本の読み方の設計図。

本の構造を明らかにしていく。
論拠・主張

論証=事例、引用。

小説055 : reProfesional#127

2008-11-15 22:59:18 | reProfesional
chapter#55 ほんもの

ほんもの。ひとことでいうと、それほど重みのある表現でも存在でもないが、ボクたちは、自分にしても、自分が対峙する対象物にしても、ほんものを直視しないということをひごろから、なれすぎてしまっているのではないだろうか?
ほんもの。言い方を変えると、また皮肉なことに、さきほどのニンフ、アンドロギュノスのときの偽者として対置したニンフに値するものとイコールになってしまうが、「永遠に頭を悩ませる存在」というようにいうことができる。

ほんもの。自分が何たるところのものか?自分がなりうるところの最上のレベルの状態。ボクたちはその状態を無意識的に避けようとしているし、実際避けてしまっている。力を自分の本当の姿になること以外のニンフとの戯れなどに使ってしまっている。
ボクがボク自身、もしくは、ボク以外の人に対しても、いたく心配しているのが、どうして、これほど多くの人々が、人生をたんなる戯れのために浪費してしまうのかということだ。
たしかに、「永遠に頭を悩ませる存在」としてのほんものに直視することは、頭脳を理性に亀裂を生じさせ、とくに、破壊すらもたらすことになる。

「私はそんな人間じゃありませんから」
どうして、こういう戯れによって、次々とより卑猥な自分、卑小な自分にボクたちは、自分を卑下していってしまうのであろうか?
ほんもの。たとえ、それが自分の等身大を示すものであるにしても、実際にほんもの、実存として生きるということはえらく疲労をもたらすものである。
そんなことがけっこう本当のボクたちが実存から逃げてしまう理由であったりする。

もったいないとかそういう次元のことではなく、案外生きるということを無駄にしてしまっているものである。

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小説054 : reProfesional#126

2008-11-14 22:49:29 | reProfesional
chapter#54 永遠の敵

ニンフ、つなり異性の中の片方の特性を持つ存在は懸命に生きようとするものにとって永遠の敵であり続ける。どれだけ理性を保とうとしても、ニンフを前にしては、理性はひん曲げられてしまう。
ボク等は、ほんとうは、人生の中で立った一度のほんもののアンドロギュノスとの出会いだけでよいのに、むき出しの性器としての若き妖精であるニンフに誘惑される。ニンフがそれという風に思っていなくとも、能無しのボクは愛撫する主体としてニンフに理性を捻じ曲げられる。

永遠の敵。それが一時的な快楽しかもたらさないということは、何度も繰り返し、ここで述べてきたことではあるが、一時的快楽は、理性を取り戻す上で重要な役割を果たすということもこの論説のなかで何度も述べてきた。

永遠の敵。言い方をかえれば、本物でないものということになるであろう。ことニンフの議論に終止符を打てないということはわかっていながらもうとうとするなら、頭の中にいかにも美しい黄金色の花畑をもたらす存在とでも言えるだろうか。

花畑、美しいもの。そんなものだけが人生の本質ではない。だからこそ、ボクはニンフの存在に頭を悩ませるのであろうし、また逆説的でもあるが、何かを期待して、ニンフをまた阿呆面をして追い求めてしまうのであろう。

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小説053 : reProfesional#125

2008-11-13 00:23:37 | reProfesional
chapter#53 覚醒

ボクも含めた多くの人間がなかば、目をこすったり、あくびを頻繁にしながら生きている。
およそ、目覚めている人間なんていない。
ほとんどの人が眠たいようといいながら生きている。
ボクがたとえ、その関心が小説的な方向から、すこしはずれている心境の中でも、たとえ、それが哲学的文体になろうとも、小説を書こうという衝動に駆られるのは、ボクは少なくとも目覚めた存在でありたいと強く願うからである。

こうもりの話を久しぶりにする。こうもりはそろそろ老心に毒されつくしている。老心に毒されるだけならいいが、ニンフとアンドロギュノスの区別がまるで付かなくなっている。つまり、こうもりはもうほとんど永眠に近い状態であるということが出来る。
自己を覚醒させ、等身大の現実を受け入れようとしない状態、それが覚醒ではない状態のひとつの特徴であるといえる。
ニンフにだまされ、異性という存在に頭脳的惰性を覚えている状態も、また覚醒ではない状態であると強く言える。
どうして、人が之ほどまでになかば眠りこけた状態を好むのか?

どうせボク等は死ぬという弱い観念をどことなく了解してしまっているからであろう。覚醒した状態というのは、哲学のきわみの状態である。帆とb知る情熱で、周囲をやけどさせようという気持ちにもなる。
自己の思いを貫徹させようと思うとき、覚醒していなければならない。
覚醒を持って、電動を伝えなければならない。覚醒している阿呆ほど醜いものはない。都会気取りの覚醒阿呆。
たしかに、電動は強力ではあるが、そこに品性はない。美しさはない、都会的なという言葉をよし、彼女の無知のうえに勘違いをし、田舎もののこうもりの頭脳をきたならしい乳房で魅惑で一杯にする。

ボクは覚醒する。覚醒したボクの前において、もはやこうもりの自信は脆くも崩れ去ることを心待ちにしている。
若者の義務。それは、老心を持った老人に安楽をもたらすということ。覚醒した阿呆に品性をもたらすということだろう。

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小説052 : reProfesional#124

2008-11-12 00:20:05 | reProfesional
第3部 哲学的覚醒

chapter#52 哲学的

ニンフに関する議論、アンドロギュノスに関する議論を書き終えたところで、ボクは、ある程度対他者という文脈においても、対自分という関連においても、ある程度書くべきことは書いたのではないかという気持ちでいる。
もしかすると、この哲学的覚醒という項目においては、之まで以上に哲学的色彩が強くなっていくという傾向が出てくるのであろうという気持ちでもある。

ボクの今の率直な気持ちでいると、自己への反省の段階を超え、他者への恨み節にも似た分析を終えた今となっては、もはや小説という形態へのある程度の倦怠感すら覚えている。ただ、ボクが何も、文章を書くという行為において、成功をしたいという願望が消え去ったということが現れてきているというわけではない。

他者との関連で身につける最大の目標。それは、自己の研鑽ということに尽きるし、他者との関係性において、自己の存在意義の最大化、自己の能力の最大化ということに尽きるのではないかと思う。
それゆえ、他者との関連性を最大限に考えた後に、また、結局は自己への反省といういわば、哲学的段階へとまた階段を一段下りて見なければならなくなるというのは、ボクにしてみるとある程度必然の流れであるともいえる。
哲学的段階と、小説そのものとしての小説の中において、何が一番変わっていくのか?
ひとことでいうと、自己と他者というわけられた区分として存在していた二者が融合し、自己を社会という枠組みの中でいかに、献身させていくか?
いかに、自己の存在意義を拡充し、社会の中で意味を発揮していくか?という項目に関して多くを語らなければならないという点が大きく異なるということになっていくであろう。

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小説051 : reProfesional#123

2008-11-11 01:51:18 | reProfesional
chapter#51 依存の瞬間

依存の構造は、先ほど明らかにしたとおりであるが、依存自体は、けっして推奨される行動ではないかもしれないが、さきほどと大きく議論がかぶるところではあるが、依存は、一種の良薬である側面もある。
依存は良薬ではあるが、依存が良薬であってしまって時点で悪薬、もしくは、麻薬とかしているともいえる。
美しいニンフへの依存。
あまりにもうつくしく、かわいらしい。
男がニンフに依存するという現象は、アンドロギュノスを擬似的に回復しようという試みであるし、実際にある程度人間性の最低限の尊厳は、ニンフにより回復される。ニンフが、アンドロギュノスの役割を果たしきるということは可能なのだろうか?

こたえからいうと、大きくあるということだと思う。ニンフ自体が、アンドロギュノスになれるかというと、その可能性はきわめて低いといえるだろうが、アンドロギュノスが完全に引き裂かれ、ふたつの存在へと分離しかけている状態。それを正常な状態に持っていくという意味では、ニンフも十分に、時にアンドロギュノス以上にアンドロギュノスたりうるといえる。
アンドロギュノス以上に、ニンフが幸福を与えることもあるし、基本的に、ニンフは幸福しか与えない、それがニンフという範疇を超えないい以上。
ニンフはどちらかというと、大衆のカテゴリーに入るのであるが、天使に近いということも出来る。

存在の危機に瀕している生存物をおおきく、生というイキイキとした方向へと結び付けてくれる。ニンフなき状態で、アンドロギュノスを探し続けるというのは、すぐに自我の崩壊へとつながらなくもない状態であるといえる。
自我の崩壊した状態。それは、ニンフによる圧倒的な快楽で一目散に回復する。
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小説050 : reProfesional#122

2008-11-10 02:50:32 | reProfesional
chapter#50 大衆

「絶望は、自分の心が作り出す虚像である」
なんとも、甘美な、ポジティブな、危険な言葉だろう、ボクはそう思う。あたかも、自分の心を客観視し、自分の心を操縦可能なものであるという風に捉えている。自分の心を客観視するということは、いわば、戦うためのひとつの姿勢であるといえるし、成功や、失敗をするためのひとつの有用な態度であるといえる。
失敗をしようとするのは、もしくは、失敗を恐れることが出来るというのは、おそらくその人物がある程度、懸命な人間であることの証明であるといえる。
「99%の人間が失敗し、大衆はいつも敗北者」そんな言葉も、ボクが以前読んだ本には、上の言葉とセットにして、書いてあった。

大衆は敗北者。大衆が上の言葉から正確に考えて、実際の自分の身の回りにいる人間と照らし合わせた場合、99%はいわゆる大衆ということにあるであろう。
エドガー・エンデの絵にしても、有名な画家の絵にしてもそうだが、たいてい、ひとつのコンセプトに支配されている。いわゆる、才能に恵まれた人物であっても、せいぜいひとつのアイデアの下の新たな価値観を想像するということくらいしか出来ない。
大衆はたいして、何も出来ない。何もする気もない。精神的挫折を挫折とも考えることも出来ないゆえに、失敗から逃げることもないし、失敗もしたことがないという時点での失敗を行っている。

大衆は、天才に対して、さめた視線で、流布する考えを流し込み、阿呆づらをして、あきらめるということにこの上ない快感を覚える。死せる生物。生きるしかばねということばは、大衆に関しては、あまりにも贅沢な言葉であるといえる。彼らの精神は完全に死んでいるのであるから。
大衆は、自ら幸福も、意味も創造しようともしない。
なによりも自分を信頼していないし、自分の首を権力者により大きく縛られ、自分で息をすることすら難しい。

存在としての失敗。それがいわゆる大衆に言いえて妙であるし、だれもが、大衆から、脱却するチャンスをふんだんに与えられているにもかかわらず、大衆から抜け出すという失敗というカタチでの成功を誰も追求しようとしないという時点での精神的腐敗を推奨している。
それでも、大衆はいつの時代も跋扈する。失敗をしないようにしようとする失敗を衆愚として意味を見出し、必死で生きる。
なんとも美しい無意味という形での意味を追求する彼ら。
落ちぶれそうな自分よ、大衆だけにはなることなかれ。
大衆と権力者の構図はいつも一緒なんだ。
絵画を見てみよ。いつの時代も大衆の目は腐っている。
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小説049 : reProfesional#121

2008-11-09 02:00:55 | reProfesional
chapter#49 戦う理由

アンドロギュノスを求める生身の人間としてのボクたち。ボクたちは人間という存在として存在する以上、何も生存欲求、本能的欲求を満たすだけでは満足感は得られないし、また本能的欲求に永遠に欠いた部分を感じずにはいられないということにも、私たち人間が、本能的欲求の充足だけに生きないという理由がある。
完全に本能的欲求としてのアンドロギュノスの再生ということがほぼ、失敗に終わるという精神的挫折を精神的本性として備え持った、私たちは、本当に死にたいと切に願い、精神的に崩壊している状態でない限り、その第一義的欲求にのみ、身を傾けるということはしないし、とうていできない。

ボクたちが、働いたり、自己実現を望んだりするのは、なにもそれを本能的に求めているということからではなく、そうしないと、確実に完成を見ない生物的欠陥としての存在におそらく、健康的に精神を崩壊させるということが待ち受けているということをそれこそ、本能的にボク等が理解しているからだと思う。つまり、働くということ、もしくは、働くということを通して自己実現を図る、もしくは、なにかしら、空しい趣味というものを通して自己の充足を図るというのは、小さな精神の要塞としての負の依存とは対照的に、なんとか、自分はアンドロギュノスという完成系を目指せないまでも、社会という、創造主と遠くはなれた、おろかな人間により構築された箱舟の中では、幸福感を味わうことが出来るという敗者の正の依存であるというこちが出来る。

生物的に、本能的に挫折をしてしまうことを宿命付けられているという残酷な運命があるからこそ、いっけん無意味にある状態から、意味を再生しようという健気な営み。それが、ボクたち人間が意味を持ち充実のある人生を生きようということに他ならない。つまり、ただ生きようというだけでは、直ちに、実存主義という使い古された概念をそのままに拝借しているようで、それこそ、実存の恐怖が襲い掛かるが、無意味に陥るからこそ、もしくは、その無意味を避けたいからこそ、懸命な人間こそ一生懸命に生きようとする。

ボクは、そんな無意味からの逃避を図り、アンドロギュノスとしての本能的成功も同時に求めていく、そんな幸福な人間でありたいと思う。
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小説048 : reProfesional#120

2008-11-08 01:57:08 | reProfesional
chapter#48 離別

統一への恐怖感。その構造を解き明かしていくと、ボク達の中にある総合体としての自分へのノスタルジーがあるといえる。自分には何かが欠けている。
ボクには、愛するアナタがいないという状態で、今ここに存在するボクは不完全である。
年を重ねるということ、成長をしていくということは、いいかえると、一人で生きていくという可能性を大きく削いでいくことでもある。
未完成の人生のうちおける状態は、完成への試みという点で希望に満ちている。
ボクは、過去に自分がアンドロギュノス(人間としての完成形)であった時代の自分をアナタに出会うこと、アナタと触れ合うこと、アナタの存在で、取り戻したと思っています。
人生における社会的成功、自己の実現という観点では、まだまだ完成へのノスタルジー、永遠におそらく完成を許さない、絶対的な意志により、希望に満ち溢れています。
アナタは、けっして、まだ見ぬアナタではありません。アナタはワタシを完成させるという意味において、ワタシのすべて。

一度完成を人生のたった一部分においてですら、見てしまった人間ほど不幸なものはない。完成の後に待ち受けるのは、完成が崩れる自己崩壊、アンドロギュノスがまた惨めな単体へと引き裂かれるのではないかという恐怖だけなのですから。

どうか、ワタシから、去らないで下さい。アナタのやわらかい声、やわかい手、あたたかい声。すべてがワタシを完成させる要素であり、ワタシは、アナタにとっても、アンドロギュノスであると信じたい。

自己崩壊への媒介としての依存。依存という言葉が使われる以上、ボク等はそれが、どちらかというと倫理的に好ましくないなにかを伴うということを知っている。好ましくないと知っていながら、精神を安定させるためには、あるていどの自己崩壊的行為を絶えず、経由しないと安定できないという一種の精神病のようなワタシ。

ボクは、アナタといることで、安定した本当の自己の一部を維持できるのではないかと思っています。


~ いま、そこにいるアナタへの弁明 ~

人間て本当に醜いし、不十分な存在だと思う。だからこそ、健気だし、美しさを感じるという機能も持っているんだね。
 遠き、自我の彼岸に見るジブンという理想。
 アナタと、ワタシというアンドロギュノスへの憧れ。
 ボクは、アナタをワタシの欠けた部分とおもえることに、
 この上ない幸福をいつも感じています。
 愛しています。
 ワタシに美しき、統一をもたらしてくれるアナタ。
 いま、こうやってアナタを失う絶望を胸に抱き、
 早く、ずっとアナタと永久にともにいられるそのときを
 ワタシは深く望んでいます。
 淡い希望などというものをボクはもっているものではありません。
 つよく、アナタとひとつになれることを望んでいます。」
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小説047 : reProfesional#119

2008-11-07 01:22:51 | reProfesional
chapter#47 自己崩壊

自己の崩壊はある程度の依存誘発媒介を通して完成される。
自己の統一を図るということ、自己の統一を試みるということが、前章で見たように、一種のリスクを伴うという点から考えてみても、自己をある程度定期的に意図的に、崩壊させることが出来るという機能は、ある程度健全に生きるための不健全な健全な機能としてわれわれ、人間に備わっているのだと思う。
自己を統一することへの漠然とした恐怖感。
自己を統一してしまっては、そこに事故の終焉があるのではないかという恐怖が、われわれを一種の自己崩壊の軽い試みとして、試される。
ボクは思う、人というのは、ただ安定だけを求めて生きているのではないということを。
時に、自分の心を傷つけるために、ただ身体のキズだけでは耐えられなくなることがある。

崩壊を一番簡単に支えてくれる媒介、それが、依存という形態であろう。
セックス、麻薬、犯罪、心理的呵責を伴う一連の行為。
ボクたちは安定の殻の逃避願望と安定への強い願望の混沌とした感情の中から、依存を求める。依存は、一時的快楽の後に、小さな死が最初は訪れ、それが継続的な依存症へとなると、本当の死へと導かれていく。

ボクたちは、いずれ死ぬということを人生のあるタイミングを通して身に着けるようになる。だからこそ、間接的なカタチでのし、ダイレクトな死というカタチを希釈した形での死というのを依存誘発行為の中に求める。
依存の中に、没落し、忘我の境地、エクスタシーの中に身をうずくめるという行為。ボクたちはある程度おろかな存在ではあるが、依存には、セットで、精神的呵責がともなうということもどことなく感じ取っている。
忘我の後の精神的呵責、身体的崩壊。
安定を避けようとして、本心では、安定を求めているにもかかわらず、結果としては、一時的崩壊をうっすらと求めるという自己矛盾。

生きていくということは、意味を強制的に追い求めるということ。崩壊への夕暮れは、意味という呪縛からの開放への希薄な願望から、ボク等の真理に訪れる自助作用。

本当におろかになれない人間だからこそ、こういう本当におろかな境地に身を置くという利口な手段を持ったおろかな人間。
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パタゴニア経営論 : reProfesional#118

2008-11-06 02:29:17 | reProfesional
社員をサーフィンに行かせよう―パタゴニア創業者の経営論
イヴォン・シュイナード
東洋経済新報社

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しばらく、小説の執筆だけに終始していただが、社会的側面で自分を鍛えるという観点から言うと、自分の頭の整理のためにも、適宜、書籍の整理を行うことは必要だということで、久しぶりに、ブックレビュー。

パタゴニアの経理者による自叙伝。創業から、現在に至るまで、リアルな生き様が描かれている。営業をする肩から、広報をする方、MDのかた、中小企業の経営層などに幅広く、読んでほしい本である。

新素材、新商品は用途を知らしめることが必要であるということ。
自分の規範に従いビジネスを構築していく過程。
不在の経営として、社員をサーフィンに活かせるという言葉の背景として、
社員に、責任、効率性、融通、協調性をもたせるために、自由闊達な風土にしていること。
よりよいカスタマーサービス、商品企画のために、消費者により近いライフスタイルを持っている人物のみをリクルートするということ。
理念の浸透の方法。

デザインとは、付け加えることではなく、余分な部分を削り取ること。

また、いっけん、日本のカタログ文化の中ではあまり意識されていない、45%をも企業姿勢、エッセイで飾るといった手法。ただ、商品の写真をディスプレイするのではなく、実際パタゴニアの商品が使われている現場で、生のパタゴニアを体現する人を掲載するという方法・・・

非常に勉強になる本である。
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小説046 : reProfesional#117

2008-11-05 22:27:29 | reProfesional
chapter#46 自己統一

恐怖感は、自己が統一できないのではないかという漠然とした心の切り傷、もしくは、心の過去の損傷によるアザから生まれる。
こころは、たいていの人において、傷だらけであろう。塑性をもったこころは、なんとか、もとの形状を取り戻そうと、ひとりでに動く。
恐怖感は、そのこころ自身がもとの形態を覚えていないこととか、下の形態自体が、果たして自己なのだろうかということから生じる。

感情のそれぞれの状態を厳密に定義することは出来ないし、感情のそれぞれの状態を定義できないからこそ、精神的な異常者が意志の陰徳によって、定義され、生産されていく。
元来それぞれの感情の状態は定義できないし、定義すべきでもないという事実があるにもかかわらず、人は自分を正常であるとか、異常であるという状態のどちらかに身をおきたがる。

自分における異常な状態、それは、自分が精神として捕らえている総体の一部が不安や、恐怖、怒り、悲しみ等のどちらかというとマイナスとして捉えられる感情により、遊離された状態であろう。
自己の統一が取れた状態というのも、実際はなかなか訪れることはないのであろうが、仮に自己がそれを統一された状態と感じたときは、それはそれで不安であろう。
これまで、長年、混沌とし、定義を避けてきた感情に突如定義を求め、安定を望む、精神の一部の氾濫で、停止された自我のひとつの形態としての平穏。嵐しか吹かない、異国の地においては、その嵐がやみ、無風の状態となること自体は歓迎されるであろうが、その状態においては、次なる嵐を待つという恐怖が訪れるであろうし、嵐の中ということを想定されて営まれてきた通常の人々の生活というのは、イデアの中でのカオスとも言う状態となるであろう。

カオスの中に身をおき続けることとなる、私たち人間は、本当の意味で幸福な無風な状態は望まないだろうし、本当に無風の状態を幸福とも定義は使用としないだろう。過度の嵐、雷雨で、心がぼろぼろになることは望まないでも、適度な精神分裂状態を望んでいるのではないだろうか?

ボクは思う、不幸こそ、幸福の一種の形態であるのではないかと。
仮に、幸福な状態というものが、ボクに訪れたとしても、僕は、それをおそらくそういう風に捉えることは出来ないだろうし、また次の不幸な状態が来ることを心待ちにするであろう。
僕の自己統一とは、そんな不幸のカオスの中で、何とか、恐怖感を抑えつつ、安定を克服していくということではないだろうか。
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小説045 : reProfesional #116

2008-11-04 22:14:50 | reProfesional
chapter#45 変化

高揚感が訪れた。ボクは変化への希望を見出したからだ。
幸福を追い求める、その行為はその目的とするところが、一時的なものであり、恒久的なものであり、いずれにしても、変化への期待から幸福感の予兆は訪れる。

人は、多かれ少なかれ、変わりたいという願望を持っている。現状のままでいたいという人間は、よっぽど幸福な環境に身をおく人間以外にそう多くないのではないかと思う。
日々訪れる喜怒哀楽。ボク等は、感情とともに生きている。今そこにある感情を何とかしたい、そういう思いで、その時々でなにかしらの行動を起こす。
でも、たいがい、取ろうと、疲労だけが残り、ボク等は、自分の力だけではたいしたことが出来ないという感情の苦味を再度味わうこととなる。
お願い、だれか、ボクのこの恵まれない現状を変えて、でも、ボクには、どういう風に自分が変わりたいかということがいまいちはっきりわからないんだ。

そういう不安定な状態で、ボク等は今日も、明日も生きている。満たされた幸福な状態というのは、次なる変化への予兆である。
老婆は、人の不幸を躍起になって望んでいる。
人は、だれしも、その現実から、逃れたいと思うし、その現状を少しでも、よい方向に持っていければ、どれだけ自分が幸せになるのだろうかという甘い希望を抱く。

生チョコレート。
まさに、それは、ボク等人間の精神状態に似ているだろう。変化に対する期待は、すぐに、刺激を受け、溶解をはじめる。
幸せはたちまち、ひとつの刺激で、不幸という別の物質に様変わりを始める。
一度とろけだした、感情は、もう元には戻らない。
凝固をこころみて、熱を冷やしてみたところで、元通りではない、醜い形で、また感情は再生される。

生まれたてのカカオ。
ボク等は、みんな純真な香ばしい味とともに、生を授かる。でも、だれもそれを恒久的には許してくれない。
ただ、そこに生きる人間には、重力が働く。

なんでだろう。
ボクは、強く疑問に思う。被害者意識とか、そういうことではないと思うが、社会という枠組みが出来たとたん、強者と弱者という枠組みが出来、自分を強者の側に置くことを試み、弱者を排斥しようとする。
強者は、弱者がより弱くなることを望み、自分の手中に収められるように望み、圧力をかける。
弱者は、強者からの脱出を望み、幸せな状態を望む。

なんでだろう。
強者が弱者をより弱く出来たとしても、恒久的に作り出される弱者、強者の関係の中では、彼も永遠に強者に支配される弱者という立場は自然的に再生されるであろうし、自分が本当の強者であるなら、何も、自分に対して、弱者を創造する必要もない。
弱者が、弱者である限り、いくら逃げても、また強者により、生命の本質を虐げられるということは何も代わらない。

人間は、自ら、なかなか自分の本質をいじりたがらない。本質を変えて、本当の幸せというものが手に入ることでの利益よりも、本質を変えることの怠惰さに負けて、結局、不幸せという現状の幸福で満足をする。
結局、誰も自分を変化させることは出来ない。
変化の拠点となるのは、結局、自分でしかないという事実になかなか人間は気づかないし、気づいても、たいした価値を払わない。
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小説044 : reProfesional#115

2008-11-03 02:08:30 | reProfesional
chapter#44 待機した欲望

何が目に入るかは、おおむね、何を探し求めているかで決まる。
-サー・ジョン・ラボック

階段全体が見えている必要はない。最初の一歩を踏み出しさえすればいいのだ。
-マーティン・ルーサー・キング

ボクは言い知れぬ高揚感と、恐怖感を味わった。
ボクは何もしていない。
そういう気分がボクを襲った。日々の雑務の中で疲労感を募らせ、休日は無意味過ごしてしまうことが多いし、一次的欲望に流され、精神の退廃ともいえる性的欲望に身を任せてしまうことも少なくない。
フロスのような快楽は、まさに忘我。自分が忌み嫌っている老心をもつ連中となんら変わりはない。

自分が嫌いな連中というのは、自分が嫌いと思う部分、自分の中で忌み嫌う部分を彼らが、あまりにあらわに性質として誇示してくるからということもあるだろう。
ボクは、社会の役に立たなければならないし、社会もそれを求めている。
そういうミッションにも似た考えはおそらく、通常の人間だと、半ば気が狂った人間だというレッテルを必死で貼り付けて、放置しようとする流れになるだろう。

ボクはきっと、今恵まれている。老心に満ち溢れた腐った連中と時を過ごす機会を与えられているし、それによって、自分の精神を向上させる機会をもらっている。
ボクに立ち止まる時間などない。

自分の醜い部分を直視し、文筆家として大成し、愛する人と、幸せな生活を送る。
愛すべきものを守り、憎むべき老心をもった連中を矯正していく。そういう明確な目標がある。
ボク等の人生には、無意識であったり、故意的に待機させてしまっていて、その萌芽を放り投げられた純真というものがある。

その純真の泣きじゃくる声をほうっておけるほど、人生に時間はない。
筆を執り、体を動かし、人生のテーゼをプラスの方向に持っていかなければならない。
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小説043 : reProfesional#114

2008-11-02 00:55:37 | reProfesional
chapter#43 発泡性飲料

おそらく、ボクは思うのだが、全うな人間である限り、ボク達人間は、恒常的に幸福を求める方向性へとそのベクトルを仕向けられている。
もしくは、仕向けようとしているというと、強制の意味合いが出てくるが、少なくとも、自らの定義の中で、幸福を追求しようとする。

なぜ、性的欲求が生じるのであろうか?
それが、愛する人への犠牲を払うということを罪悪感として感じいても、ボク等はときに、性的欲望に対して、隷属的な態度をとることになる。
性的欲望とは、発泡性の飲料のように、決して、そのフロスは途切れることなく、エロティックなボトルの中で生じ続けるという性質のものではないかと思う。
性的欲望を制御したほうがよいと思ったときに、ボク等は、それを制御するだけの理性を与えられているということが人間と、それ以外の動物を分けるという点であろうが、人間の動物より劣っている点というのは、各人のフェティシズムとも、大きく関連するであろうが、基本的に季節と関係なく、一年中その欲望を開花することが出来る。

性的欲望の大きな源泉は、僕が思うに幸福ということにあるのではないだろうかと思う。グリーンスパンのベネチアでの回想からも導き出せることではあるが、ボク等は、性的欲求の中に過去を見る。性的経験を通じて、快楽、幸福という体験を復元しようと、もしくは、そこにあるはずの幸福、快楽というものをいったん現在の自分から離れることで、味わおうとする。
性的体験の中に身をおいているときは、ボクは無条件で幸福感に浸れると思う。
一時的幸福感、そのときだけを全面的に幸福感に浸すタイプのそれである。

発泡性飲料がそうであるように、開栓まえに、つよく待機を余儀なくされた性的欲望は説きに、爆発をする。
幸福への渇望が性的権化として現れるのである。
性的体験のさなかに身をおく、その間は、確かに、幸福感に包まれる。
しかし、いったんそれが、爆発的に、精液という自己の本質を女性に対して、放出された後には、男性は極端に欲望のボルテージが納まってしまう。
我に戻るということであろう。

人間というのは、今ここにあるべき自分と、今の自分を否定したい、今の自分という重圧から、逃れたいという欲求の交錯の中で、何とか、その存在を維持している。
一時的幸福への逃避。
性的欲求の本質は、そのようにも、描けるのではないかと思う。
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小説042 : reProfesional#113

2008-11-01 02:39:41 | reProfesional
chapter#42 発泡性飲料

ボクを創作活動へと走らせる大きな理由の背景として不安という概念が潜むということは、前章でみてみた。
どういう不安があるのかということをまた前章で大して述べないままに、自分なりに、ひとつの論段の完成をみてしまった。
どういう不安があるのかというと、まず、人生を肯定的に生きようとすると、ある意味で、それが健全なものであるという範疇において、ある程度の自己否定、自己破壊を伴うものとなる。

今のままの自分でいいと決めるなら、それは絶え間ない自己肯定という忘我を味わうだけで成就されるだけだろうが、それは、一種の生産活動ともみなせるが、一時的快楽以外の何も生み出さないのではないだろうか?
意外なところからの引用になるが、もとFRB議長のグリーンスパン氏の彼の新婚旅行のベネチアへでの彼の妻との会話を見てほしい。

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「ベネチアが生み出している付加価値は何なのだろう」
「的外れな質問じゃない」と妻はいって、笑いだした。
「でもこの街全体が美術館なのだから、これを維持する資金をどうやって稼いでいるのか、考えるべきだと思うよ」
アンドレアは笑いを止め、私に顔を向けていった。「この街がどんなに美しいかを見ていればいいの」
もちろん、妻のいうとおりだ。だが、この会話で私は何ヶ月も前から頭に引っかかっていた点をはっきりさせることができた。
ベネチアは創造的破壊の極なのだ。過去を維持し、楽しむための場所であって、未来を創造する場所ではない。だが、まさにその点が重要なのだ。ベネチアは安定と永遠、美とロマンスに対する深い欲求を満たしている。ベネチアに人気があるのは、人間性の矛盾のうち、一方の極を代表するものだからだ。人間は物質的に豊かになりたいと望む一方で、変化とそれに伴うストレスを避けたいと望んでいるのである。

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ボクは今何とか、自分をよりよい方向へと導けないか?社会的側面に持っていけないものかと躍起になっている。そして、その自己成就の方向性というのが、ひとつの衝撃により、もろくも崩れ去るのではないかという恐怖と不安とも戦っている。
おそらく、多かれ、少なかれ、完全に、老心に取り付かれてしまっているような、グロテスクな人間でもない限り、生きるという対極として、性もしくは、死というものが立ち現れるのであろう。
ここは、少し丁寧な言い回しをしたことによって、より混乱を招いてしまったであろうが、バタイユは、性への接近は小さな死であるというふうにいっていたとおもうが、まさにそのとおりだと思う。

女性サイドが何ゆえ、セックスをしたいと思うのか、もしくは、男性一般がなぜ、性的誘惑に対して隷属的態度をとりがちになってしまうのかということの回答が、マエストロ、グリーンスパンの先ほどの文章の中に凝縮されているのではないだろうか?

女性といういわば、母の象徴としての安心感、母にはない性的魅力に実をうずめることで、精進の中での小休止を味わう。それが、さまざまな形で屈折して表れるにしても、セックスというものの源泉といえるのではないだろうか?

社会的成功ということを考えるにあたっての第一弾としてもやはり、もう少し、ボクはこのセックスということについて考えるべきなのではないかと思う。あまりに、この社会の中で、商業化され、ともに隠蔽されているものであるからこそ。
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