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臼井嘉一・柴田義松編著『〈新版〉社会・地歴・公民科教育法』(学文社)の第3章9節で、
「高校倫理の授業づくりと方法」について執筆しました。
その冒頭で、なぜそもそも人はなぜ学ばなければならないのかとか、
なぜ社会科や公民科や倫理という科目を学ばなければならないのか、
ということについて書かせていただきました。
先日、高校の先生たちの研究会で、私の執筆部分に関して報告し、
先生方にいろいろとご議論いただく機会がありました。
その研究会での報告について、仲良しの高校の先生がまとめてくださいましたので、
その報告文を転載させていただきます。
なかなか名文です。
研究会の報告というよりは一編の書評になっています。
私が書いたものがそれにふさわしいものであったかどうかはきわめて疑問ですが…。
レポーター 小野原 雅夫 氏(福島大学人間発達文化学類)
テーマ 「高校倫理の授業づくりと方法」
まず、個人的な話で恐縮だが、筆者の抱える授業上の課題について書かせていただきたい。筆者は「公民科」の教員であり、まがりなりにも「公民」とは何か、「公民的資質」とは何かを踏まえ授業実践する立場にある。この場合、「公民」とは、もちろん旧来的な滅私奉公的、服従的な政治主体ではなく、自律的、参加的な政治主体をさすものと考えてきた。しかしながら、そこで教えるべき内容とされる価値や理念(国民主権、人権、自由、平等、平和、民主主義…)の教授に熱を入れれば入れるほど、生徒の側は引いていく。そんな状況を幾度も経験してきた。いったい何が欠け、何が過剰だったのか。むろん、筆者の授業技術の未熟さは否定できない。しかしながら、それとは別に、そもそも生徒の現実と「公民科」が求める価値や学習内容とのあいだに何か大きなズレがあるのではないか。いったいそのズレとは何か。そんな問いを常々抱いてきたものである。
こうした問いをもつ筆者にとって、今回の小野原雅夫氏の報告には目が啓かれる思いだった。氏は、このたび改訂された臼井嘉一・柴田義松編著『〈新版〉社会・地歴・公民科教育法』(学文社)の第3章9節「高校倫理の授業づくりと方法」を執筆担当されたのだが、今回の報告はその内容を踏まえたものである。その冒頭、氏は「公民」という語は「シティズンcitizen」の訳語であり、本来「市民」と訳すべきだったとする。もともとシティズンは社会の中で労働し生計を立てて家庭生活を営む私的側面と、市民社会や国家を形成していく政治主体という公的側面の両方を併せ持つ概念なのだが、氏によれば「公民」と訳されたことでシティズンの土台となるべき私的側面が軽視され、公的側面ばかりが強調される結果を招いたというのである。
ここで注目すべきは、滅私奉公的な意味での「公民」のみならず、国政に参与する主権者教育を重視してきた戦後の「公民」概念もまた、同じ土俵で争っているものと見る点である。「公民」の私的側面について氏は、ヘーゲルの愛情を基本に据える「家族」という基礎的な生活領域から、欲望に基づく他者との競争の場に発展する「市民社会」の領域までを想定できるとする。氏にいわせれば、この他者との闘争を余儀なく強いられる領域で自立的に「生きる力」を問わず、一足飛びに「国家」の領域へ教育の目的を持っていこうとする点で、滅私奉公的な「公民」も主権者育成を目指す「公民」も大差ないというわけだ。
なるほど、「政治離れ」という現象は、高校生のみならず国民的な課題であろう。だが、それは結局のところ自らが政治に接続しないというニヒリズムの現われであろう。むしろ、その土台を形成するためには、他者との関係において現実的に生じる格闘や困難を直視し、自立した個人としていかに打開していけるかという側面から公的側面へつなげていく学習を保障していかなくてはならない。氏が「シティズンの根幹を支える私的側面も含めた『市民』的資質を育成することこそ教育の第1目的であるのではないか」というのは、以上の意味においてのことであると理解する。
では、他者(氏によれば絶対的に理解不能な存在)との関係において自立的に「生きる力」とは何か。これについては、「倫理」科目に要請される道徳教育のあり方への批判的検討において論じられた。この点は新学習指導要領で引き続き強調されることになった部分でもあるが、氏によれば、この要請が徳目の暗誦といった陳腐な道徳教育へ陥らぬようにするためには「知性を鍛えること」が必要である。すなわち、「人から与えられた情報を鵜呑みにするのではなく、自ら考え、判断し、取捨選択できる」力を育てることである。ややもすれば、情緒的な問題に還元されがちな「他者」との共生という問題について、むしろ、自らとは考え方も感じ方も異質な「他者」を受け容れるという作業は、きわめて知的な作業であるというのだ。その上で、「知性を鍛える」ためには、倫理的な問題に関して「考えさせること」、そう考えた理由を含めて「書かせること」、さらにそれをもとに「話し合わせること」というシンプルな方法論が提示された。
興味深かったのは、実際に氏が看護学校にて実践した「デス・エデュケーション」の授業でのエピソードである。それは、それぞれ「死後はどうなるのか」という問いについて考えさせた後、話し合わせたところ、驚くほど互いの死生観について語り合ったことがないという事実が明らかになったというものだ。人の生死に関わる職業を志す看護学生であるにもかかわらず、である。むしろ、互いの考え方の違いに触れることに新鮮さを抱いていたということであったが、こうした実態は看護学生のみならず、高校生が直面している実態でもあるだろう。ケータイによるコミュニケーションが活発であっても、意外と何かについて考え、話し合うような経験はない。ここに公民科の理念と生徒の実態の乖離が如実に示されているように思われる。
したがってここで問われるべきは、高度な学習内容や授業方法を追求する以前に、シンプルに自らの意見や思いを他者とともに共有する経験が欠如しているという彼らの実態を、いかに考えるかという問題である。もちろん、これは公民科だけに帰せられる問題ではないだろう。本来、学校の諸活動においてそれは総体的に実現が図られるべきものだからだ。にもかかわらず、公民科には生徒自らが考えたことを、互いに表現し合える機会の創出が求められる実態があることは、あらためて問われるべき課題ではないだろうか。なぜなら、これこそが本来的な「政治」への接続を意味するからだ。
質疑応答では「公民」概念の歴史的系譜や、「公民」概念の由来など多岐にわたって議論がなされた。さらに、近代的な自律的市民像がいまだ日本社会において定着していないのではないかなど、どのような「公民」=「市民」像を求めるのかといった問題にまで熱く議論が展開されたが、時間内に決着をつけることはできなかった。むしろ、このテーマを1回の勉強会で決着させるべきではないのだろう。その意味で、今回の小野原氏の問題提起はわれわれに大きなインパクトを与えるとともに、次回も同様のテーマで国語科教員の方から問題提起していただくこととなった。引き続き内容の濃い議論を期待したい。
W先生ありがとうございました。
大事な問題なのでこれからも議論し続けていきましょう!
臼井嘉一・柴田義松編著『〈新版〉社会・地歴・公民科教育法』(学文社)の第3章9節で、
「高校倫理の授業づくりと方法」について執筆しました。
その冒頭で、なぜそもそも人はなぜ学ばなければならないのかとか、
なぜ社会科や公民科や倫理という科目を学ばなければならないのか、
ということについて書かせていただきました。
先日、高校の先生たちの研究会で、私の執筆部分に関して報告し、
先生方にいろいろとご議論いただく機会がありました。
その研究会での報告について、仲良しの高校の先生がまとめてくださいましたので、
その報告文を転載させていただきます。
なかなか名文です。
研究会の報告というよりは一編の書評になっています。
私が書いたものがそれにふさわしいものであったかどうかはきわめて疑問ですが…。
レポーター 小野原 雅夫 氏(福島大学人間発達文化学類)
テーマ 「高校倫理の授業づくりと方法」
まず、個人的な話で恐縮だが、筆者の抱える授業上の課題について書かせていただきたい。筆者は「公民科」の教員であり、まがりなりにも「公民」とは何か、「公民的資質」とは何かを踏まえ授業実践する立場にある。この場合、「公民」とは、もちろん旧来的な滅私奉公的、服従的な政治主体ではなく、自律的、参加的な政治主体をさすものと考えてきた。しかしながら、そこで教えるべき内容とされる価値や理念(国民主権、人権、自由、平等、平和、民主主義…)の教授に熱を入れれば入れるほど、生徒の側は引いていく。そんな状況を幾度も経験してきた。いったい何が欠け、何が過剰だったのか。むろん、筆者の授業技術の未熟さは否定できない。しかしながら、それとは別に、そもそも生徒の現実と「公民科」が求める価値や学習内容とのあいだに何か大きなズレがあるのではないか。いったいそのズレとは何か。そんな問いを常々抱いてきたものである。
こうした問いをもつ筆者にとって、今回の小野原雅夫氏の報告には目が啓かれる思いだった。氏は、このたび改訂された臼井嘉一・柴田義松編著『〈新版〉社会・地歴・公民科教育法』(学文社)の第3章9節「高校倫理の授業づくりと方法」を執筆担当されたのだが、今回の報告はその内容を踏まえたものである。その冒頭、氏は「公民」という語は「シティズンcitizen」の訳語であり、本来「市民」と訳すべきだったとする。もともとシティズンは社会の中で労働し生計を立てて家庭生活を営む私的側面と、市民社会や国家を形成していく政治主体という公的側面の両方を併せ持つ概念なのだが、氏によれば「公民」と訳されたことでシティズンの土台となるべき私的側面が軽視され、公的側面ばかりが強調される結果を招いたというのである。
ここで注目すべきは、滅私奉公的な意味での「公民」のみならず、国政に参与する主権者教育を重視してきた戦後の「公民」概念もまた、同じ土俵で争っているものと見る点である。「公民」の私的側面について氏は、ヘーゲルの愛情を基本に据える「家族」という基礎的な生活領域から、欲望に基づく他者との競争の場に発展する「市民社会」の領域までを想定できるとする。氏にいわせれば、この他者との闘争を余儀なく強いられる領域で自立的に「生きる力」を問わず、一足飛びに「国家」の領域へ教育の目的を持っていこうとする点で、滅私奉公的な「公民」も主権者育成を目指す「公民」も大差ないというわけだ。
なるほど、「政治離れ」という現象は、高校生のみならず国民的な課題であろう。だが、それは結局のところ自らが政治に接続しないというニヒリズムの現われであろう。むしろ、その土台を形成するためには、他者との関係において現実的に生じる格闘や困難を直視し、自立した個人としていかに打開していけるかという側面から公的側面へつなげていく学習を保障していかなくてはならない。氏が「シティズンの根幹を支える私的側面も含めた『市民』的資質を育成することこそ教育の第1目的であるのではないか」というのは、以上の意味においてのことであると理解する。
では、他者(氏によれば絶対的に理解不能な存在)との関係において自立的に「生きる力」とは何か。これについては、「倫理」科目に要請される道徳教育のあり方への批判的検討において論じられた。この点は新学習指導要領で引き続き強調されることになった部分でもあるが、氏によれば、この要請が徳目の暗誦といった陳腐な道徳教育へ陥らぬようにするためには「知性を鍛えること」が必要である。すなわち、「人から与えられた情報を鵜呑みにするのではなく、自ら考え、判断し、取捨選択できる」力を育てることである。ややもすれば、情緒的な問題に還元されがちな「他者」との共生という問題について、むしろ、自らとは考え方も感じ方も異質な「他者」を受け容れるという作業は、きわめて知的な作業であるというのだ。その上で、「知性を鍛える」ためには、倫理的な問題に関して「考えさせること」、そう考えた理由を含めて「書かせること」、さらにそれをもとに「話し合わせること」というシンプルな方法論が提示された。
興味深かったのは、実際に氏が看護学校にて実践した「デス・エデュケーション」の授業でのエピソードである。それは、それぞれ「死後はどうなるのか」という問いについて考えさせた後、話し合わせたところ、驚くほど互いの死生観について語り合ったことがないという事実が明らかになったというものだ。人の生死に関わる職業を志す看護学生であるにもかかわらず、である。むしろ、互いの考え方の違いに触れることに新鮮さを抱いていたということであったが、こうした実態は看護学生のみならず、高校生が直面している実態でもあるだろう。ケータイによるコミュニケーションが活発であっても、意外と何かについて考え、話し合うような経験はない。ここに公民科の理念と生徒の実態の乖離が如実に示されているように思われる。
したがってここで問われるべきは、高度な学習内容や授業方法を追求する以前に、シンプルに自らの意見や思いを他者とともに共有する経験が欠如しているという彼らの実態を、いかに考えるかという問題である。もちろん、これは公民科だけに帰せられる問題ではないだろう。本来、学校の諸活動においてそれは総体的に実現が図られるべきものだからだ。にもかかわらず、公民科には生徒自らが考えたことを、互いに表現し合える機会の創出が求められる実態があることは、あらためて問われるべき課題ではないだろうか。なぜなら、これこそが本来的な「政治」への接続を意味するからだ。
質疑応答では「公民」概念の歴史的系譜や、「公民」概念の由来など多岐にわたって議論がなされた。さらに、近代的な自律的市民像がいまだ日本社会において定着していないのではないかなど、どのような「公民」=「市民」像を求めるのかといった問題にまで熱く議論が展開されたが、時間内に決着をつけることはできなかった。むしろ、このテーマを1回の勉強会で決着させるべきではないのだろう。その意味で、今回の小野原氏の問題提起はわれわれに大きなインパクトを与えるとともに、次回も同様のテーマで国語科教員の方から問題提起していただくこととなった。引き続き内容の濃い議論を期待したい。
W先生ありがとうございました。
大事な問題なのでこれからも議論し続けていきましょう!