まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

教職につきものの危険性(その2)

2009-07-30 11:57:03 | 教育のエチカ
教職につきものの危険性(その2)は、
学校教員以外も含む広い意味での教員にもだいたい当てはまりそうですが、
しかし、例えば、料理学校の教員なんかには当てはまらないかもしれません。

それは何かというと、
教員は評価権をもっているということです。
誰かに何かを教えていく場合、
その人がどれくらい学んだかを教員は評価する必要があります。
その評価に基づいて次に何を教えたらいいかを組み立て直すわけです。
ただ評価するだけなら、
これは料理学校の先生だって生徒の料理の出来映えを評価するわけですが、
問題となるのは評価の中でも 「総括的評価」 といわれるものです。
つまり、一定の課程を学んできてそれを履修し終わったと判断していいかどうかを、
テストや何かで最終的に評価する場合です。
生徒ひとりひとりの学びを全体として振り返り、
総括的に評価して成績をつけ、合否を判定する、というあれです。
たいがいの教員はこうした総括的評価を行う権利をもっているわけです。
大学教員の場合には 「単位認定権」 と呼ばれたりします。
料理学校では合否判定なんてしていないでしょうね(たぶん)。
でも自動車学校ではハンコをもらわないと次の段階に進めませんから、
自動車教習員は総括的評価を行う権利をもっているということになるわけです。
小~大学までの学校教員は全員こういう権利を手にしています。

これは権利というよりも権力と言っていいでしょう。
生徒の側はこれによって、
不合格 (もう一度やり直し) か合格 (先に進んでよし) かが決定されます。
もしも不合格と評価されてしまったらお金と時間のロスが発生しますので、
なんとか合格させてもらおうと必死になります。
ここに、この権利/権力を濫用したり悪用したりする余地が生じてきてしまいます。

ふつうの倫理学者はあまり口に出して言わないかもしれませんが、
ひとつ確認しておくべきことがあります。
人を支配するのは楽しいことである、ということです。
それは邪悪な快楽です。
でもとにかく快楽なのです。
人を支配することを楽しむなんて悪い人間だけである、
などという甘い想定に基づいて倫理学を構築するのは危険だと私は思っています。
むしろ、人間とは人を支配することを楽しむ動物である、という
冷徹な前提に基づいて倫理学を構築するべきだと思っています。
イジメはやるほうにとっては楽しいのですし、
職権濫用によって人を服従させることも楽しいことなのです。
私も白チョークで板書をしていて、ときどき色チョークを使うと、
学生たちがいっせいに色ボールペンに持ち替える音が教室中に鳴り響くのを聞いて、
「みんなオレの言いなりだあ」と邪悪な喜びに包まれたりします
たぶんそれくらいなら害はないのですが、
評価権をタテに学生を思い通りに操ることができたら、
それはたいそう楽しいことでしょう。
しかし、いくら楽しくてもけっしてやってはならないことがあるのです。

教員の皆さんや教員志望の皆さんには、
教員には評価権という特権/権力が与えられているということ、
この職権を濫用したり悪用してしまいたいという誘惑に自分が駆られるかもしれないこと、
をよく認識しておいていただきたいと思います。
そのうえで、
①評価はあくまでも生徒のために行うのであって、
 けっして自分の楽しみや利益のために行ってはならない
 (むやみに不合格にして楽しんだり、
  学費をよけいに払わせるために不合格にしたりしてはならない)
②評価は公正に行い、けっして私情をはさんではならない
(好みの子に甘くつけたり、巨人ファンだからといって不合格にしたりしてはならない)
③評価権をちらつかせて金品や使役や私的関係をもつことを要求してはならない
 (代償型のアカデミック・ハラスメントやセクシャル・ハラスメントの禁止)
ということを胸に刻んでもらいたいと思います。

そして、教員はそんな邪悪な楽しみなんかよりも、
もっと遥かに崇高で満足度の高い喜びを得ることができる希有な職業であるということに、
ぜひ気がついてもらいたいと思います。
それは生徒の成長を目の当たりにすることができたときの喜びであり、
みずからの努力や工夫が生徒たちの成長に
いくばくかでも寄与することができたかもしれないと感じられたとき、
教師は他では味わうことのできない無上の喜びに包まれることになるのです。
ですから評価権は、そのための手段としてのみ適正に行使するようにいたしましょう。
(けっこう自分自身に向かって言ってるところがあります。
 邪悪な誘惑はそうとう強大なので、いつ飲み込まれないとも限らないので)