まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

友の教え (その1)・ 皿は拭くのではない

2013-08-13 13:22:52 | 飲んで幸せ・食べて幸せ
これまで父に教わったこと先生に教わったことについて書いてきましたが、
友人から学んだことはそれよりももっと多いかもしれません。
「ドライブ人生論」 のカテゴリーに書いた話や、
「性愛の倫理学」 カテゴリーの最初のエピソードなどはまさに 「友の教え」 と言えるでしょう。
今日洗い物をしながらふとそんな 「友の教え」 のひとつを思い出したので書き留めておきます。


「皿は拭くのではない、磨くのだっ!」


これは大学時代の友人S君の言葉です。
この言葉を聞いたのは大学卒業後、彼が彼女と同棲していた家に招かれて、
飲食を終えて2人で洗い物をしていたときでした。
彼は大学時代から先進的な政治思想を生きている人でした。
フェミニズムとかエコロジーなんていう言葉がまだそれほどメジャーになっていなかった頃から、
その理論を学び語るだけでなく生活の中で自ら実践していました。
「ハウスハズバンド (主夫)」 という言葉を教えてくれて、
マイク・マグレディの 『主夫と生活』 という本を貸してくれたのも彼でした。
同棲を始めてから彼は専業主夫になったわけではありませんでしたが、
当たり前のように家事を2人で平等に分担していました。
彼の家では洗剤を使っておらず、台所には食器用石鹸が置かれていました。
今でこそ多くの家庭で当たり前のように普及していることかもしれませんが、
四半世紀以上前の当時、それはとても画期的なことでした。
私が結婚後、家事の分担も含めて男女平等な生活スタイルを築くようになったのは、
彼の影響によるところがとても大きかったと思っています。
(残念ながら界面活性剤の泡立ちには勝てず、エコな生活のほうは真似することができませんでした)

そんな彼の家で、食事を食べ終わったら後片付けを女性に任せていてはいけなくて、
自分で洗わなきゃいけないんだよなんていうことを教わりながら、
彼が洗ったお皿を私がササッと拭くという分業をしていたときでした。
彼は私が拭き終わったお皿をチェックして、
「これじゃダメ。やり直し」 とダメ出ししてきたのです。
私はなんのことかまったく意味がわかりませんでした。
ちゃんと水分は拭き取ってお皿は乾いた状態になっています。
我ながら手早い確実な作業だなと悦に入っていたくらいです。
何がダメなのかわからずキョトンとしていたところに、先ほどの台詞がやってきました。

「皿は拭くのではない、磨くのだっ!」

口調も物腰もとてもソフトな彼でしたので、
実際にはこんな高飛車な物言いではなかったろうと思いますが、
私の頭のなかにはこのような文言でインプットされました。
私の行った行為はたしかに水分を拭き取るというだけの 「拭く」 作業でした。
彼が私にやってもらいたかったのは、むしろそこから始まる行為だったのです。
乾いた皿にさらにキュッキュッと磨きをかけてピカピカに光らせていく、
「磨く」 という作業が必要とされていたのです。
たしかに言われてよく見てみると、
洗い終わって水分も拭き取り終わったお皿にも、うっすらと何かの跡が残っています。
これは石鹸でもタワシでも (彼の家では洗剤を使わないのでスポンジも使いませんでした)、
水分を拭き取るための布巾でも除去できるものではなく、
お皿を磨くための乾いた布巾で丁寧にたっぷり時間をかけて磨きをかけていかないと、
お皿は最初買ってきたピカピカの状態に復元しないのです。

S君の教えはいつでも私の常識の先を行っていました。
あまりにも先進的すぎて実際に実践するには難しいものもたくさん含まれていました。
一人暮らしになってからはお皿を磨くどころか拭くことさえ面倒で、
洗って洗いカゴに突っ込んでおいたまま、食器棚に戻されることすらなく、
自然乾燥したものを直接、料理を盛るのに再使用するということも少なくありません。
しかし、そうやって拭くことも磨くこともないまま使い回されるお皿は、
確実に薄汚れていっています。
ふだんは意識しないようにしていましたが、今日その薄汚れた皿と目が合ってしまい、
S君の教えを思い出したのでした。
そして、たまたま時間があったので、久しぶりに磨きをかけてみました。
口の中で何度もぶつぶつ呟きながら。
「皿は拭くのではない、磨くのだっ!」
S君、久しく会ってないけど元気にしてるでしょうか?
きっと今日もキュッキュ、キュッキュとお皿を磨いているんだろうな。