とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

日本語の「パラグラフ」その4 「ご質問を受けて」

2016-07-31 16:53:43 | パラグラフ
 ご質問をいただきました。読んでくれた方がいらっしゃるということがわかりとてもうれしく感じています。ありがとうございます。

 質問の内容は「小説や詩などについても当てはまるのでしょうか?」というものです。今回のパラグラフについては小説や詩について想定していません。確かに日本語の小説や詩が短歌や俳句のような定型詩を除いては自由な書き方であるのは確かです。しかし、それが英語の場合はどうなのかは私にはわかりません。

 ただし日本語の特性として曖昧性があるということは言っていいのではないかと思います。英語は主語や目的語を省略することはありません。しかし日本語は主語や目的語を主語や目的語は省略することが多い。わかりきっているために省略するのならば曖昧性が生じることはありません。しかし、主語を省略して主語を曖昧にしていることも多いようなのです。三森ゆりかさんという方が指摘しているのですが、日本語を外国語に翻訳する際、実は日本語の主語があいまいなために翻訳できないことが多いそうです。それだけ日本語は非論理的であることは言っていいのではないかと思います。

 このような曖昧性は一方では自由を生み出します。日本語の小説では「語り手」がさっきまで客観的な立場に立っていたと思ったら、次の瞬間に登場人物の視点に立っているということは簡単にできてしまいます。読者もそれを自然に受け入れています。英語でも描出話法という似たような書き方はありますが、日本語ほど自由に視点の入れ替わりができるわけではありません。

 母語の特性がその国民性を生み出してきたのか、逆に国民性が母語の特性を生み出してきたのかわかりませんが、母語の特性は国民性と切っても切れない関係にあります。しかし国際化が進む中大きな変容を迫られていることも確かです。日本語の特性を保ちつつ、論理性をたかめ国際化に対応するためにどうあるべきかをしっかりと考えていく必要があると私は考えています。そしてその方向に国語教育が変化していくことは早急に実現しなければなりません。

 ご質問の答えにはなっていないとは思いますが、意図をご理解いただければ幸いです。
コメント (1)
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