まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

Not To See, But To Show

2009-07-08 19:08:14 | ドライブ人生論
クルマ運転しててトンネルに入ったとき、
かたくなにライトを点けない人がいますね。
陽が落ちてきてもうけっこう暗くなっているのに、
それでもなかなかライトを点けようとしない人がいます。
あれはなぜなんだろう?

まあたしかにトンネルの中には照明があるし、
完全に日没してしまう前の夕暮れ時は、
ライト点けなくても見えるっちゃあ見えます。
それどころか関東あたりで運転してる分には、
完全に夜になってしまっていても、
煌々と点いている街灯やビルの照明のおかげで、ライトなんかなくたって、
道路もクルマも歩行者もけっこう見えてしまったりするわけです。
福島に来て驚いたのは道がめっさ暗いことで、
ヘッドライトって物を見るために付いてたんだあということを実感したのは、
たしかに福島に来てからかもしれません。
福島に来る以前は物を見るためにライトを点けてはいなかったかもしれません。

ライトを点けなくても見えるんだとしたら、
なんでライトを点けなくてはいけないのでしょうか。
たぶん冒頭に挙げた、トンネルや夕暮れ時にライトを点けない人たちは、
点けなくても見えるんだから点けないのでしょうね。

それはまちがっています
ヘッドライトは見るためではなく、見せるために点けるものなのです。
Not To See, But To Show!
自分はここを走っていますよ、金属の塊に乗って時速60㎞でぶっ飛ばしてますよ、
ということを周りの人たちに教えてあげるために、
ライトを点けなきゃいけないのです。
バイクは昼間でも点灯してますし、
最近ではクルマも昼間から点灯するのが推奨されるようになってきています。
あれはまさに、見るためではなく見せるためなのです。

トンネルに入っても日が暮れてきてもライトを点けない人というのは、
次の2つのパターンが考えられます。
1つは、自分が外の物を見えるかどうかということしか考えていなくて、
他のクルマや歩行者から自分がどう見えているかを気にしたことがない、という場合。
こういう人は、対象意識(外界の物だけを気にする意識)にどっぷりはまり、
自己意識(自分自身を第三者的に見る意識)が欠落しています。
動物に近い人ですね。

もう1つは、自己意識がないわけではないのですが、
自分が見えているということは相手からも見えているにちがいないと、
自分の基準でなんでも判断してしまう場合です。
こういう人は自己中心的というか、
自分とは異なる他者がいるかもしれないという可能性を考えることのできない、
視野の狭い、子どもっぽい人です。
ドライバーや歩行者には、若い人もいれば高齢の人もいるし、
男性もいれば女性もいる、目のいい人もいれば悪い人もいる、
という大人なら誰でも思いいたることのできる人間の多様性というものを、
まだ理解できていなくて、みんな自分といっしょだと思い込んでしまう人でしょう。

なかなかライトを点けようとしないクルマを見ると、
上の2つのパターンを想像して、
そのドライバーのことが心配になってしまいます。
家庭は円満なんだろうか?
仕事場ではみんなとうまくやれているんだろうか?
運転しながらなんでぼくがこんな心配しなきゃいけないんだろう。
みんな、ぼくを心配させないためにも、ライトは早めに点灯するようにいたしましょう
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