本の読み方の設計図。

本の構造を明らかにしていく。
論拠・主張

論証=事例、引用。

オカベ : リクルートing@7

2006-01-31 12:00:00 | リクルートing。
愛媛経済レポートからの情報としての第一弾は、株式会社オカベについて取り上げたいと思う。
松山にも、こんない面白い食品会社がある。
この会社は、[「素材を活かした味作り」をモットーに
水産物を中心とする食品の製造・販売を行っている企業です。](HPより)
というように、魚介類を用いたなんともいえないおいしいお菓子、スナックを作っている会社だ。

2006.2.6付けの愛媛経済レポートによると、この会社が、「スナッ珍」なる新商品を開発したとのこと。めかぶと、いわしを用いたもので「添加物を極力押さえ、食感やカルシウム等の栄養分をそのまま生かした健康スナック」として売り出す予定とのこと。
昨今の健康志向の高まりを考えると注目の会社かもしれませんね!
僕は、この会社に昨年の合同説明会であって、商品を試食させてもらってから面白い会社だなと思っていました。

エントリーは↓↓↓
オカベ
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愛媛県でこんな会社はあるの?リクルートing@6

2006-01-31 00:00:00 | リクルートing。
愛媛で就職活動する上で日経新聞を読むだけで意味がありうるか?もちろんありうるだろう。しかし、地元で、こういうことをしている企業はないかと考えたとき、日経新聞のたった一面の四国欄だけでは、とうていその疑問に答えてくれるとはいいがたい。

そこで、今回から、このリクルートingにて、取り上げる情報源として、愛媛経済レポートと、海南eタイムズという愛媛の経済情報を取り上げている冊子も取りいれていこうと思う。
おそらく、地元志向が強いであろう愛媛という場所での就職活動での就職指導という場において、この2誌の名前が1回たりともといっていいほど聞かれないのは、不思議である。

愛媛に就職しようとする学生に少しでも「夢」を持たせたいと願うならこの2誌を知っているということは意味があることであると思う。
どちらの冊子も週間で比較的簡単に読めるので、時間がある方はぜひ参考にされたい。
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花 : その後@10

2006-01-30 00:00:00 | その後
誰も言葉戯そびなどしていない
根を張り巡らせ、それを強固にしていきたい
そんな想いで必死に共に咲く花を求めて逝く
極端に醜い
そんな花などない
自分の根に遭わない根に出会い、
困惑をしてしまった健気なという意味で合一の花。

共に咲く花がないということはない。
ただ、花は時に腐敗臭を漂わせる・・・
根は腐らせてはいけない
その初歩的な魅惑に駆られ、
空白感を味わう

just when I am with you, I can feel happiness.
since we were same flower...
before we became our figure,we had bloomed together...
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使命感に対する考察 : その後@9

2006-01-29 00:00:00 | その後
使命感。
英語で天職とは、callingなどともいわれるようだ。もしくは、vocationともいわれるようだ。
callingに関しては、あえて解説するまでもなく「呼び声」というような含意。
vocationは、何か特定のものに関して、自分が向いていると感じるような意識の状態。
いいかえれば、二つとも、使命感という意識に結びつく。
英語での、元来での意味での天職とは、宗教的に神から呼び求められているものというもの、自分がその声に対してこたえていこうという意志を働かせるものという意味合いがある。

しかし、神というものがニヒリズム的な時代状況にあるにせよ、そうでないにせよ、私たちとしては、どこに、どこへ導かれているのかということは容易にはわかりえない。その様な状況下において、いかにわれわれは自らの使命感というものを知りえるのであろうか?もしくは、知りえるということは可能といえるのであろうか?このことに対する答えは、サルトル的な様相を帯びることとなる。いわゆる、二律背反的な意味合いを持ってしまうということだ。
われわれは、使命感を知りえることはできないが、感じることはできる。
というのが、おおむね妥当な回答であろう。

つまり、神はわれわれに啓示を与えてくれはしない。しかし、われわれは、ここでも、対自-即自の神性というようにも述べたように、自ら自己の存在の根拠を形づくることが求められている。という意味では、自分で使命感というものは作ることができる。callingが作られうるという概念自体はおかしい気がする。それもそうだろう、呼ばれているという状態は、第三者的な意味合いが含まれるのであろうから。しかし、これは、対自-即自の神性という概念からしても、さほど難解な概念ではない。
使命感を作るというよりは、こういう方向に、私は向いている、callingな状態であると、vocationを感じていくというのが、使命感の本質的な様態であるといえる。

自分自身の使命感というものが、なにであるかということを確信することが難しいにしても、自分がこういうものに向いているのではないだろうか?自分はこれがしたいんだと発心することは可能であろう。この発心、その使命感を信じるということが、使命感というものに導かれうるための要諦であるといえる。
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穴 と 呼びかけ。 : その後@8

2006-01-28 00:00:00 | その後
存在と無 下巻

人文書院

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【穴という概念】

サルトルは、人間存在にとって人生とは、「かなりの部分は、いろいろな穴を塞ぎ、いろいろな空虚を見たし、象徴的に充実を実現し確立するために過ごされる。」(『存在と無』1115頁)というように述べている。
このことは、われわれが、「満たされない」とか、「むなしい」とか、「空虚な感じがする」などというようなことを考える上で、も相互的に参照しうるし、同じように、あの養老孟氏が、

「若い人やフリーターは自分にあう仕事がないと不平を言う。しかし、自分は能力が高いのに、こんな仕事しか与えられないと愚痴るのは間違いだ。自分探しなどと言う考え方を教え込んだ大人の責任でもある。
  世の中が自分に合う仕事を用意しているなどと考えてはいけない。仕事とは世の中に開いている穴。穴の大きさをニーズという。穴を埋めると周囲の人が迷惑しなくなり、それなりのカネをもらえるようになる。それが仕事というものだ。」 (「日経新聞」2006年1月16日12面より)

というように、それを社会というシチュエーションにも応用しうる概念だ。加えて、ここでは、引用はしないが、最近ニュースなどでも、なにか、過失を行ったという意味合いで、「穴を開けた」というようなふうにも応用できる概念だ。

【穴と人間存在】

穴、というからには、養老氏がいうようにそれは与えられうる形を伴ったものでもないし、あらかじめ満たされているものでもない。サルトルは、ここでも何度も述べてきた対自-即自という概念を引き合いに出し、
「対自は、即自の単なる無化より以外のものではない。対自は、『存在』のふところに、存在の一つの穴として、存在する」(1124頁)
というように述べる。このことは、対自の即自へのアプリオリな無化作用というこれまでみてきた概念を想定すると、穴へのアプリオリな、挿入の可能性というように言い換えることができる。
穴という満たされて否状態であるがゆえに、挿入により、満たされることが必要となる。

【対他的な穴】

サルトルは、一般的には、禁忌されうるであろう言い方で、よりダイレクトに、
「女の性器の猥褻さは、すべての口のあいたものの猥褻さである。それは他の場合にすべての穴がそうであるように、一つの『存在-呼び求め』である。それ自身において、女は、侵入と溶解によって自分を実存充実へと変化させてくれるはずの、外からやってくる一つの肉体を呼び求める。また、逆に、女は自己の条件を、一つの呼び求めとして感じる。(中略)なるほど、女の性器は、口である。しかも、ペニスをむさぼり食う、貪欲な口である。」(1116頁)
というようにも述べている。
ここでの、記述に対しては、フロイト的な解説も、ハイデガーとの関連という観点からでも解説は可能であろう。
しかし、ここでは、その叙述を原理としてだけみていこう。
サルトルがいわんとしていることは、先の対自-即自存在のこととの関連から明らかになる。われわれは、多かれ少なかれ、空虚感に苛まれて生きている。それは、満たされることを条件とする。そのことで、実存充実へとわれわれは導かれることが可能となる。ということである。

満たされえぬ存在であるがゆえに、満たされることを対他存在として求める。そのモデルがここでみられるわけである。逆に言うと、この議論は、先に挙げた養老氏の引用についての議論へと膨らんでいくこととなる。

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アメール(amer)の泉 【寓話】 : その後@7

2006-01-27 00:00:00 | その後
アメールはいつも森の中を歩いていた。アメールは、探していたドゥース(doux)という名前の果物を。
彼はいつも歩き疲れると、森の茂みの中にある小さな泉の前で考えをめぐらせるために立ち止まることが習慣になっていた。
アメール少年は、その泉の水を眺めるのが習慣となっていた。
アメール少年がその泉を眺めているときあたかも彼は、泉の中に自分の存在が吸いとられていくように感じることがあった。

「この水はいったい・・・」

アメール少年はいつもそれから先にその問いを進めることができなかった。

「僕は歩いている・・・」

アメール少年は、普段自分が、ほかの連中より美しくありたいと強く思っていると感じていた。
アメール少年は、許せなかった。
自分を、こうやっていく当てもなく、森の中を歩き続けさせるこの森以外の自然を。
森以外の自然。
森以外の自然も間違いなく自然であったし、森であった。
それが、森でなく、森であるという、少なくとも、アメール少年が歩くことができないという意味での森であるという意味で、それは、アメール少年にとってはもはや森ではなかった。
彼は、どこかにドゥース(doux)という名前の果物があるということは知っていた。
彼は、それがどこか海の向こうの別の国から来た果物であるということも知っていた。
生みの向こうの別の国、彼にそれがどこの国かということは、まったく検討すらつかなかった。

というのも、彼が唯一確実といえることは、海の向こうというのは、あくまでのこの森の向こうということであり、その海の向こうという場所においても、そこは所詮森にすぎないということだけであった。

彼が、このドゥース(doux)という果物について知らないこと。
それは、今彼が止め処なく、探しているということからも、あまりに多い。
ほとんど彼はそのことについて何も知らないといってもいい。
その中でも、彼が徹底的に知らないというのが、
それが、douxというスペルなのかdouceなのかということである。
それが、海の向こうの言葉であるということで、彼はおよそその言葉を音でしか把握していなかった。
ドゥース。
それは少なくとも、果物であるということは彼にとっては確実なことであった


彼は、森の中にあるいろいろな果物に見えるものに気を掛けた。
彼は、そのドゥースという果物を探すということに関してほとんど狂信的でさえあった。
彼は実は、その果物似にた果物を食したことがあると思っていた。
しかも、ほんとうのところをいうと、何度も何度もそれに似たなにか別な果物を食したことがあると思っていた。

「どうしてだろう・・・」

彼は、それでも、それがただドゥースに似たものであるとしか感じれなかった。

何故そう感じるかは彼自身まったく検討つかなかった。
ただ、彼が追い求めているそれとはちがう。
そう直感するだけであった。
どこか、熟していすぎるという直感であったり、
どこか、甘すぎるという直感であったり、
あまりに硬質な枝にぶら下がっているとうう直感であったり、
彼が歩く森の中の木々をやたら怒り発たせすぎるという直感であったり、
なにゆえか、黄色く不気味な樹液をその木々が発し、なんとも嗚咽を覚えさせる芳を発せさせるというようなそんな気分であった。

アメール少年は、とにかくそのドゥースに似た果物を見つけたら、
自分のものに一度してみたいという欲求に突き動かされた。
正直なところをいうと、それはドゥース少年自身の自発的な考えということではなかった。
ドゥース少年を取り巻く森の木々たちが、彼をそういう気分に駆り立てるのであった。

「失敗するだろう」

彼はいつもそのドゥースに似た果物に対するときいつもそんな気分を味わっていた。
それでも、彼はその果物を食してみたいという衝動は抑えられなかった。
最初の内は彼はただその果物をふつうに口に入れるだけであった。

「失敗するだろう」

そういう強い気分に苛まれるようになった彼は、果物の食べ方を工夫しようと考えるようになっていた。彼の考えによると、自分がドゥースを探し出せないのは、食べ方を間違っているからではないかという気持ちがあったからだ。

「それにしても、どの果物もどうしてこれほどにうまいのだろう。
その艶といい、その味わいといい、房といい・・・」

アメール少年は、正直ドゥースという彼が本当に捜し求めている果物自体が見つからなくてもいいという考えさえ日々持っていた。
どの果物も、うまいからだ。
だが、一つ大きな問題を彼は抱えていた。

アメール少年が、ドゥースではない、その果物を食べるときはよいのだが、食べたそのしばらく後になんともいいがたい苦味が彼のしたの上に沈殿するのであった・・・

「ああも、甘くうまかった果物がどうしてこの味を毎回残すのであろう・・・」

彼が、本当のドゥースという果物があるという希望を見出したのは、そんなところからであった。

彼が、途方にくれたとき、いつも来るのが、この森の中にある泉であった。
水はよい、透明だから。澄んでいるから。

泉はきれいだ。
そういう想念はいつも、彼の

「この水はいったい」

という想いを起こすことになるだけであった。
ドゥースという概念が彼の頭の片隅においてあるかぎりにおいて、その水のおくそこに、ドゥースの幻影を彼はみてしまうのだ。

「どうして、おれは、こんな果物に取りつかれなきゃいけないんだ・・・」

彼は、その泉が濁って逝くのをみるにつけそんな気分を催した・・・
泉は静かだ。
あたかも、森の中を歩く人々が、その気分を嘲りといってみたり、挫折と言い習わしているのに近い気分を彼も感じた。
彼は、そういう気持ちを懸命に否定しようと試みたが、結局は無駄な試みに終わるということは、彼は知っていた。
それは、彼も、どれだけ背伸びをしてみようにも、他の人々と同じように森の中を歩くドゥースの幻影を追う人々にすぎないのだから・・・

泉の濁り。
上から他の原因によりもたらされたり、アメール少年自身がもたらしたり、
美しさを他の人より、求めたいと願っているアメール少年にとっては耐え難いことであった。
泉の濁り、
結局彼はそれにより、ドゥースという果物を捜し求めるという旅を続けなければならないということを宣告されるだけであった。
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キリン : リクルートing@5

2006-01-26 12:00:00 | リクルートing。
今回は学生もきっと大好きなビールの会社キリン(エントリーはコチラ!!)について。
同じく、1月26日付けの日経新聞によると、
「キリンビールの株価がアサヒビールの株価を終値ベースで二年三ヶ月ぶりに上回った。」とのこと、
その理由は、
「第三のビール『のどごし<生>』の販売が好調なキリンが、今年にもビール系飲料出荷量でシェア首位の座をアサヒから奪還するとの期待」
があるからとのこと。
しかし、
「『景気回復の恩恵を受けるのは飲食店向けビールで強いアサヒ』(大和総研の山崎徳司アナリスト)との指摘もある」
とのこと。

これに絡めて酒税増税問題なども含めると、キリン(会社HPはコチラ!!)から目が離せませんね!!
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カルピス : リクルートing。@4

2006-01-26 09:00:00 | リクルートing。
今回取り上げるのは、カルピス(エントリーはコチラから!!)
日経新聞1月26日付によると、過去最高の純利益を更新したとのこと。
それも、
「砂糖価格の上昇など原料高が利益を圧迫したが、コスト削減で吸収した」
とのこと。
逆に、
「健康機能飲料・食品事業は『アミールS』を中心に販売不振で二割減少、全体の足を引っ張った」
とのこと。
食品事業に対する一策をもっているひと、カルピス(会社HPはこちら!!)が好きな人におすすめな情報でした。
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ピープルスタッフ : リクルートing@3

2006-01-26 06:00:00 | リクルートing。
今回は東海地方を中心に人材派遣を展開するピープルスタッフ(エントリーはここをクリック!!)のことを取り上げます。
1月26日付けの日経新聞によると、このピープルスタッフ(会社HPはこちら!!)、「ロボット派遣」なるものを始めるとのこと。
「簡単な健康チェック機能付き」の福祉施設や病院向けのよりそいifbotや、「来客を感知して声をかけた上で来客者の映像などを転送する受付機能付きの」Hello Kitty ROBOなどを貸し出すとのこと。

こちらも、これまで人材派遣という観点でこの業界に興味を持っていた人に加えて、介護、ロボット産業などにも面白い情報ですね!!
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コナミ : リクルートing@2

2006-01-26 03:00:00 | リクルートing。
今回取り上げる会社はゲーム業界でいわずと知れたコナミである。
前回も少し述べたが、このリクルートingでは、日経新聞の企業情報のページから面白い、伸び盛りの企業を紹介して、就職活動をする学生の情報収集、エントリーに役立ててもらおうというものだ。
第二段としては、コナミを取り上げたいと思う。
1月26日付の日経新聞によると、
「米ウエストバージニア州と子供の肥満防止プログラムの開発で協力する」とのことで、「コナミの人気ダンスレボリューション」をアメリカのウエストバージニア州の公立学校すべてに導入して、体育の授業で使うようにするとのこと。その数は、なんと103!!
もともと、ゲーム業界に興味がある人だけではなくて、子供の教育、健康産業に興味がある人におすすめな情報ですね!!

コナミのページはこちらから入れます。エントリーは、本文冒頭のコナミと言う文字をクリックしてね♪
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こんな会社にエントリーしてみよう。:リクルートing。@1

2006-01-25 00:00:00 | リクルートing。
今日、(1/26)4月からの就職先になるであろうリクルートの先輩から「元気にしてるかとの電話があった。」それで、今日日経新聞読んで、思い出したことがある。
確か、リクルートの面接の時に、いっていたことの一つに、「自分にしかできない、自分なりの視点で、学生によい会社選びの支援をしたい」「学生にほんとにそこで働いてその人が幸せになる会社を選ぶお手伝いをしたい」というようなことがあったことを。
そろそろ就職活動が本格化してきた今日この頃。
日経新聞者の方が行う就職指導「日経新聞の読み方講座」では、日経新聞の企業の動向などが載っているページを読むとよいとの指導をしているとのこと。
確か、僕自身日経新聞を理解できるようになったのは、ようやく去年の末から、ということもあって、ここでは、日経新聞の企業面から、面白い会社を紹介して、就職活動をする学生にお役に立てればとおもって執筆をしていきたい。

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まず記念すべき第一弾は、どんな業界がこの先伸びそうかということについて1月26日付16面の「新興株相場を読む-市場関係社インタビュー」からヒントを得てみよう。
二人の方がこのインタビューで中で答えていることに共通しているのが、携帯電話関係が今後伸びるであろうということ。
「地上デジタル放送『ワンセグ』や番号継続精度などで話題の多い携帯電話関連や販売支援」(三菱UFJ証券投資ストラテジスト 荒井誠治氏)が伸びるであろうとのことだ。
リクナビ2007からの関連する記事としては、IT特集マスコミ業界特集などが挙げられるだろう。
ほかに、この日経新聞で挙げられている伸びそうな業界としては、「高額消費」に関連する業界が挙がっているこれは、日本社会で二極化が叫ばれる中で、トヨタのレクサスなどに象徴されるような高級な商品への需要が上がっていくことを指している。

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【リクルートingの使い方】

このページの就職活動をしている学生の効果的な使い方としては、リンクを張っているリクナビ2007からそのことを勉強してもらったり、このページの中で出てくる和からない単語を調べてもらうことで、一般常識の勉強に役立ててもらったりということができると思う。
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秘匿 :その後@6

2006-01-24 00:00:00 | その後
秘匿。
それは、私がそれに深く関与する上で秘密としなければいけない概念。
私が、それを気に掛ける故に秘匿としなければいけない概念。
もはや、もし、私がそれに気を掛けないというならば、それが秘匿たることになんら意味はない。
私という概念は放棄された。
より厳密に記述をするならば、私という概念はなお更新され続けている。
それゆえ、「いま」という発生しは消え去り続ける中を生きる「私」というメディアは、「私」を持たない。
それゆえ、秘匿は解放された・・・

written at 2006-01-27 01:25
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希望のニート講座in愛媛大学1月24日!!

2006-01-23 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
希望のニート 現場からのメッセージ

東洋経済新報社

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いよいよ以前脱「目的なき上昇志向」としてとりあげた『希望のニート』の著者である二神能基氏が明日1月24日に愛媛大学(愛媛大学火曜ナイトサロン)にて講演会をおこなわれます。
ニート支援のNPOニュースタートの代表でもあり、国のニート支援の第一線でも活躍される二神先生の話は非常に貴重なお話。

「あいつらは、働く気がないんだ」
「負け犬だ」・・・などなど
ニートに対する誤解。
きっとみなさんのなかにもあるはずです。
でも、この問題が多くの若者に共感を生み、
不安感を生むのはなぜでしょうか?
ニートに潜む若者の心理
現代日本の闇・・・
ここで考える時間はきっとあなたの未来に希望となるはずです。

どうぞ奮ってご参加ください。

------------

日時:1月24日(火曜日)
   18:30~(18:10開演)
   *予約、参加費などは不要です。どうぞお気軽にお越しください。
場所:愛媛大学グリーンホール(旧共通教育第講義室)
主催:愛媛大学火曜ナイトサロン実行委員会
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<私>の可能性 ③ :その後@5

2006-01-22 00:00:00 | その後
存在と無 下巻

人文書院

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以下に述べることは、卒論提出時には、頭脳的な疲労の蓄積ということもあり、詩的できなかった、『実存主義とは何か?』の中におけるサルトルの議論との接合を試みることになる。ここでの対自-即自の神性というのは、これまで述べようとして、まだそこまで解釈が進み切れていなかった故に、述べれていなかったサルトルの対自-即自という概念の一つの極地であるということができる。

【即自存在 神格化。そのモラル論的意味あい】


 ここまでで、対自-即自存在のまなざし論における相互性というものを見てきたわけだが(同じく、ここでは未述)、重要な点はようやくここまで述べて論じることが可能になった。対自が、自らの即自存在を告げ知らせるということは、どういうことであろうか?このことが、本論で対自-即自存在ということに関して最も述べるべきことであろう。

 あらゆる人間存在は、彼が存在を根拠付けるために、また同時に、それ自身の根拠であることによって、偶然性から逃れでているような即自すなわち宗教では神と名づけられている自己原因者を、構成するために、あえて自己を失なうことを企てるという点で、一つの受難である。それゆえ、人間の受難は、キリストの受難の逆である。なぜなら、人間は、神を生れさせるために、人間としてのかぎりでは、自己を失うからである。 (『存在と無』1119頁)

人間存在は、神となる。対自-即自の究極的な原理は、自ら、を自らの無化により根拠付ける、自己原因を、自ら構成するということである。ということは、「存在は存在をしか生みだすことができない。」 (同,84頁)という『存在と無』最初での命題に照らし合わせて考えると、この自己原因、もしくは、神性としての対自-即自存在というものは、サルトルモラル論の偉大なるマニフェストであるともいえる。神なき時代において、神がなくとも、われわれは、意味を見出すことができる、それゆえ、無化ということこそ挫折することがあれども、われわれは絶望することはない。

----------
(以下、卒論にては未述)

 より、厳密に、このサルトルの対自-即自による人間存在の神聖化という概念は、私たちは、自らの根拠を自らで打ち立てうる、それゆえ、つねに、無化作用を施すことでつねにある程度挫折すべき存在であるといえる。つねに挫折すべき無様な神の模倣者。神なき時代において神を模倣するという荒唐無稽な離れ業を成し遂げるわけだから、成し遂げれないわけだから、私たちは万事挫折する。
 しかし、この挫折は、輝かしい挫折である。私は神ではないという意味で神である。私が神であるという意味合いと同じ意味合いにおいて、周囲の人間存在も神である。
 このことは、サルトルが、『実存主義とは何か?』において、「私の行動は人類全体をアンガジェする」とか「自分自身の選択によって人類全体をアンガジェする」といっていることの真意が宿っている考えであるといえる。神が、絶対者であり、超越者であるならば、その行動は全体的であり、絶対的で超越的であるというのは、それほど奇異な考えではないだろう。しかし、私たち人間存在は、「それがあるところのものであり、あらぬところのものである」という即自存在的な意味合いでの神である。
 そのことにより、絶対的であり、絶対的でない、という選択をひび行う。それは、自分ではなく、他者に対しても同じことである。これ以上の解釈は敢えてほどこそないが、このことがサルトルのモラル間のもっともコアな部分であるといえる。真性を帯びた人間存在として生きる私たち、それがモラルを導き出す<私>可能性ということだ。
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<私>の可能性 ② : その後@4

2006-01-21 00:00:00 | その後
ニヒリズム―その概念と歴史〈上〉

理想社

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次には、サルトルの神そのものに対する考えということとその周辺について見てみよう。
例によって、卒論からの引用に加筆修正という形で論を進めていこう。

【二ヒリズムとしてのサルトル的対自―即自への神性の可能性】

 再度『ニヒリズム』という書物からの引用となるが、岩波氏は、フィヒテの言葉として、

  神のようなものを信じないで、人はまともでありうるだろうか。答え。ありうる。(というのは、この問いにおいては、疑いもなく、理論的信仰が問題となっているからである。)無神論者は宗教を持ちうるか。答え。もちろん持ちうる。(高潔な無神論者について次のように言いうる彼は、口で否定するのと同じ神を心で認めているのである。) (『ニヒリズム』125頁)

というものを挙げている。この言葉は、まさしくサルトルの対自-即自存在の神性への肯定というものをいい表しうる表現であるといえる。サルトルは、神自体を信じているわけではない、敢えて再度似たいような箇所を引用することは煩わしく思われるかもしれないが、サルトルは、神ということに関して、

  おれは嘆願した。おれはしるしを求めた。おれは天にメッセージを送った。答えはなかった。天はおれの名前も知っちゃいない。いつもいつもおれは神の眼になにでありうるのかを問うてきた。今答えがわかった。無だ。神はおれを見てやしない。神はおれのことなど知りもしない、おまえは頭の上のこの空虚が見えるか。この空虚が神だ。おまえは扉にあいたわれめが見えるか。それが神だよ。おまえは地に空いた穴を見るだろう。それが神だ。沈黙が神だ。不在が神だ。神とは人間の孤独のことだ。存在していたのは、おれだ。 (J-P・サルトル,生島遼一(訳)『悪魔と神』新潮社,1951,267頁)

というようにその著作の中で述べている。いみじくもこれまで述べてきた人間存在間でのまなざし論とは(ここでは未述)、神の不在の中でこそ行われる。この引用からも暗示されていることではあるが、神というものを、即自というものにおいてではなく、私たち人間存在というものをその本質として提示してくれるものである。しかし、神というものはない。不在である。
 それゆえ、サルトルは、人間存在を信じる。この『悪魔と神』でのニヒリズム的な状況を克服するためのサルトルの人間存在論。それは、先に挙げたフィヒテでの価値観のコペルニクス的展開とでもいう状態が挙げられる。ただ、一見コペルニクス的に正反対にその神という概念が捻じ曲げられてしまったようにも見えるサルトルにおける対自‐即自の神性というものは、実は、まさに本来的な宗教観を指しているといえる。神というものに対しての表象は、しばし絶対者であったり、超越者であったりというように言い表される。絶対であり、超越をするものならばそれを感じることは不可能ではないだろうか?
そのことは、次の例を見ることでなお、理解されうるであろう。
*これは、次のサイトからの引用である「インドの6人の盲人と象,マルチメディア/インターネット事典,URLhttp://www.jiten.com/dicmi/docs/k2/14173s.htm 」

 南インドの海遊漁民タミール族の「6人の盲人が象を触って、それぞれ触ったところによって異なった全体像を想像した」ということわざで、米国の詩人John Godfrey Saxe(1816-1887)が現代英語に翻訳して、実際に触っても、全体を見ることができなければ、それぞれが触った部分から勝手に全体を想像することになり、理解は10人10色であるという「ことわざ」として世界中に知られるようになった。
 
というものである。神というものは、人間存在という盲人にとっては、象のようにその規模がまったくちがう故にそのあるがままの姿を捉えられない。逆にいうなら、捉えようがないものであるから、途方にくれるというのは、人間存在にとって、あるべき姿なのである。たとえそれがニヒリズム的であったり、無神論的な態度あっても、それは、フィヒテがいうがごとく、たとえ、理論的な信仰にとどまるにしても、自然な形で、「神を心で認めている」というような、逆説的でありながら本来的であるという姿となるのである。ましてや、私たちは、当たり前であるが、宗教的な意味での神というものを、この象の例に比するまでもなく、触ることなどできもしない。

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