とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

「コミュニケーションとしきり」(国語教材シリーズ)2

2016-04-22 12:52:21 | 国語
 前回疑問に感じたということを書いておわりました。何に疑問を感じたのか。論理的に無理があるのです。

 もう一度確認しましょう。この文章の根拠は
「ルソーが子供のころ牧師ランベルシエのもとに預けられる。ランベルシエ嬢はルソーに優しくしてくれ、ルソーにとって母親のような存在になった。そんなある日、ランベルシエ嬢の櫛が壊されてたという事件があった。しかもその櫛があった場所がルソー以外の人が出入りしていない部屋の中であった。みんながルソーを疑った。母親のような存在であったランベルシエ嬢もルソーを疑った。しかしルソーは無罪であると主張する。」
です。

 そして意見(結論)は
「なんらかの言葉によるコミュニケーションが必要であるのは、『わたし』と『他者』との間にしきり(障害)があるからだ。では、言葉はそのしきりを取り払うことができるのだろうか。言葉の存在そのものがどこまでもしきりの存在を前提にしている。とすれば、わたしたちは、お互いにしきりを越えてわかり合える状態、しきりを「透明」なものにすることは不可能なのである。わたしたちは、どこまでもコミュニケーション不能の部分(障害)を抱えているからこそ、コミュニケーションし続けるのである。」
です。

 この間にどのような「論拠」を見出せばいいのでしょうか。不可能なのです。

 ルソーの例は、言葉によってのコミュニケーションが不能であったという事実です。ここでルソーは言葉のコミュニケーションの必要性に気付いたわけではありません。逆に言葉によるコミュニケーションが成立しない場面があることを学んだのです。言葉の無力さを学んだのです。筆者の意見は美しい意見ではありますが、ルソーの例はそのための根拠とはなりえません。ここに論理の欠陥があると思われます。教科書に載せるべき文章ではありません。

 もちろん筆者の主張自体を批判するつもりはありません。筆者の論拠となる部分もよく理解できます。しかしルソーの例は根拠としても具体例としても適当ではありません。だから論理を学ぶという意味において、教材としてはふさわしくないのです。道徳教材ではないのですから。
(続きます。)


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