本の読み方の設計図。

本の構造を明らかにしていく。
論拠・主張

論証=事例、引用。

小説046 : reProfesional#117

2008-11-05 22:27:29 | reProfesional
chapter#46 自己統一

恐怖感は、自己が統一できないのではないかという漠然とした心の切り傷、もしくは、心の過去の損傷によるアザから生まれる。
こころは、たいていの人において、傷だらけであろう。塑性をもったこころは、なんとか、もとの形状を取り戻そうと、ひとりでに動く。
恐怖感は、そのこころ自身がもとの形態を覚えていないこととか、下の形態自体が、果たして自己なのだろうかということから生じる。

感情のそれぞれの状態を厳密に定義することは出来ないし、感情のそれぞれの状態を定義できないからこそ、精神的な異常者が意志の陰徳によって、定義され、生産されていく。
元来それぞれの感情の状態は定義できないし、定義すべきでもないという事実があるにもかかわらず、人は自分を正常であるとか、異常であるという状態のどちらかに身をおきたがる。

自分における異常な状態、それは、自分が精神として捕らえている総体の一部が不安や、恐怖、怒り、悲しみ等のどちらかというとマイナスとして捉えられる感情により、遊離された状態であろう。
自己の統一が取れた状態というのも、実際はなかなか訪れることはないのであろうが、仮に自己がそれを統一された状態と感じたときは、それはそれで不安であろう。
これまで、長年、混沌とし、定義を避けてきた感情に突如定義を求め、安定を望む、精神の一部の氾濫で、停止された自我のひとつの形態としての平穏。嵐しか吹かない、異国の地においては、その嵐がやみ、無風の状態となること自体は歓迎されるであろうが、その状態においては、次なる嵐を待つという恐怖が訪れるであろうし、嵐の中ということを想定されて営まれてきた通常の人々の生活というのは、イデアの中でのカオスとも言う状態となるであろう。

カオスの中に身をおき続けることとなる、私たち人間は、本当の意味で幸福な無風な状態は望まないだろうし、本当に無風の状態を幸福とも定義は使用としないだろう。過度の嵐、雷雨で、心がぼろぼろになることは望まないでも、適度な精神分裂状態を望んでいるのではないだろうか?

ボクは思う、不幸こそ、幸福の一種の形態であるのではないかと。
仮に、幸福な状態というものが、ボクに訪れたとしても、僕は、それをおそらくそういう風に捉えることは出来ないだろうし、また次の不幸な状態が来ることを心待ちにするであろう。
僕の自己統一とは、そんな不幸のカオスの中で、何とか、恐怖感を抑えつつ、安定を克服していくということではないだろうか。

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