の存在そのものがどこまでもしきりの存在を前提にしている。とすれば、わたしたちは、お互いにしきりを越えてわかり合える状態、しきりを「透明」なものにすることは不可能なのである。わたしたちは、どこまでもコミュニケーション不能の部分(障害)を抱えているからこそ、コミュニケーションし続けるのである。」

 言葉がなくとも分かり合えると思っていた母親のような存在であったランベルシエ嬢との間にもしきりがあり、どんなに親しい相手にも言葉によるコミュニケーションが必要なのだという意見です。

 さてどうでしょう。ここで疑問が生じます。その疑問とは何か。以下続きます。
 
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