小説の名場面を書き残すシリーズを始めようかと考えている。続くかどうかはわからないが、できるだけ続けたいとは思う。最初は夏目漱石の『道草』のラストシーン。
「安心するかね」
「ええ安心よ。すっかり片付いちゃったんですもの」
「まだなかなか片付きゃしないよ」
「どうして」
「片付いたのは上部だけじゃないか。だから御前は形式張った女だというんだ」
細君の顔には不審と反抗の色が見えた。
「じゃどうすれば本当に片付くんです」
「世の中に片付くなんてものはほとんどありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るからひとにも自分にも解らなくなるだけの事さ」
健三の口調は吐き出すように苦々しかった。細君は黙って赤ん坊を抱き上げた。
「おお好い子だ好い子だ。御父さまのおっしゃる事は何だかちっとも分りゃしないわね」
細君はこういいいい、いくたびか赤い頬に接吻した。
この場面はとても印象に残る。人間社会は一度起きた事はいつまでも片付かないのだというのだ。さまざまな過去の出来事が、いつまでも自分の問題として残っている。
忘れてしまったと思っていることも、実はいつまでも心のどこかに残っていて、それがふとしたきっかけで思い起こされることがある。
個人の問題だけでなく、それは国家間、民族間に流れる問題としても残る。世界の紛争などはそのためにある。
この『道草』のラストシーンは心に響く。
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