本の読み方の設計図。

本の構造を明らかにしていく。
論拠・主張

論証=事例、引用。

オリーブ茶 : 松山情報発見庫#373

2005-12-31 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
31日から、1月3日まで高松の実家に帰っていました。
そこでこんなものを発見しました。
買ったのは、シンボルタワー(高松駅のすぐ近く)内のコンビニ。

地元オリジナル商品代好きな僕にとってはとてもわくわくしつつ買ってみました。
ちなみにここからこれネットで注文できるみたいです。

オリーブ茶ってどんな味だと思います?
最初は、オリーブ油の感じからして甘いのかなと思ったのですが、
少し苦くていかにも体によさそうな味がしました。
苦めのお茶が好きな方には抵抗ないと思うのですが、僕の姉はまずがっていました。
ちなみに、あのスパスパ人間学でもオリーブ茶は特集されたようです。
カルシウム、鉄分、トコフェロール(ビタミンE)の量は他のさまざまなお茶の中でも群を抜いているようでやはり健康にもよいとのこと。
機会があればどうぞ。
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就職活動必勝6ステップ!!(2) : 松山情報発見庫#372

2005-12-30 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
子供を就職させる本―親が読む子供のための就職ガイダンス

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④知っている企業の書き出し作業をしてみる。(33-34頁参照)
→これは、③の価値観のものさしが出来たことに加えて、会社判断へのものさしを作るための作業となる。
まずは、素直に知っている、興味のある会社を50社書き出してみる。
最初は、そんなに書き出せなくても、新聞、テレビや電車の中吊りなどいろんなところで興味を向けることにより少しずつ知っている会社が増えてくる。
その中で気になる、興味のある会社に共通のものを考えていく。
その事が、後に志望動機を考えることにつながっていく。

ここで重要になるのが、親の勝手な希望による押し付けではなくて、子ども自身が自分の力で情報を収集していくということである。

⑤子供が決めた就職先選びを軽はずみに否定しない。(84-85頁参照)
子供は思っている以上に親の意見に左右されてしまうもの。

⑥コミュニケーション能力を磨くには?(88-89頁参照)
コミュニケーション能力とは、著者の考えでは、
「相手の言葉からその背景にあるものを想像して、臨機応変に対応し、相手が欲しい答え、あるいは行動を起こせる能力」(同)のことのようだ。
この能力を磨く事で、先も述べた志望動機を述べる力を磨く事にもつながるし、面接そのものの技術向上にもつながる。
どういうようにすればあがるか、それがこれまでの①~⑤のことを一緒にこなしていくことも1つの手であろうし、この本の問題意識の根底である親子の会話の復権ということでもあるのだろう。

〖志望動機作成のポイントと面接での話し方のポイント〗(96ページ参照)
これは、さっきの価値観のたな卸しの部分と同じく3つの軸で考えて話すことが肝要となる。
「事実・情報」、何をしてきたかという事だけではなく、それをしてどのような「感情・感想」をいだいたか、得たか。そこから得たことからの「計画・未来」はどのように就職後にかしていきたいか?
この3つの軸で語る事で説得力が増すということだ。
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就職活動必勝6ステップ!!(1) : 松山情報発見庫#371

2005-12-29 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
子供を就職させる本―親が読む子供のための就職ガイダンス

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この本では、親を「子供にとって一番身近な人生の先輩」(9頁)で「最高のキャリアカウンセラー」(11頁)であり、「究極の就職サポーター」(同)であるというように位置づけている。
それでは、このようなすばらしい位置づけにある親がどのように子供の就職活動に付き合うことで子供がよりよい就職活動を成し遂げる事が出来るのだろうか?
この本を読むと、おそらく、ほとんどの親がまずい就職サポートしかしてこなかったということに胸を打たれるだろう。

まず、
①働くことを早い段階から意識づける。
:「将来どんな事をしたいか?」ということを問う習慣を小さなころから持つとよ い。
 「なぜ働かなければならないの?」ということに対してきちんと答えてやる。著者は、「生きるためにはお金がいる。そのためには仕事をして自分でお金を稼がなければいけない。だから、働かないという選択はない」(17頁)ということをいう。なかなかシンプルでありいいと思う。

②親が子供に仕事のことを話してやること。(27頁あたり参照)
:これは、子供が仕事についてこれまでの人生の中か出会うどのことより未知の部 分が多く恐怖心を抱いてしまうことを防ぐためだ。
 具体的に自分がいましている仕事のことをどんなときにやりがいを感じるかとい うことも交えて教えてやるのが大切。
*注意点としては、
 「子供の前では仕事の愚痴や悪口はいわない。それは、親だけの場所でしてください。それよりもっと、親自身の経験から、仕事の面白さややりがいを伝えていってほしい」(79頁)ということだ。
どこの家でもとまではいわないが、結構仕事の愚痴を子供の前で垂れ流してしまっている親は多いのではないだろうか?

③価値観の洗い出し「棚卸し」をしてみること。(29-30頁,40頁,103頁参照)

これは、
過去:「今まで一番長く続けれた事ってどんなこと?」
   *子供のころになりたかった夢をリストアップし、なぜその夢だったのか、なぜ諦めたのか、ということを探り、その共通の部分からやりたい仕事を浮き彫りにする。

現在:「何をやっているときが、一番楽しい?」
   「どんなことに夢中になれる?」 

未来:
『業界、会社の規模、給与、通勤エリア、尽きん時間、休日・休暇、残業の有無について「望ましい条件」をまず書き出して、優先順位をつけてもらいます。次に「譲れない条件」つまり最低ラインをその脇に書いてもらう。』(103頁)
「一年後の社会人になったとき、どう働いているか?」(同)もしくは、どういうように働いていたいかということを考えてもらう。

このように、3つの時間軸で、考える事で、まずは就職活動へのものざしを形作るということだ。

-------------
以下(2)へ   
   
④知っている企業の書き出し作業をしてみる。


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就職のことハジメ : 松山情報発見庫#370

2005-12-28 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
子供を就職させる本―親が読む子供のための就職ガイダンス

メディアファクトリー

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実はこの本、僕が去年の今頃親に自分が就職活動をするに当たり呼んでもらった本です。
今日は、僕の大切な人がもうすぐ就職活動をするという事もあって気になってこの本を今度は自分で読んでました。
この本は、一様親が読む本という事になっていますが、学校の先生やキャリア教育に携わる方全般にとても役立つ内容の本だと思います。

この本の著者の問題の起点(ルーツ)は、今の10代20代に特有(?)の
「やりたいことが見つけられない。だったら就職なんてしなくてもいいと思う」(8頁)という就職観をどうにか助けたいという思いだ。
なぜ助けたいと思ったのか?
それは著者がキャリアカウンセラーとして多くのフリーターを幾年か経験してきた若者をみていて彼らが切に、正社員になることを望んでいながら、いわゆる「履歴書を汚した」ことにより、その望みがほぼかなえられないという実情をみているからだ。

著者は、いきいきと将来働くために必要なことして、「どんな仕事がしたくて、今の自分には何が出来て、どういう働き方をしたいのかを『自分の言葉で語れる人』」(74頁)である事の大切さをあげている。
この前提として、多くの就職活動を始める人、もしくはその親がわかっておくべき就職活動の基本の基本として企業がどのような流れで採用活動を行っているかという事を示しておきたい。
(本書100-101頁より)
〖就職活動開始のための準備〗
「どんな人生を送りたいか」と「就職のための条件整理」を検討
  ↓↓↓
〖自分を客観的に理解〗
自分の「強み」と「弱み」を洗い出す。
「強み」は強化し「弱み」は補強。
  ↓↓↓
〖会社・業界研究〗
志望企業と業界の情報を集め、比較検討する。
  ↓↓↓
〖仕事内容と職種研究〗
 どういう仕事をしたいのかを探るために情報を集め、比較検討する。
  ↓↓↓
〖エントリー〗
インターネットを通じて、企業に資料を請求する。 
*このエントリーというのがなかなか、学生に理解されづらいところだ。
 ひとことでいえば、「御社に興味があります」と意思表示をするステップ(106頁)ということだ。つまり、これをしたから受けなければならないということではなく、 就職活動を始めるにあたり最初で「よーいどん!」の合図のようなものだ。
  ↓↓↓
〖セミナー・会社説明会の申し込み〗
インターネットなどを通じて、申し込む
  ↓↓↓
〖筆記試験〗
一般常識、適正試験、作文などが行われる。
  ↓↓↓
〖面接〗
一般的に4~5回行われる。
個別面接と集団面接がある。
  ↓↓↓
〖集団討論(グループディスカッション)〗
面接試験の1つで最近増えてきた選考法。
  ↓↓↓
〖最終面接〗
役員や部長クラスが行う最終確認。
  ↓↓↓
〖内定通知〗
通常、1週間内外に文書で伝えられる。

それでは、次にこの本のメインの部分でもある親が、周りが就職活動をする人にどうサポートを出来るかという部分についてみていこう。
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NIRVANA② : 松山情報発見庫#369

2005-12-27 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
In Utero
Nirvana
Geffen

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written @ TAKAMATSU 2006 01.01
こないだ買ったのが良かったので続けて買っちゃいましたリリースされた順序としてもこないだのNever Mindがリリースされた後の2年後にこのアルバムが出た模様。
カート・コーバンが前作の売り上げが驚異的なもので急激に変わった周囲の状況により精神的にけっこうきつい時期の楽曲のようでそういったことがモロに垣間見える作品である。
特にガツンとかっこいいのが、7番VERY APEだ。
歌詞は、
I am buried up to my neck in contradictionary flies
I take pride as the king of the illiterature
I'm very ape and very nice

If you ever need anything please don't hesitate to ask someone first
Out of the ground
into the sky
outo of the sky
into the dirt

まだまだ、聞いていないよい音楽は無限とある。
そんな気になってくる今日この頃だ。
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希望 : 松山情報発見庫#368

2005-12-26 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
実存から実存者へ

筑摩書房

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written @ TAKAMATSU 2006 01.01
『実存から実存者へ』(完)

レヴィナスは、人生について実存主義的な視点から、
『「ああ、明日もまた生きねばならぬのか」、無限の今日に内包された明日。不死性の恐怖、実存のドラマの永続性、その重荷を永遠に引き受けなければならないという定め。』(133頁)
というように述べている。
ここでは述べられてはいないが、人生というのは、永続性、無限の今日というとりもちに内包された明日という形で訪れるという特性の中にまた同じく、明日にでも終わってしまうかも知れず、今この瞬間にも終わってしまうかもしれないという一種の恐怖を内包している。
それゆえ、これまで述べてきたように、自我の悲劇性というのは、そのものの持つ悲劇性に加えて時間というものによるアンガージュマン(拘束)により時間性によるアンヴィバレントであり、二重性を持った悲劇にも襲われることとなるのである。

レヴィナスは、このことに関して〈私〉と時間(192頁)で、
『〈私〉は、同一的な許しを得ていないもの-単なる化身、なれの果て-として次の瞬間に入り、新しいだけでその新しさがいっこうに〈私〉を自己への繫縛からは開放しはしない、そんな経験をするというのではなく、〔瞬間と瞬間との〕空虚な間隔の中で〈私〉が死ぬことが新たな誕生の条件となるのであって、〈私〉に開かれる〈他所〉がたんたる「転地」ではなく、「自己の内とは違うところ」でありながら、かといって〈私〉は非人称の境地にも永遠の境地にも落ち込むことのない、そういうことなのである。時間は任意の〈私〉の前に列をなす瞬間の継起ではなく、現在と等価のほかならぬ〈私〉が現在において表明する現在のための希望、その希望に対する答えなのである。』
というように述べている。
これは、彼が希望について、
「希望を抱くとはしたがって、償いえないものの償いを希望すること、したがって、〈現在〉のために希望することである」(191頁)、「未来とは、何よりもまず現在の復活なのではないだろうか」(192頁)と述べていることつながる。

わかりやすい例でいうなら、宝くじの例がいいだろう。
当たると期待し、当たることを疑わず、大金をはたいて宝くじを買う。抽選日の翌日に新聞を見る。当たっていない事に対して絶望する。
過去の答えが、未来で、過去に希望を抱いたことの結果が帰ってくるのが未来であり、現在である。
そんな賭けの連続が人生である。
ならば、とはいわないが希望を持ってそれながらも、絶望をする。
そしてまた希望を持って、結果に忍従をする。
そうやって強くなっていくのが人生なのかもしれない。

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NIRVANA : 松山情報発見庫#367

2005-12-25 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
Nevermind
Nirvana
Geffen

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さっきの音の仲間にて購入したCD。
前から買ってみたいとはずっと思っていたもののどうしても新しいものにばかり目が行ってしまい買いそびれていたもの。

聞いて、まず思ったこと。
14年も前の音楽だとは思えない。
14年も前の人たちの格好だとは思えない。
カート・コーバンにしてもほかのメンバーにしても今普通にいても全然違和感がない感じのファッションスタイルだ。
音楽に関していえば、違和感がないどころかむしろ新鮮な感じすらする。
全体的にすごくかっこいい音楽だが、
特に7のTERRITORIAL PISSINGと8のDRAIN YOUがかっこいい。
7の歌詞は、
When I was an alien,cultures weren't options
Never met a wise man,if so it's a woman

Just because you're paranoid doesn't mean
They're not after you

Gotta find a way when I'm there
Gotta find a way,a better way,I had better wait

単純にかっこいいと思う。
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音の仲間 : 松山情報発見庫#366

2005-12-24 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
ひさびさに町ネタで。
今日紹介するのは、中古CD,DVD,ゲームを買い取り販売している「音の仲間」。
店舗は2箇所あるようで、松山市朝生田と高砂にある。
僕がよく行くのは、高砂のほう。
営業時間もam1:00までとなっているので、夜中にふと新しい音楽に飢えたときによく行きます。

お勧めの買い方は、僕の場合は、ヴァン・ヘイレンとか、ニルヴァーナみたいに買いたかったけど、あえて買ってなかったものを中古で買ったりだとか、掘り出し物を探す方法。
お近くの方は意外な穴場だと思うのでいちどお立ち寄りを。
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夢のニート : 松山情報発見庫#365

2005-12-23 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
ニート ひきこもり/PTSD/ストーカー

新書館

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かなり、長くなってしまうが、議論がもりあがればと思うところもあってすべて引用しますね、

「『ニート』を生むのは、絵に描いた餅を求め続ける『自己実現病』である(小見出し)
 我々の診療所の外来にやってくる思春期の患者のほとんどは、ひきこもったり、家庭内暴力を振るったりと、境界性人格障害または、自己愛性人格障害と診断されるような若者たちである。そんな彼らには共通するところがある。
 みな同じように、自己実現ができていない、アイデンティティが見つからない、という苦悩をもっているのである。
 誤解しないでいただきたいが、彼らはこれからどんな勉強がしたいのか、自分は将来どういった人間になりたいのか、その場合は、どのような職業に就くべきなのか、ということについては何らかの願望、または意志を想っている。
 しかし、それらすべてにおいて、とうに挫折してしまっているのである。
 ただ、学校にも行かず仕事もしないでぶらぶらしているので、『いったい何がやりたいのか』と尋ねられると、『別に』という返事をするしかないのである。我々もしくは親御さんたちは、彼らに面と向かって、その『別に』のもう一歩先に踏み込まねばならない。
 たとえばこんな問いを投げかけてみる。
『もしここにドラえもんか、あるいはハクション大魔王がいて、あらゆる希望をかねてくれるとすれば、君はいったい何になりたい?』
 典型的な答えは二つ。ひとつは『芸能人になりたい』『音楽がやりたい』というもの。こちらは華やかな芸能界を目指すものである。もうひとつは『F1レーサーになりたい』というもの。こちらはスポーツ界全般で、男性に多い回答である。要するに、どちらもスター願望である。
 私は、この二つの返答以外あまり聞いたことがない。かつてのように『博士や大臣になりたい』という人はいない。いるのかもしれないが、そんな彼らが外来に来るとすれば、博士か大臣になろうと努力してそこで燃え尽きてしまい、思春期挫折症候群になってからだろう。燃えついたその人に『何になりたいか』と尋ねれば、『別に』と答えるはずだ。あるいは『芸能人になりたい』と答える可能性もある。若者は、芸能界のことを、地道な努力なしに才能だけで渡っていける世界だと考えているケースが多いからである。
 しかし、なぜ若者は自分に才能があると思い込むのだろうか。才能の幻想に取り付かれているというのは、自己愛性人格障害の診断基準のひとつなのである。
 そこで頭を抱えざるを得ないのは、最近やたらと若者に『夢を諦めるな、夢を追いつづけろ』と『自己実現』を説くカウンセラーや精神科医が追いことである。いや、カウンセラーに限らず、テレビ番組の全体が、才能の幻想、成功の幻想に溺れているといっていい。」(44-45頁)

というのが、見てみて欲しい部分だ。
「本当の自分」「あるべき自分」「夢」というのをあらかじめ想定してしまうことの自己実現病、ようするにこんなことが小田氏はいいたいのだろう。
自己実現できなかったらそれを人格障害といってしまうのは少し残酷すぎる気もする。
今の若者を客体化するのもどうやら間違っていると思う。
もし仮に日本人の精神史というのが策定されるなら、いまはおそらく過渡期に位置づけされるのであろう。
「自分探し期」とでもいうといいのだろうか。
本来は、自分というものがこうありたいと思っていても、社会の中での自分に耽溺してしまい、「こうありたい自分」は「こうありたかった自分」へと後退していき、ある日気づくとそれが、今の自分になっていたり、かけ離れていたりというのが自然であったのだろう。
それが、思考に自己実現という新たな隙間(概念)が中途半端に入り込んでしまったがゆえに「こうありたい自分」というものが過去の日本人に比べて濃密に取り付くようになってしまった。(cf.存在論的区別)
それゆえ、本来的でないにせよ、社会の中では本来的であるとされる状態に耽溺できずに、「自分」の呪縛にとらわれてしまうということになるのだ。

ここで、先の両親とのコミュニケーションのことへと議論は戻るわけだが、コミュニケーションとは、受けつつ発するということである。つまり、受けつつ発するということのバランスが取れていないゆえにコミュニケーションが発達しにくくなる。
受けるだけになったしまったり、発するだけになってしまったり・・・
受けたものを「こうありたい自分」に付与して膨張させたり、削除させたり、そんなことを無意識、もしくは顕在意識でおこなう、そのことにより、過去の日本人は「自分」を忘れることができたのであろう。
もっと正確にいうなら、そんなこと考える必要がなかったということだろうが・・・
小田氏が引用文の中で述べているように、アイデンティティー=自己同一性というのも、当たらし概念ゆえにいまの日本人の精神になじんでいないといえる。
なじんでいないゆえに、考えてしまう人にとっては、同一であらないといけないという考えを生むことになる。
考えない人にとっては縁遠い話ではあろうが・・・
つまり、自分が必要と思ってしまうという思考の新鮮さゆえの落とし穴にはまってしまうということだ。
本来なら、というか、これまでの日本でなら、忍従することで、もしくは忘れることで自分というものはその場的に発生していた、もしくは振り返ってみれば発見されていた。

つまり、自分というもの、もしくは、夢というものをあらかじめ想定するというのは、あまりに新鮮なゆえにいまの日本人の若者を苦しめてしまうわけだ。
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フロイト的ニート分析。 : 松山情報発見庫#364

2005-12-22 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
ニート ひきこもり/PTSD/ストーカー

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さて、これまでニート、ひきこもりの根っこになると小田晋氏がみなすところを見てきたわけだが、どのようにニートというものが作られているかということを彼のフロイトの精神分析を基にしていると思われる理論をたどることで見てみよう。
「子供は一般に、成長過程において、同性の親に自己を同一化し、異性の親に愛情を抱くが、虚勢不安によって親以外の異性に愛を求めるようになる。その過程で学んだ両親の権威が『超自我』として取り入れられるわけだがこの段階で父親への自己同一化がうまくなされないと、『超自我』の形成ができない。『超自我』が形成されないと、エス(イド)の欲望が社会化される契機もなくなり、その結果『超自我』の機能の内面化がなされず、社会的行動基準の受容が不可能になってしまい、対人的・対社会的な耐性の著しい欠如をもたらすことになってしまう。要するに忍耐することができない、堪え性のない人間になってしまうわけである。」(70-71頁)*同内容でより詳しいフロイト理論に関すると思われる解説が32-33頁にてある。

つまり、小田氏は、現代日本においては、父親の権威が失墜した結果エディプスコンプレックスというものが正常におきず欲望が社会へ、外へとうまく向かない。もっといえば、両親とのこのフロイトのいう性器期(32頁)での、コミュニケーションの欠落が若者を不完全な社会化の状態にとどめてしまうという。
父親の権威が落ちてしまったゆえに、社会的コミュニケーションの不得手な若者が多く出てきてしまうまさにしっくりくる理論だとは思う。
しかし、自分もえてしてフロイトの理論で言うエディプスコンプレックスはなかったがゆえに賛同しかねる部分はあるが、理論の筋としては肯定できる部分も多いだろう。
「両親とのコミュニケーションがうまくはかれないゆえに、社会へのコミュニケーションが不全になる」
このように解釈すればフロイト的な理論も十分に今風に応用できると思う。

次に、この理論をもう少し推し進めた結果として出てくると考えられる今話題「自己実現」との関連で考察してみたいと思う。
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ニートの根っこ。 : 松山情報発見庫#363

2005-12-21 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
ニート ひきこもり/PTSD/ストーカー

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なぜか、毎年こんな時期にきまっておそらくアレルギー性の鼻炎になります。しかも受験のころから・・・
鼻炎になる時期までひねくれているとは・・・
そんなこんなで鼻水がひどくてしんどかったりで更新をしばらくサボっておりました。
これからは、きちんとするぞい!!

さて、さてこの本では、斉藤環氏などに代表されるようなひきこもりのすべてが悪ではない、理解を示すべきだという論調にまっこうから反対するという感じの本だ。
ひとことでいえば、すべてがすべてというわけではないが、ニート、もしくはひきこもりという状態の人々には「心の病」(28頁)を中核に持つ人もいるということだ。それがあるときには、犯罪につながったりということもあるというのが著者の主張だ。
厳密に定義するほど私に知識はないが、「心の病」の一歩手前として「人格障害」(54-55頁)という状態があり、ひきこもり、ニートのひとには、うすうすとこの傾向があり、上で述べたようなよくない状態につながることもあるという。
ちなみに、「人格障害」(以下分類は同ページより抜粋)は、

A群 奇異もしくは風変わりな人格障害
妄想性人格障害
分裂病質人格障害
分裂病型人格障害
B群 劇的、感情的、もしくは情緒不安定的な人格障害
反社会性人格障害
境界性人格障害
演技性人格障害
自己愛性人格障害
C群 不安で恐怖感の強い人格障害
回避性人格障害
依存型人格障害
強迫性人格障害
というようにわかれるようだ。

これらのような、いわば不完全な状態なヒトが人格障害という分類に属するようになるわけだが、フーコーが『狂気の歴史』で述べていることを引用するまでもないが、不気味な気もする。犯罪を犯すような(犯してしまった)やつは確かに障害という分類に入っても仕方ないかもしれないが、純血主義というか、完全なる人間というか、正常な人間をあらかじめ想定しているというのはどこかナチ的ないやな気分だ。
小田晋氏の問題提起自体は、上のような感じでなかなか興味深い。

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存在驚愕 : 松山情報発見庫#362

2005-12-20 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
エリクサー
エリクサー
ソニーミュージックエンタテインメント

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オーストラリアを代表するバンドのひとつエリクサーのアルバム。エリクサーとは媚薬のこと。
この音楽を聴いて思ったのは、
自分があるところのものを気づかされたということ。
昔、思い出してみれば大切な人に会うその前は、
ひどくいろいろなことに恐れ、自分にひどく萎縮していた気がする。
そんなことをふと思い出させてくれる音楽。
これは、媚薬かどうかはわからないがとても美しい音楽だ。
まさにクリスマス向けといった感じだろうか。
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思想への挿入 : 松山情報発見庫#361

2005-12-19 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
Adieu Tristesse
Arthur H
Polydor

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ARTHUR H(アルチュール・アッシュ)、セェルジュ・ゲーンズブールの後継者としても誉れ高い彼。
正直いろいろな音楽を聞いてきたが、彼の音楽ほどフランス的というか、かっこいいものは聴いたことがない。
脊髄を震撼させるような音。
歌手の内容にはあえて突っ込まないにしても、難解な思想書を読む以上に、生(もしくは性)というもの、思想というものそのものにあたかも性器を挿入するように快楽を体中に満たさせてくれる。
ひとことでいえば乳房の滑らかさを髣髴とさせる音楽とでもいっておこうか。
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人間存在の悲劇 : 松山情報発見庫#360

2005-12-18 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
実存から実存者へ

筑摩書房

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ここまでで実存者とは意識であるということを見たわけだが、実存者は「意識であるがゆえに同一的」(182頁)であり、これが、いわば自我ということになるという。この自我というのは、奇妙なことではあるが、茂木健一郎氏のところで述べたことと酷似するのだが、
「世界内での私たちの生を構成する意識の流れの中で、自我は生成の変化に富んだ多様な相を貫いて、何か同一のものとして維持されている。生が、私たちの習慣や性格を変え、私たちの存在を形づくる内容の総体を不断に入れ替えて、私たちにいかなる痕跡を刻もうとも、一つの不変項は存続する私たちの実存を綾なす多彩な糸を互いに結びつけるため、そこに<私>が残存する。」(181頁)
というような状態として自我という<私>が記されることなる。

また、この自我の同一性というものを保つのが、レヴィナスによると<知>の概念であるという。「知とは、優れて外部にとどまるものとの関係、あらゆる関係の外にあるものとの関係であり、行為者を自分の遂行する出来事の外に維持しておく行為」(181-182頁)であるという。その時々のアンガジェに対して<私>が同一性を保てるのは<知>があるからである。
さらに、レヴィナスの悲劇性というのは、こうやって考えてみるとサルトルの対自-即自という概念とも似てなくはないのだが、ここに自我に対して対自という概念も入り込んでくる。
自我はサルトルのいう即自とはまったく異なるものである。即自は同一性でもないし、「ある」ものではないからだ。
さて、レヴィナスは、「自我であるということは、単に自己に対して対自的に存在するということではなく、また自己と共に存在するということ」(184頁)でもあるという。

彼のいう悲劇性とはこのことに端を発することとなる。
これは、レヴィナスが
「主体の孤独とは、一存在の孤立、一対象の単一性以上のものである。それは言ってみれば二人であることの孤独なのだ。この自我の他在が、自我に随伴する影のように駆けめぐる。憂いの二重性は、私たちが世界内で知っている社会性、そして自我が憂いを逃れてそちらへ向かう社会性とは異なり、また自我を自己から引き離す<他人>との関係ともまた異なる。この二重性は逃亡のノスタルジーを呼び醒ますが、いかなる未知の空も、いかなる新天地も、このノスタルジーを癒すにはいたらない。なぜなら、旅にあって、私たちは自分自身を運んでいるのだから。」(185頁)
というようなことである。

このことは、今に渦巻く自分探しとは少し角度はちがうが「自分の悲劇」と私が思い描いている状態に近い。
この文脈でいうなら、「自我の悲劇」とでもいえるだろうか。
もちろん自我というを否定するわけではないが、自我というのも、自分というのも、確固として存在するものではないはずである。
それは、あくまでもその時々の想いであったりするわけだが・・・
レヴィナスのいう人間存在の禍悪性というのも案外自我を<ある>として把握してしまうことにより生じているといえる。
ここで、言い残しておきたいのは、即自は自我ではないということである。
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人間存在のドラマ 実詞化=イポスターズ :松山情報発見庫#359

2005-12-17 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
実存から実存者へ

筑摩書房

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さて、これから「実詞化=イポスターズ」という概念いついて詳しく見ていこうと思う。
この言葉は、もともとはギリシア語の<hypostase>のことであり、「下に身をおくこと、下に位置する(基礎となる)こと」(204頁,西谷修氏の解説より)で、「みずらの外に出ることを至高の自由とし、その栄光と悲惨を引き受ける」(213頁)とする「脱存主義」(同)(=サルトル、ハイデガーなどに見られる考え方をさしていると思われる=宗田)に対して、「逃れえないみずからの存在をその下に身をおき担いとって立つレヴィナスの主体」(=担在主義)(同)というレヴィナスの独自性をあらわす概念ということだ。

この実詞化=イポスターズという概念を理解するためにはまず、先にも述べたレヴィナスにおける人間存在のあり方というのに立ち戻らなければならない。
レヴィナスにおいては、人間存在は、「実存するもの」と「実存」というように捉えられている。つまり、実存ということ自体では、人間存在はいわば、実存感というか、実存の感覚を味わうことができない。
このことが、おそらく先に述べた存在の禍悪性とでもいうものと関連するのだろう。当たり前といえば、当たり前だが、それがプラトン『饗宴』以来の他へ求めるといった他への善き求婚とでもいうべき状態ではなく、存在そのものが悪性であるゆえに・・・というようになるのだろう。この点に関してはレヴィナスについて詳しく見ていかなければ明らかにはされないだろう。

さてさて、
レヴィナスは、この実詞化=イポスターズについて、
「動詞によって表現される行為が実詞によって示される存在となるその出来事を指し示していた、<実詞化=イポスターズ>という言葉を再び採用することにした。<イポスターズ>、実詞の出現、それはたんに新しい文法的カテゴリーの出現ということだけではない。それは、無名の<ある>の中断を、私的な領域の出現を、名詞の出現を意味している。<ある>の規定の上に存在者が立ち現れる。」(174頁)
というように述べている。
これまで、いくばくか人間存在というものに思いをめぐらしてきたものにとっては、あくまでもこれは、答えではなく、路でしかないが、えらく刺激的な事実のように思える。
これをただ概念として捉えるならともかく、これを日常という中に移し変えて考えるならば、先に述べた社会性の樹立の必然性という議論からも踏まえて、存在しようという意志(実生活における実詞化とでもいうべき状態)によって、私たちは、無名でなくなるということである。つまり、存在への意志ということを指し示そうとすることで、個別性が色濃く示されるのではないかということである。

さらに、この<イポスターズ=実詞態>とは「意識」(175頁)のことであり、実存者とは意識のことであるという。
ここにレヴィナスのいう実存者というのは、意識ということが発見されたわけであるが、彼が存在の禍悪性というのをもとに発しているように、ここから問題がまた生じることとなる。

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