本の読み方の設計図。

本の構造を明らかにしていく。
論拠・主張

論証=事例、引用。

小説068 : reProfesional #140

2008-11-30 01:24:59 | reProfesional
chapter#68 創造

醜さという試練を背負って生きていく人間。意図も判らず生きている人間。だけど、不幸であってはいけないという倫理善を背負った人間。
自分だけが幸福であれはしないし、そうあってはいけない。他者もともに幸福になれるよう、相手の不安定さを自分の不安定さを度外視して、受け入れていかなければならない。

人間はともに、創り出していかなければならない存在である。
自分の中に、不安定さがあるように、相手の中にも、同じか、それ以上に不安定さ、弱さはある。だから、相手を傷つけたり、崩壊させたりということは、驚くほど容易であるし、なぜか神々は人間に、他者とともに幸福を創造、構築する能力より、崩壊する能力を優秀な形で与えられた。

目に見えない相手の意図。かけがえのない不安定な尊厳。ただ、生きる。ただ、触れ合う。そんな中で、不安定な大切なものを目に見えない形で交換し合っていきあっている人間。
いともわからずに、この牢獄に投げ込まれた人間。せめて、おなじ、醜さ、弱さを背負った同胞として、幸福を構築していきたい。

なんとも、精神に亀裂をもたらす議論ではあるが、かけがえのない不安定な尊厳をいかに、攻撃性を制御し、他者とかかわりを持つか、これが、共他存在としての人間の最大の課題であるといえる。

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小説067 : reProfesional#139

2008-11-29 01:10:43 | reProfesional
chapter#67 神々からの試練

人間は、平等になんとも醜い。
他者の醜さだけなら、まだしも、自分自身もおどろくほどに醜い。精神、内面的醜さもそうだが、外見的醜さもすさまじい。
神々からの試練であり、ご褒美でもある醜さ。
醜さに耐えられないから、美的側面を強化したいと思い、美学が追求され、不自由さに耐えられないと思い、倫理学が、哲学が良心をもった人たちの間で、発達した。

醜さ。それは、すさまじい虚無感を呼び覚ます感情でもあり、それを克服したいというプラスの波動をよびさます一因ともなる。
どうして、醜さを与え、それを克服するように仕組まれているのか?
だれにもわからない。外面的にも、精神的にも、潜在的に無力さを背負った罪人的性質のある人間。聖書の議論をさかのぼるまでもなく、試練を背負い、生を与えられた人間。

意図こそわからににしても、神々という看守の大いなる実験を目的もわからずに生かされている人間。埋没すれば、そこには、崩壊、滅びがまっているだけ。
無力さ、醜さを嘆くより、それを改善、克服したいという本性もある人間という健気な存在。

不幸でいるより、幸福でいたい。
そんな思いがあるからこそ、共他存在としての議論が必要になってくる。

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小説066 : reProfesioal#138

2008-11-28 00:45:26 | reProfesional
chapter#66 倫理善

生きていく上での自由。
思った以上に自由は制限されるべき概念として、社会というコミュニティの中では、ある。
自由というのはひとつの倫理善の中で、集約される方向性を持った不自由として、立ち現れる。
倫理善はひとつの生の基礎として、たち現れる。
それゆえ、けっして、人間という存在はいわゆる自由な存在として社会の中で存在されるべき存在ではない。

倫理善という社会的資本の中でいかに不自由さを制御し、自由を制御し、あるべき姿を思い描くかということが重要になってくる。倫理善というのは、けっして複数の回答があるわけものでもない。イデアという使い古された概念に頼るまでもなく、目指すべき方向性というのは、本来は備わっている。
その本来備わっている善という方向性こそが、追求すべき不自由ではあるのであるが、だれも、その本来性を忘れてしまっている。

人間はほうっておくと、案外自らを必死で努力をして、非本来性の不幸の方向へと自分を導いていこうとするものである。詩的感情が沸き起こり、非本来性へと身を安直に任せてしまう。
善であらなければならないという不自由さから、開放されるために、人間は時に、私的感情という冒涜にみをゆだねようとする。

不自由さとは、個人レベルにおいて、いきとしいける人間に本当はすべて備わっているべき、義務である。

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無力感 : poetry#2

2008-11-27 00:31:48 | poetry
不幸なセックスに似たもの。

すべて、壁にぶち当たっている。最初から。
何も生まれない。
ただただ、失われていくものだけが増えていく。
つまらない。
生きるってことは、ほんとうは、壁だらけ、一歩あゆみを進めるならば、
すぐに壁とか、穴だらけ。
無理をして、積極的な思考をなんとか、維持しようとする。

なんて、気持ちいいんだ。
不幸なセックスでのオルガズム。
クライマックスの後には、すべて失われる。
ボクは、視覚的効能の有用性を信じていた。
でも、すべて失われるべき、香りのように、ただ、ただ
オーデコロンを押し続け、香りは拡散しては消えていく。

必死で届かない下をひだの中に潜ませていこうとする。
収縮するひだ。
無力に舌との連動を楽しむ。

疲労感だけが漂うクライマックスの後。

すべての壁は崩れ去り、穴の中の襞に収縮されていき、
自由な空間はどんどん奪われていく。

本性としての無力感。
視覚的効能は、失われ、感覚だけが研ぎ澄まされていく。
無意味なセックスに似た人生。
何も生まない。何も生まない。
ただ生まれていく、不幸な望まれない子供たち。
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硬直したもの : poetry#1

2008-11-26 00:26:09 | poetry
詩を書こうと思うこと。
そこはかとなく、ながれる思い。
具体的に表に出たいというわけでもなく、大きな主張があるわけでもなく、
なにか、うまらない何かが大きくなっていく。
逃げ出したいと思う感情。
逃げ場のない感情。
胃の中に穴があいていく。
感情の行き場のなさは、開いた穴をふさぐ物質として、新たに生じる物質を溜め込み、硬直していく。
潤いのない死に逝く感情のたまり場。

小説としてのプロットを持たない、行き場を失ったただ感情でしかない塊。
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小説065 : reProfesional#137

2008-11-25 23:53:45 | reProfesional
chapter#65 プライドと自己と他者と

言論の自由は保障されていたほうがいいし、自分のいう事にいちいち寄ってたかって批判をされたのでは、やるきをなくしてしまう。
でも、別に、ボク等は、やる気をなくすということを優先するために生きているわけでもないし、相手から、不幸にされるために生きているわけでもない、もっというと、相手を不幸にするために生きているわけでもない。

ここが難しいところで、自分を不幸にされるには、きわめて心外な気持ちを抱く多くの人も、相手を不幸にすることは、いとも簡単に、むしろ協力的に、行ってしまう。共他存在などという崇高な議論をする前段階として、ここに生じるプライドと自己、もしくは、自己のプライドと、他者ということの関係性をよく眺めておかないと、けっして有意義な議論の展開は出来ないのであろう。
プライドばかりの高慢な勃起した性器のような人間にまったく魅力を感じないのと同じく、プライドのかけらもない、こんにゃくのような人間にも、およそ魅力というものを感じることもまれであろう。

いいかえるなら、さきほどのitという議論とそのまま対置できることではあるが、itとは、いわば、プライドのことで、一人の人間と、一人の他者が触れ合う空間というのは、多かれ少なかれ、闘争的な要素を含んでおり、プライドとプライドをそれとなく、闘争的にならないような形で通常は、かわすというのが、コミュニケーションの原型ではないかと思う。
そのプライドをかけて相手が、投げかけているコトバに対して、ほうっとおいて、議論を無視したり、そのitを発展させないで置いたりすると、受け取る側からすると、いささか迷惑で押し付けがましく感じたりするようなことでも、発した側からすると、大きく損傷を伴うこととなる。

言論の自由は、保障されているのであろうし、保障されているべきだと思うが、闘争の自由などというやっかいなことは、むしろ制限されているだろうし、されているべきだと思う。コミュニケーションという原型に闘争的それがあるならこそ、丁寧に、私たちは自己開示を行えるようにならなければならない。
自己開平とでもいったほうが、語感はちかいかもしれない。
相手から、こちらにゆるやかに、もしくは激しく投げかけられるitとはどういうものなのか、それを見極めるために、自分のプライドの一種の形態として、それを平らなフラットな多くのものを受け入れやすい状態にしておくべきであろうと思う。

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小説064 :reProfesionale#136

2008-11-24 23:31:58 | reProfesional
chapter#65 責任と期待

without it.その状態をつくってしまうことは、誰かに対する裏切りである。
itを相手との間にほうりこむということは、そこに責任が生じるということである。これまでの思春期のように、自分の中でのitを探求しているだけでは、いつまでたっても、やっと陰毛が生えただとか、生えてないだとか、そういう議論に顔を赤らめている中学生のような状態とたいして変わらないということである。

さびしさとか、裏切りの気持ちを自分が感じる。
それは、きっと、自分が相手に対して、共存空間でこしらえたitというものをないがしろにしている結果生じているのではないかと思う。
itが生じない生き方。
そんな生き方というのは、根本的にはありえないのではあるが、何事にも関心を持たず、部屋に閉じこもり、自分で何かに寄生して、自分からは一切の価値観を発しないと強く心に決めた状態にでも徹しない限り、なかなか実現されないものであるし、実現するべき状態でもないのであろう。

少なからず、社会の中で生きていたり、自分を端に何かを実現しようという気持ちを持ってしまう以上、相互者との空間にitは放たれてしまう。相手が、自分に対して、itを放棄しているからというように感じてしまうのが、生きていくうえでの無責任な姿勢の現れの結果でもあるが、ボクは思う。
ボク等は、itを相互者との間に放ってしまった以上、itを成就させなければならないと。
itをほうっておくと、一見その結果が相手にあるように思ってしまう場合においても、その期待に応えようとしなかった、もしくは、その期待を裏切ってしまったということで、自分の中に大きく未処理のitが蓄積されていってしまうことになる。

itが絶え間なく、相互者との間に蓄積されてしまってしまう以上、ボクたちは、itを汲み取り、相互者との間に、itという期待を形にしていくことを責任として、背負うことになる。
少なくとも、一人で生きていくことが出来ず、人とかかわることを自然であろうと、結果であろうと、求めてしまってる以上、期待に応えていく責任がある。
ボクはそう思う。
必然的に、社会で生きていくということは、自分がかかわるすべての人を幸福にしなければならないというと荷が重過ぎるなら、不幸にしてはならないという責任があり、可能な限り、相互者の中に沈殿しているitを幸福な方向に持っていく努力を最大限しなければならないという義務があるということである。

生きるということは、気軽なことではない。
幸せを相互者の中で作り上げていくというおそらく、存在の根本の欠落してしまったワタシにとっては。

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小説063 : reProfesional #135

2008-11-23 23:18:11 | reProfesional
chapter#63 without it

「しょうもない」
ボクはそんなことを思ったり。
「異常な興奮を味わう」
ボクはそんなことを思ったり。
「つぶれそうだ」
ボクはそんなことを思ったり。
「理不尽だ」
ボクはそんなことを思ったり。

生きていくということは、多方面にいろいろな感情を撒き散らし、感性をさまざまなほうこうから、感じ取ったり、すくいとったり、相手に与えたりするということなのだろう。
it。
それぞれの人間が、自分の中での大切なと思うことを形にしていこうとする。
一人で生きているわけではない。
感情がわくということ、完成が発生するということ。
一人でボク等が生きているわけでないからこそ、いろいろな、事がまた起こったりする。

it。
は大きく現れたりするから、時々、ボク等はフシアワセな気持ちになったりする。
ボクの強みでもあり、欠点でもあるのは、大きなitをボクと相手の中に見出そうとしてしまうということ。
一人で生きてきたという変な勘違いがそこにあるのだろうから、相手にとっては、迷惑な話である。
いい意味でも、悪い意味でも一人の人間が何かを成し遂げようとするとき、相手に何かしらの負担をかけたり、期待を感じさせたりする。

でも、ボクたちは自分が相手に影響を及ぼしているということに目を瞑ろうとする。相手が勝手に感じて動いている。そんな都合のいい理論を打ち立てようとする。
でも、必然的に人と接することで、相手に期待を抱かせることで生じる負の感情は適切な方法で処理されなければならない。

自分を未熟な処女とか、道程という立ち居位置でおいている限りは、成熟した期待感を実際の成果として残すということは出来ない。


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小説062 : reProfesional#134

2008-11-22 17:33:49 | reProfesional
chapter#62 it

itというもの。
簡単に日本語になおすと、「そこ」「それ」「漠然とした何か大切なもの」というようにいうことができるだろうか。
itが何かわからない。だからこそ、こうやって、なにかしら、生きていこうとする。これまでの第三部までは、ある程度の交錯はありながらも、この自分の中でのitというものをなになのかということを明らかにしようとしてきたといえる。

itは自分と、他者の中に両方にある。第四部の序章で明らかにしたかったことは、自分と他者が双方から、itを明らかにしようと躍起になると、そこに衝突が起こるであろうということ。
itを明らかにしようとするという、もしくは、itがそこにたち現れようとしたとき、なんとも言いがたい、不気味な負の感情がわきあがってくる。

できれば、その場から逃れたい。そんな感情だろう。
未来が見えない人間といえども、人間もある程度は、itが何かくらいはわかっている。だからこそ、itをどうみるかということを個者によって違いがあるということに気づくことがなかった人間関係はきわめて不幸である。
見えないものを自分の中で処理しきれずに、不幸な状態を相手にも持ったままで接してしまうであるから、必然的に相手にも不幸な感情を味わわせてしまうことになる。

よりやっかいなのは、自分が話したり、考えたり、表情をそれに伴い変化させるだけで、itというものは、不気味にも、ボク等の身の回りにどろりどろりと発生し続ける。itは解釈を待っている。
放り投げられっぱなしのitがおおいからこそ、ボク等は不幸の種をいろいろなところに、まきちらしては、腹を痛みで満たしていくことになる。

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小説061 : reProfesional#133

2008-11-21 17:19:49 | reProfesional
第四部 共他存在

chapter#61 共他存在

人生の中で時折感じる、ふと下水道の排水溝からほのかに香るような、自分をそこにいるべき存在ではないと感じさせるその匂い。
ボクもそうだが、どうしても、うまく生きていない。
そういうように感じることがある。
自分で必死に目指すべきところを明確にしたところで、結局、人間というのは堕落をする存在なのだ。

一人でどれだけがんばってみても、孤独感を味わい、周囲の存在に不幸な感情を味合わせる。それだけで、終わってしまう。相手も、自分と同じく、自分が幸せになりたいと思い、一生懸命がんばる。
だから、衝突するに決まっている。
ボクがここまで、こうやって、小説を書き続けてきた中で、感じるのが、そういうこと、構造だけを明らかにしてみたなら、そこにたち現れるのは、おそろしく、非協力的で、自己中心的な人間という存在の本性だけ。

頭のいいやつになればなるほど、うまく、自分の利益を優先させ、実現させるように、もっていけるもんだ。

孤独感を感じたり、罪悪感を感じるというのは、先の章でも、述べたように、鍵括弧つきの善人であるという証拠。
でも、それも自分がまだまだ、やるべきことのある、つまらない人間だという、道徳的な意味での、未完成さの証明にしか過ぎない。

未完成の完成という状態を堅持し続けられるならばいいが、なかなかそういうわけにはいかない。

「ボクはこんなに、努力をしているのに、どうして、まわりのやつらは、こんなに非協力的なんだろう。」

こんな状態が、この第四部で書こうとしている人間存在の状態であるといえる。

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小説060 : reProfesional #132

2008-11-20 23:54:03 | reProfesional
chapter#60 本能

前章で考察ということの重要性を人生における範疇で説いたあとで、すぐに、やんわりと否定してしまうということになるが、まっとうな知性を持っている人ならば、それほど、ボクがむちゃなことを言っているわけではないということをわかってくれるはずである。

ただ対象化を絶え間なく試みるだけだと、主軸としての自己をかえって崩壊させるという結果にもなりかねない。対象化を絶え間なく行おうとするのは、いわゆる哲学病ともいえなくない状況であるといえる。我思うゆえに我あり・・・という前近代的自己肯定的崩壊に陥ってしまうといえる。

自己を肯定的に対象化し、他者、対象を対象化しつづけるだけでは何もうまれないというのも、前章のことをそっくりそのまま否定してしまうことにもつながりかねないが、事実である。

自己を対象化する主軸となるもの。
それが、いわば、本能ともいうべき部分である。
感じるということが実は、考察という行為の前提、根本にあってこそ、生きるという行為総体は完成される。
どちらかだけで生きていこうということになると、たちまちその人物は阿呆面に身を任せ、醜い中に身をおくということになりかねない。

自分をあきらめない。世界をあきらめない。
到底不可能なことにも立ち向かっていこうと出来るための根本が本能をいかに磨いていこうとするか?ということにかかわっている。

腐った本能では、自分だけでなく、まわりも腐らせる結果になる。
創造的に生きようとするには、考察で事態を改善しようとし、本能で事態とは何をさすのか?という捉えていかなければならない。

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小説059 : reProfesional#131

2008-11-19 23:44:20 | reProfesional
chapter#59 考察

崩壊を招かぬよう、ボク等は考えるということ、自分を考察するということ、自分から対象物を考察するというスキルを与えられている。
立ち止まってしまっては死んでしまう、マグロをボク等は時としてばかしてしまうが、ボク等も自分でそれというように気づいていないだけで、状況は何も変わらない。

自分は死んでいるという状況におきたくないが故の考察の停止。
考察ををすると言うことはあらゆる角度から、人生を構築しようとする試みでもあるといえる。
時に、あきらめに似た感情を途方もなく味わうことがある。考察をやめようという感情があきらめであるといえる。考察をやめるということは、人生への解釈を、対象物に対する考察、解釈を思考停止状態、つまりは止めるということに近いといえる。
考えに考えを尽くし、苦い味の汗をかきつづける。
胆汁にも似た味が口の中に充満する。生きるということはそういうことにも状況は近い。

考えよさらば、与えられん。
求めよというだけではいかにも脆弱である。
脆弱さゆえの自己崩壊、之まで述べてきた麻薬への渇望、依存誘発媒体への近づき。ボク等は、おそから、早かれ生命を絶っていく。
無謀にも、期限ある生命を絶とうとする行為、それがいわば、思考停止状態であるということが出来る。

考察という所作のもたらすもの、それは、人生を肯定的に生きようとする際の創造的営みの最たる部分であるといえる。
考えなきところに、道は開けない。

おろかな民への崩壊を望んできたボクはひんやりとした感情を感じた。どうせ、通じない、どうせ、相手は悪だ。そういう甘美なあきらめの心情こそ、ボク等にこうもりがまさに、一部分、そういう状態に陥ってきたように、諦めという状態をもたらす。

自分を非難することは難しい。自分が老心を持っているということを認めるということも難しい。ボク等は、他者否定の上に自己肯定を成り立たせようとして必死になる。だから、本当に幸せになることはなかなかない。
ボクが思うに、ボク等は、すべてにおいて対象化をこころみ、新たな境地を切り開き続けなければならない。
自分を殺したくなければ。

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小説058 : reProfesional#130

2008-11-18 00:58:28 | reProfesional
chapter#58 感性の代償

人間の最大の不幸にして、最大の幸福は感性を与えられたということであろう。
もし、視覚というものがなかったとしても、感性は与えられていると思う。
感性がなければ、不幸も、幸福も感じない。
ここ何章かにわたって、善悪の構造というものを明らかにしようとしてきたわけでないにしても、ボクの無意識が一種の慰めにも似た作用を必要としていて、それを自然に行っている。

善悪の構造を明らかにしたいという欲求は暗に自分把握ではないということをだれかに何とかわかってほしいという力の現れであるともいえる。
ボクは悪事を働いてしまう善人というカテゴリーの人間である。
それを必死で訴えたいがゆえに、ボクは言葉を羅列する。ボクは、というと、自己ひげにもなるかもしれないが、少なくとも、最善の自分を生きようとはしていないし、生きることへの強い恐怖感も覚えている。
反対の構造から見ると、そう感じることができるのは、最も愛している人たちから笑顔が消え、それが恐ろしい形相になってしまう野ではないかということをどこかで感じながらも、平然と悪事を働いてしまうというボクの圧倒的な人間的欠陥があるからだといえる。

感性を与えられた人間の一番の代償。それが、精神の破壊、自我の崩壊であるといえる。悪人は基本的に自我も、人格も、精神をも崩壊させられるべき存在なのであろうが、悪人が完全な悪人でない限り、もしくは、ボクが思うに少なくとも、社会の中で自分という存在がアイコン的存在にでもなっていない限り、社会的側面と、個人的側面がまったくイコールでない限りにおいて、理想論で言うところの悪性への弁明は絶えず行わなければならにし、真の悪人は逆にそういう作用を経ない。
中途半端な存在のボク、一般的なボクだからこそ、深刻な状況を回避しなければならないし、回避のすべを疲労感とともに模索している。

感性の代償の最たる部分である愛する人々から笑顔が消えるというおぞましい状況への鉄壁に身を崩しながら。


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小説057 :reProfesional#129

2008-11-17 00:39:55 | reProfesional
chapter#57 疲労

疲労の構造というのも、これまで何度か触れた気がするが、基本的にボクが思うに、先の章での善悪の議論というのがベースにあるからこそ、人間存在というのは、疲労という経験を味わうことができるのだと思うし、消極的に考えると、拾うという機能を兼ね備えているというようにも説明できると思う。

自分の行っている行為がすべて善であるという確信を持てるのであれば、人間がおそらく、それほどの疲労も、肝臓を傷めるということもないのであろう。それが、なにかしら、善悪の判断という自分の中でのかがみに照らし合わせて、そこに「疾しさ」というあらたな感情を想起できるからこそ、疲労感というのはセットアップされるのであろう。
善悪もしくは、理想と現実、もしくは、理想と、実際に自分の体たらくに照準を合わせた際の絶望感というものが、疲労感をもたらすということもできる。

ボクは今の年齢においては、今の経験、知恵の範疇においては、果たして人間存在というものが、疲労感それも肝臓をしてやり、手の皮膚を焼き尽くす類の悪性の疲労感から逃れるすべがあるのかどうかということはわからないが、疲労というのはいわば、自殺という人間存在を抹消し、理想郷しかも人間存在が空虚にも創り上げた存在しない形、もっと正確な言い方を試みるなら、実存を感じることがきわめて困難な形でのそこに追いやる以外からは逃れることができない類の背後例のようなものではないかと感じる。

善人、悪人、特にこの二者の中での判断で言うと、善人にこそ疲労という代償は授けられるべきものであるし、疲労という営みを好意的に捕らえると、いかにも慰めの行為であるというようにも捉えることもできる。

疲労感を味わい、自分は善人であるということの確証をなんとか得ようとする。そこに、人間のけなげさと同時に、おろかさというものも垣間見ることができる。

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小説056 : reProfesional#128

2008-11-16 00:25:23 | reProfesional
chapter#56 善悪

ボク等がほんものから身を避けていたとしても、それはなにも善悪の中の善と悪の判断がつかないわけではない。
善悪の判断がつくからこそ、肝臓がやられたり、思い悩んだりするということがおきる。

ある意味、ひとりの人間が生きるということは、その人物が何か行動をするたびに、何かしらの価値判断、善悪の感情を相手に対して判断を求めることを矯正するという性格の部分があるといえる。
たえず、相手のまなざしを目の前に、肝臓を傷め、視線に身を思いやられる。
そういうことがおそらく正常な人間なのではないかと思う。
後の議論に譲る部分ではあるが、何も正常な人間が幸福感に満ち溢れた生命を全うできるというわけでもないし、異常な人間が、不幸な感情に常日頃苛まれるというわけでもない。

人間が社会というこうぞの中で生きることのもっとも厄介な部分が、その逆が常々しいられるということであろう。
正常な人間は思い悩むし、必ずしも道徳的な判断において、善とされる行動のみを遂行できるわけでもない。
むしろ善人と悪人、正常な人間とそうでない人間の大きな差異というのは、善人は、悪事をそれを悪事であると社会的規範の中で判断しながらにおいて、悪事を執り行うということが善人の善人たる理由だろう。
社会で広く流れわたる常識とまず何よりも、ボクが唱えたい議論の中で大きく異なるのは、善人こそ悪事を働くということである。
もしくは、悪人は、悪事を必要悪、もしくは、必然、もしくは世直しとして正当化されるべきこととして行えるということであろう。

ボクが思うに、本当の意味での善人というのは、おそらく存在しないのであろう。
だれしも、肝臓を傷め、悪事を悪事とわかり、自分の保身のために執り行わざるを得ない。そこに善人の不幸というのがあり、悪人の幸福体験というのもあるのであろう。

君がもし今、悪事、もしくは道徳的に悩めるということができるのであれば、それは少なくとも、君が本性からの悪人ではなく、悩める善人であるということの何よりもの証明であるということであろう。

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