まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

生きながら火に焼かれて

2010-06-29 21:03:16 | グローバル・エシックス
しばらく前に師匠のブログで知って、これはぜひ読まねばと思い注文しておいた本、
スアド 『生きながら火に焼かれて』(ソニーマガジンズ、2004年) をやっと読み終えました。
タイトル通りの壮絶な本なので、読むのに時間がかかってしまいましたが、
倫理学者として、授業で人権を語っている者として、
グローバル・エシックスについて考えている者として、
この本に出会えてよかったと思います。

この本が一番訴えようとしているのは、今なお世界各地で残る 「名誉の殺人」 という風習です。
名誉の殺人とは、ウィキペディアによれば、
「女性の婚前・婚外交渉を女性本人のみならず「家族全員の名誉を汚す」ものと見なし、
 この行為を行った女性の父親や男兄弟が家族の名誉を守るために女性を殺害する風習のこと」
だそうです。
これだけでも十分に衝撃的です。
著者はスアドとなっていますが、スアドは偽名です。
もしも生きていることが知られたら、家族が彼女を殺しに来るかもしれないからです。
じっさい彼女は義兄によって火あぶりにされてしまい、
かろうじて命をとりとめ病院に入院させられますが、
病院でもまったく手当をしてもらえないでいたところ、
その病院に母親が毒薬を持ってやってきたというのです。
そのときはたまたま通りかかった医師が阻止したのですが、
その医師も彼女を救うためにそれ以上のことは何一つできませんでした。
その病院を訪れていたスイスの人権活動家が彼女を救い出し、
ヨーロッパに連れていってやっと九死に一生を得ることができたのです。

本を読んでみると、スアドは婚前交渉をしてしまうずっと前から、
父親にちょっとしたミスを咎められては徹底的に鞭打たれるということを繰り返しており、
いつ殺されるかわからないと感じて生きていたようです。
「人権」 という考え方がまったく存在しない悪夢のような世界です。
それが昔話などではまったくなく、私たちと同時代の話なのです。
スアドは私よりもほんの3つか4つ年上なだけです。
同時代に生きながらこの苛酷な人生は何なんでしょうか。
私たちがふだん当たり前のように享受しているものが、
どれほど有り難いものかということをまざまざと感じさせられます。
その壮絶な内容に関しては、ちょうど私が引用したいと思ったところを、
師匠がブログに全部載せてくれているのですが、
重複を厭わず、私も引用しておくことにしましょう。
まずは本書の冒頭部分から。

「私は1957年か58年に、ちいさなちいさな村に生まれた。人から聞いた話では、その村はかつてはヨルダンの領域の一部で、その後トランスヨルダン、さらにシスヨルダンとなっていった土地らしい。一度も学校に通ったことのない私は、自分の国の歴史はおろか、地球が丸いのか平らなのかも知らなかった。
 女の子には学校に通う権利はない。そもそも、権利と呼べるものなど何ひとつない。ひとりで歩く自由さえ与えられない。その村では女の子として生を享けること自体が不幸なことなのだ。男たちが勝手に定め、盲目的に守りつづけてきた法に従い、朝から晩まで家事、畑仕事、家畜の世話を奴隷のように黙々とこなし、10代の後半にさしかかる頃には親の決めた相手と結婚し、夫となった者に服従しながら男の子を産まなくてはならない。女の子ばかり産んでいると夫から捨てられる。娘は2、3人はいてもいいが、それ以上は必要ない。
 結婚前に男の人とつきあうことなど論外だ。視線を合わせたり話をしたりするだけで「シャルムータ」、つまり娼婦のようにみなされ、「名誉」を汚された家族はそのままふしだらな娘をほうっておけば村八分にされ、ついには村から追放されてしまう。そこで「名誉」を挽回するため、実の娘を処分することになる。両親および息子たちのあいだで家族会議が開かれ、いつ、どこで、どんな方法で、誰が死刑を実行するかが決まる。
 私は17歳くらいの頃、ある男の人に恋をした。好きになった気持はどうすることもできなかった。家を出て結婚したい、その一心で家族に嘘をつき、隠れて彼と会った。たった数回の秘密のデート。その結果、私は家族の手によって火あぶりにされることになったのだ。」

ここではちょっとロマンチックに、情熱的な恋をしたかのように書かれていますが、
じっさいに読み進めてみると、そんなにステキな恋でもありません。
私に言わせれば、この国の女性の弱みにつけ込んで男がいい思いをしただけです。
彼女が妊娠した責任は100%その男にあると言っていいでしょう。
しかし彼はまったくお咎めなしで、彼女1人が火あぶりにされたのです。
それにしても、ただ生きていくというだけ、
ひとに (特に家族に) 殺されたりしないという最低限の権利すら保障されていないのですから、
それ以外のありとあらゆる自由や人権といったものなど、
まったく与えられていないということがよくわかると思います。
次に引用するのは、ヨーロッパの人たちの前で、
「名誉の殺人」 を含む祖国の状況を証言したときのスアドのスピーチからです。

「私の生まれた国では、女性には暮らしと呼べるものなどないんです。多くの娘が虐待され、打たれ、首を絞められ、火あぶりにされ、殺されています。それでも、あの国ではそれが当たり前のことなんです。義理の兄の仕事を遂行しようと、母は自分の娘である私に毒をもろうとしました。母にとっては当然のことなんです。めった打ちにあって当たり前、首を絞められても当たり前、虐待されることが普通なんです。父はよく言っていました。牛や羊のほうが娘などよりずっと価値があると。もし死にたくなかったら口をつぐんで服従し、はいつくばい、処女のまま結婚して息子を産むことです。もし私も野原で男性と会っていなかったら、こうした生活をしていたでしょう。産んだ子供たちは私のようになって、子孫の子孫も、同じことを繰り返すでしょう。もし今でもあの国で生きていたら、母のように産んだばかりの女の赤ちゃんを窒息死させていたでしょう。娘が火あぶりに遭っているのを見ても、ほっておくでしょう。向こうではそれが普通のことだからです。
 今は、こうしたすべてのことにぞっとします。凶悪なことです。でも、あの村で生きていれば、同じようにするのです。向こうの病院のベッドで死にかけていたときでさえ、死んで当然なのだと思っていました。それでも、ヨーロッパに来て、二十五歳ぐらいになり、まわりの人たちの話を聞くうちに、私にも物事が理解できるようになってきました。女性を火あぶりにするなどとんでもないと考えられている国がたくさんあること、女の子も男の子と同様に育てられている国のほうが一般的なのだということ。私は村のことしか知らなかったのです。村がすべてだったんです。市場を越えると、もうそこは異常な世界でした。というのも、そこでは娘たちが化粧をし、短いスカートをはき胸元を見せて歩いていましたから。彼女たちが異常で、私の家族は正常。私たちは純粋で、市場の向こうの人々は不純、そう頭に叩きこまれていました。
 女の子はなぜ学校に行かせてもらえないか? 世の中のことを知ってはならないからです。私たちにとってもっとも重要な人物、それは両親。両親が言うことには、何があろうと従わなくてはならない。知識も教育も法律も、すベて両親から与えられるのです。だから女の子に学校は必要ないのです。通学かばんを手にバスに乗ったり、きれいな服を着たりしなくてすむように。書いたり読んだりできるようになると頭がよくなりすぎてしまいますから、女の子にとってはよくないんです。私の弟は家族で唯一の男の子でした。ヨーロッパの男性と同じような服を着て、学校にも映画にも床屋にも、自由に外出できるのです、なぜでしょう。それは両脚のあいだにおちんちんがついているからです。弟は幸いにもふたりの息子に恵まれました。でも、一番ラッキーだったのは彼ではありません。この世に生を享けなかった彼の娘たちです。生まれてこなかったという最高のチャンスに彼女たちは恵まれたのです。」

スアドはイスラム教徒です。
しかしウィキペディアにも書いてありますが、
「名誉の殺人」 はイスラム文化圏に多く見られるものの、イスラム教とは直接関係はありません。
このような女性に対する徹底的な差別もイスラム教とは無関係です。
スアドの証言の中にも、市場の向こうに住む女性たちの様子が出てきました。
イスラム文化圏においても、解放されている女性たちは存在するのです。
宗教というよりは、ある特別な地方の因襲としてこうした女性差別が残されているのでしょう。
しかし、こうした因襲の残っている土地はひじょうに多いです。
この本にはいまだに年間6000人が 「名誉の殺人」 によって殺されていると書いてありました。
ウィキペディアには年間5000人と書いてあります。
スアドの証言や、それによって広がった救済活動によって少しは減少したのでしょう。
それでも年間5000人がこうやって葬られているのです。

これをたんなる文化の多元性とか文化相対主義ということで許容できるでしょうか?
「人権」 なんてヨーロッパの白人男性が考え出した勝手な思想にすぎないと言えるでしょうか?
私は 「人権」 というのは人類が生みだした大切な宝だと思います。
じっさいにそういうものを人間が生まれつき持っているということではなく、
人間は生まれつき平等に人権を持っているものとして扱われるべきである、
という考え方、ものの見方を人類が共有していくべきだと思うのです。
シセラ・ボクが言う通り、人類には 「共通価値」 があると思います。
それは文化の違いを超えて共有されるべきものだと思うのです。
カントの 「定言命法」 に倣って、「ならぬものはならぬのです」 と断言したいと思います。

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8 コメント

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Unknown (桃太郎)
2010-10-23 22:36:22
私も読んでみました。
正直、熟読することのできない箇所も
少しありました。

苦しい気持を抑えつつ、
何とかさらっと、最後まで読んでみました。

生まれてくることすら権利ではなく、
眠ることすら、自由にままならない、
そんな社会がまだ存在していること、
それを今まで知りもしなかったことに
ショックをうけたまま、
ここ数日を過ごしています。

そういう社会に生を受けて、
逆に男性の中に、殺人を行うことに
疑問を持っている人はいないんでしょうか。

コメントしたい気持はありますが、
表現したいことがまとまりません。。。
返信する
壮絶 (まさおさま)
2010-10-24 07:59:24
ちょうど最近、福大の女の子もこの本を借りに来て、
やっと読み終えて返しに来てくれましたが、やはりあまりに壮絶な内容に言葉を失っていました。

> 男性の中に、殺人を行うことに疑問を持っている人はいないんでしょうか。

そこが因襲の恐ろしさで、別の考え方に触れる機会がないかぎり、
なんでこんなことをしなければならないんだろうと疑ってみることすらできず、
殺さなければならないという感情、判断しかわき上がってこないんだろうね。
返信する
読みたいです。 (ぴょんぴょん)
2010-10-24 17:55:01
 記事と上のコメントを読ませていただいて、この本、とても読んでみたくなりました。

>じっさいにそういうものを人間が生まれつき持っているということではなく、
人間は生まれつき平等に人権を持っているものとして扱われるべきである、
という考え方、ものの見方を人類が共有していくべきだと思うのです。

 そのような考え方、ものの見方を可能にしているのは、道徳だと思われますか?

 
返信する
道徳の根拠 (まさおさま)
2010-10-24 21:23:16
ぜひ読んでみてください。
貸してあげてもいいですし。

> そのような考え方、ものの見方を可能にしているのは、道徳だと思われますか?

うーん難しい問題だなあ。
定義にもよるけど、「女性の婚前・婚外交渉を家族全員の名誉を汚すものと見なし、
その父親や男兄弟が家族の名誉を守るために彼女を殺害しなくてはならない」
というふうに考えるものの見方も、彼らなりの 「道徳」 ないしは 「倫理」 だと言えると思うので、
基本的人権的なもの見方の根拠が 「道徳」 であるとは一概には言えないんじゃないかなあ。
むしろ、人権的な考え方、ものの見方の根拠となっているのは、
人間の理性ではないかと思います。
人間の感情とか共感能力ですら、育った環境によって、
シスヨルダンの人たちみたいな感じ方に作り上げられていくことがありうるので、
そういう伝統とか習慣とか自分の立場からいったん身を引き離してみて、
そういう習慣がなかったらと想像してみるとか、殺される相手の側に立って考えてみるとか、
そんなことが可能となるのは、人間が理性をもっているからではないでしょうか。
返信する
読みました (ぴょんぴょん)
2010-11-17 04:49:36
 描写がリアルで、読み進めるうちに、想像していた以上に辛くなってしまいました。

>そういう伝統とか習慣とか自分の立場からいったん身を引き離してみて、そういう習慣がなかったらと想像してみるとか、殺される相手の側に立って考えてみるとか、そんなことが可能となるのは、人間が理性をもっているからではないでしょうか。

そのような理性をもっているということと、そのような理性を正しく使える、ということとのあいだにあるものを考え出すと、自分に出来ることは何もないのではと虚しい気持ちになります。
 
 
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自由への教育 (まさおさま)
2010-11-17 08:11:47
カント倫理学の場合、「理性の事実」 に居直ってしまえばいいわけですが、
どうやったら理性を正しく使えるようになるのかというのは本当に難しい問題だと思います。
昔書いた 「自由への教育 ―カント教育論のアポリア―」 という論文の中で、
カントの 『教育学講義』 はその難問に挑んでいるのだと論じたことがありますが、
そこで問題にできたのはせいぜい、正しく理性を使える大人が、白紙の子どもにどうやって、
理性を正しく使えるように導いてあげたらいいのかということだけであって、
(それだけでも十分に難問です)
正しく理性を使っていない大人たちが支配している社会全体を、
正しく理性を使えるような社会へとどうやって変えていけるのかなんて、
途方もなく難しすぎて、たしかに私も何もできないのではという虚しい気持ちになってしまいます。
ふーむ…。
しかしカント主義者の私たちがここであきらめてしまったら、
世界は本当にこのまま変わらないままで終わってしまうのでしょうね。
ふーむ…。
本当に何ができるんだろう?
返信する
うぅ。 (ぴょんぴょん)
2010-11-17 20:37:08
>昔書いた 「自由への教育 ―カント教育論のアポリア―」 という論文

 以前コピーしたものが手元にあるので、読ませていただきます。

 まさおさまは、大学以外にも色々な所で教育のお仕事をされてるんですよね。中学・高校の出前講座とか。それって、社会を変えていくための可能性に満ち溢れたお仕事だと思います。そのなかで人権や平和の話題を直接扱わないとしても、「考えること」、「哲学すること」を教えられているのだと思います。
 そういった教育がめぐりめぐって社会を変えていくのだとしたら、個人に対する教育と類に対する教育とはしっかりつながっていると思うのですが、楽観的過ぎるでしょうか。

 今まさに苦しんでいる人のことを考えると、法の強制が持つ即効性に頼りたくなりますが、
その道を選んだところで、シスヨルダンの人たちに対して誰が立法する権利を持ってるのかという大きな問題にぶつかってしまうので・・やっぱり、個々人の理性の力を信じたいです。でも・・何だか偉そうかもしれないです。うぅ。
 
返信する
師に似ず (まさおさま)
2010-11-18 14:12:25
> それって、社会を変えていくための可能性に満ち溢れたお仕事だと思います。

うれしいことを言ってくださいますね、毒舌家の師とはちがって。

「法の強制がもつ即効性」 に頼るのではなく、
「個人の理性の力」 を信じたいというのも、まったく同感です。
そのためにまずは、あなたたちの風習は間違っているということを正直に伝え、
なぜ間違っているのかを根気よく訴え続けていく必要があるだろうと思います。
文化の多様性という言い逃れや価値相対主義に負けてはいけないと思います。
最初にターゲットとすべきは、あの風習が未だに生きている地の女性たちです。
たぶん彼女たちの理性はすでに何かがおかしいということに気づいているはずです。
彼女たちが自らの権利を主張できるようにエンパワーしていくことが重要だろうと思います。
もちろん、それも十分難しいことだろうと思います。
特に最初のうちは立ち上がった女性たちはひどい目に合わされるでしょう。
でも、彼女たちが目覚めれば、社会全体が変わるのもそんなに遠い日のことではないでしょう。
そのために私が何をできるかというと、これまた難しい問題ですが…。

とこんなふうに文化相対主義に反対する一方で、
それと同時に、イルカやクジラを食べることはけっして残虐なことでもなんでもない、
ということも根気強く訴え続けていきたいと思います。
少なくとも、牛や豚やフォアグラを食ってるお前らにガタガタ言わる筋合いはない、と。
返信する

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