本の読み方の設計図。

本の構造を明らかにしていく。
論拠・主張

論証=事例、引用。

希望のニート講座in愛媛大学1月24日!!

2006-01-23 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
希望のニート 現場からのメッセージ

東洋経済新報社

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いよいよ以前脱「目的なき上昇志向」としてとりあげた『希望のニート』の著者である二神能基氏が明日1月24日に愛媛大学(愛媛大学火曜ナイトサロン)にて講演会をおこなわれます。
ニート支援のNPOニュースタートの代表でもあり、国のニート支援の第一線でも活躍される二神先生の話は非常に貴重なお話。

「あいつらは、働く気がないんだ」
「負け犬だ」・・・などなど
ニートに対する誤解。
きっとみなさんのなかにもあるはずです。
でも、この問題が多くの若者に共感を生み、
不安感を生むのはなぜでしょうか?
ニートに潜む若者の心理
現代日本の闇・・・
ここで考える時間はきっとあなたの未来に希望となるはずです。

どうぞ奮ってご参加ください。

------------

日時:1月24日(火曜日)
   18:30~(18:10開演)
   *予約、参加費などは不要です。どうぞお気軽にお越しください。
場所:愛媛大学グリーンホール(旧共通教育第講義室)
主催:愛媛大学火曜ナイトサロン実行委員会
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ジャーナリズム : 松山情報発見庫#388

2006-01-17 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
新編 悪魔の辞典

岩波書店

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この本の中で、ジャーナリズムというものへの定義として、
「きわめて強力な拡大器であって、この器械は、編集者たちの発言と印刷用のインクとの助けを借りてハツカネズミの泣き声を論説委員の獅子吼に変え、国中の人々が(察するに)その発する声に生きを凝らして聞き入ることになっている。」(122頁)
というように述べている。
この国に関していえば、広告主のお眼鏡に適うようにしかその拡大器は使われていないようにしか思えない。
いつも、同じ意見、似たような報道がほぼ異口同音に繰り広げられるだけだ。
異なる論理をぶつけ合うということは、めったにない。
というかない。
多少あるにしても、おふざけ程度であったり、横暴な司会者の思うがままに仕切られたりという程度だ。

「きわめて強力な拡大器」を持ち、ハツカネズミの意見をすら国中に届ける力があるということをしっかり自覚し、奮起して欲しい・・・
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真理 : 松山情報発見庫#387

2006-01-16 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
真理と実存

人文書院

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真理とは二律背反的な性格を持つ。
「閉じられていると同時に、開かれている。真理は即自それ自身の現前として、視線を閉じる意味作用の円環的な地平とともにあら現れる。そして同時に真理は、その意味作用が検証されておらず、ただ推定されているだけだというかぎりにおいて、また、それゆえ、〔未来の自分である〕他の自分や、後の時代の他者たちがこの真理をどのように使うかは不確定なものにとどまるという意味で、開かれている。(中略)つまり、真理は全体的なものとしてしかありえない(定立)―部分的な諸真理がありうるのでなければならない(反定立)。」(133頁)
というようなものだ。
ここでの記述は大変興味深い。
「実存は本質に先立つ」という命題を再度取り上げると、
サルトル、実存主義は本質を、神性をあらかじめ措定しはしないという意味において、本質は形づくられるものとなるということを思い出す必要がある。
サルトルにおける本質とはないものであり、あろうとするもの、つまりは、ここでいう真理というのが、本質というものであるといえなくもないという性格を帯びている。

真理は全体的であり、部分的である。
こういう性格があるからこそ、「私が真理を他人に与えるとき、彼がそれを見ているという直観を私はもちうる」(135頁)というここと同時に、
真理の「私の真理であり、他者にとって生成した真理であり、普遍的な真理」(同)という性格をもちうることがあるわけだ。
「見ているという直観」を持つということ、見られているということは、存在と無の対他観のところで述べたが、即自として受け取られていることを述べているにすぎない。
真理が「私の」真理にすぎないし、部分的であるだけであるゆえに、そこに互酬性というものが生じ、私の心理として対他的に贈与された真理は他者にとっても、私の真理を渡すことを促すこととなる。
「他者と交流すれば、彼が私よりうまく見てとったものを指摘してもらい、盗まれたものを私に返してもらうことができる。しかし、彼はまた返さないこともできる。」(136頁)
というように、真理を贈与することはある種の危険性をも伴う行為であり、
「他者たちの好きにさせるために、真理は与えられる」(135頁)という性格が重要となるのである。
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無知 : 松山情報発見庫#386

2006-01-15 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
真理と実存

人文書院

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人間存在は何故、私の真理を他者に与えるのか?
それは先に述べたように、その存在が根源的に無知であるからである。
真理の構造として、
「存在するものが、存在しないものによって照射されるというものになる。真理-検証の動きは、存在しない将来から、現在へと向かう。」(53頁)
という性格がある。
存在と無の即自存在についての記述でも見たように、われわれは<私>があるところのものが何であるかしらない。知りえないそれゆえ、検証ということが必要となる。
「現在の〔=現前する〕存在は来るべき〔=将来の〕非在である。いたるところで、この現前する存在を取り囲む非在がある。」(63頁)
非在ゆえに、その存在がなにであるかは知りえない。
知りえないということは、知りえたいというという欲求を喚起する。
それゆえ、<私>の現前する存在は、他者へ問いかけなければならない。

他者へ呼びかけるのと同様に、対自的に即自を暴き出そうとする。
「無知は運命への呼びかけ」(89頁)なのである。
*運命については、おそらく、後にニヒリズムについて検証する際に検証予定。
「無知は純粋な存在とではなく、借り物の存在とのみ関わり」(95頁)を持つことをする。
純粋な存在とは、今、それではない存在として、非在として現前する即自=真理である。借り物とは、検証段階における即自、対他的状況に置ける問いかけらる-べき-存在としての存在である。
無知ゆえに問いかけを待つ。

無知には、3つの危惧が含まれている(95頁)という前提がある。
それは、①暴きだされる即自に対する恐怖②暴き出しを行う対自に対する恐怖③暴きだされた即自と暴き出しを行う対自との関係に対する恐怖。というものである。
ここでは、無知というものは真理を見ることを恐れるものとして描かれている。
しかし、同時に、
「無知を認めることは、寛大さgenerositeであり、解放」(135頁)という性格と共に、「行動するためには無知でなければならない」(142頁)という性格もあるというようにも論じられている。
行動する条件であると同時に、時に恐怖を起こす要因ともなりうるもの、それが無知の性格のようだ。
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問いかけの存在 : 松山情報発見庫#385

2006-01-14 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
真理と実存

人文書院

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この本の性格をひとことでいうなら、澤田氏が以前取り上げた『<呼びかけ>の経験』にて、第1期の本来性のモラルと呼ぶ時期の後期のモラル論となる。
『存在と無』の最後にて、
「これらの問いはすべて、非共犯的で純粋な反省へとわれわれを向かわせるのであり、その答えは倫理の領域においてしか見出されないであろう。本書に続く著作を、この問題にあてるつもりである」(1140頁)
と述べられているものにサルトルが答えようとして構想したノートである。
つまり、一冊の著作物として完成したものという性格ではなく、構想段階のノートとなのである。 
澤田氏が、芸術家のアトリエの例を上げて述べているように、それゆえわれわれ自身による解釈の自由度が、『存在と無』にくらべて高いといえる。
サルトル自身の真理に対しての呼びかけを促すという意味で非常に面白い本だ。

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さて、この本の主題は、
「人間は世界に問いかけを到来させる存在である。しかし、人間とは、自分に関するものでありながら自分自身では解くことができない問いかけが世界の内に彼へと到来するような存在である。それゆえ、人間は一つの根源的な無知との関係によって定義される。人間はこの無知との深い関係を持っている。この無知のあり方に応じて人間は、自らはなにであり、何を探求しているのかを定義するのである。」(29頁)
というものを分析していくことでなされていく。
ということで、
①解かれるべき問いかけ
②根源的な無知
③真理
*真理に関しては論述を追うことで見て欲しい。
の3つを追うことでこの著書での論理を追うことにしたい。

まずは、①の問いかけについてみてみよう。
これは、ここでも何度か述べているように、人間存在が対自的に行う即時的存在への問いかけを言い表している。
対自が即自に対して行うこの検証こそが問いかけであり、この問いかけの結果として現れるのが真理とサルトルのいうものである。
「真理とは存在の漸進的な暴き出し」(32頁)である。
対自ー即自として暴き出したものを「真な者として他者に与える」(44頁)というのが、人間存在における問いかけの発端である。
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まなざし : 松山情報発見庫#384

2006-01-12 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
存在と無 上巻

人文書院

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ようやくずっと予告してきた『存在と無』の対他存在についての論述に移れる。
澤田直氏の指摘するようにこの『存在と無』でのモラル感は少しこれまで幾度かここで述べてきたような「個人主義的」な傾向がないわけではない。
*ただ、『存在と無』(下)2おけるサルトルの記述を追うかぎりそれほど個人主義的なものとは思えない。
モラルというものをここでは厳密に定義することはしないが、少なくとも、私という人間が対他的にいかに振舞うかということの教えであるとするならばここでの対他存在としての人間存在のありかたを省みることも、サルトルでのモラル観を考えるうえで参考になるであろう。

ちなみに対他存在というものを考えるに当たり、間もなくここで取り上げる『真理と実存』における贈与と真理ということと比較して述べることは有用であろう。
まず、対他存在の意義というものをじっくり見てみよう。
以前ハイデガーについて論じた際に少し述べたが、サルトルはもちろん彼の用いる語句に対して厳密な定義を与える場合もあるが、たいがいは、あたかも芸術家が彫刻を創作する際のようにあらゆる記述からその概念を顕わにしていくという過程を経ていくことが多いといえる。答えを示すというより、道を示すというイメージであろう。
人間存在はこれまで見てきたようにその対自存在の即自存在への反省的作用により、「自分があるところのもの」(=真理=即自存在)措定しようと試みていく。
しかし、「私の反省の場においては、私は、決して私のものであるところの意識にしか、出会うことができない」(398頁)
それゆえ、他者という存在を現前とさせることが必要となる。
サルトルは、
「他者の出現そのものによって、私は、或る対象について判断を下すのと同様に、私自身字ついて判断を下すことができるようにさせられる。なぜなら、私が他者に対して現れるのは、対象としてであるから」(同)
というように述べる。
このことが意味するのは、以下のまなざし論とでもいうべき論理を追うことによって明らかになる。
ちなみに、ここでのサルトルのまなざし論は、澤田氏がサルトルモラルの「第一期 本来性のモラル」(『真理と実存』所蔵の「贈与としての真理」3頁より,)と呼ぶサルトルモラル論前期の所産であり、サルトルの最も完結されたモラル論における対他観とはかけ離れているといわざるを得ない。

さて、そういうことはさておき、サルトルのまなざし論というものを見ていこう。
サルトルは、
「せいぜいわれわれが言いうることは、〔=即自-対自存在としては〕『私はこの存在であると同時にこの存在であらぬ』ということぐらいである。『私が私のあるところのものである』ためには、他者が私にまなざしを向けているだけで十分である」(463頁)
というように述べている。
このことは、
「《他者によって見られている》ことは、《他者を見ている》こと」(454頁)
という論述こそあるが、まなざしというものが単に人間存在を他有化させるといっているにすぎない。つまり、ただ、実存としての現れの人間存在(=即自存在)が対他存在(他者にとっての存在)のまなざしにより、その姿のまま捉えられるということに他ならない。
つまり、ここでサルトルのモラル論が、嘔吐のそれから何か進歩した点があるとすれば、サルトル自身が、
「人間は、世界との関連において、また私自身との関連において、定義される」(454頁)
といっているように、その無定義性というか、対自による無化(=定義付けの試み)という視点を対他関係における関係性、つまりは、コミュニケートする人間存在というように発展させたということに尽きると思う。
以降の真理と実存における論述においても、そのモラル論の焦点はこの「実存は本質に先立つ」という以下に本質という定義づけを回避しつつも人間存在に根拠を与え、無化ではないニヒリズム的な「無=nihil」を克服するかという点に尽きるといえる。

*なお、ハイデガーについては、その「共存」という<世界-内-存在>における人間存在の特徴から論駁を試みられているものの、結局は、「実存は本質に先立つ」というサルトル哲学の根本律とでもいうべき命題と照らし合わせて結果「共存」といういわば決め付けを与えてしまうことはナンセンスというようなものであるのでっこでは詳述は省く。

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これでようやく、『存在と無』(下)の検証に移ることができる。
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sigur ros : 松山情報発見庫#383

2006-01-10 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
アゲイティス・ビリュン
シガー・ロス
エイベックス・マーケティング・コミュニケーションズ

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無解釈的な世界
無解釈的な音
なにもない
まどろみの中に身を沈めていくかのような音楽

歌詞も母国語アイスランド語と、HOPELANDICという彼らによる造語による
無解釈の自由な音
解釈などない実体
ただ身を沈めていく
捏粘物の中に・・・
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正しい社会科の教科書。 : 松山情報発見庫#382

2006-01-09 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
“呼びかけ”の経験―サルトルのモラル論

人文書院

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これでいよいよこの本について述べるのは最後である。
つくづく思うが、澤田氏の本がなければ卒業論文は完成し得なかったであろう。(現時点では未完成)

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今回はサルトルの倫理思想がこの概念に集約されるとも言える「アンガジュマン」という言葉についてみてみよう。
人々が一般的にこのアンガジュマンという言葉から連想するのは、「社会参加」「政治参加」「現実参加」などの意味であろう。
しかし、これらのどちらかというと、容易に政治的な行動、示威行為と結びつきかねないような用法はサルトル自身インタビューの中で否定している使われ方であるようである。
サルトルは、アンガジュマンという概念に関して、
「作家のアンガジュマンは、伝達不可能なもの(生きられた<世界-内-存在>)を伝達することであり、それは共通言語のうちに含まれる脱情報の部分を用いることでなされる」(『シチュアシオンVIII』454/332)
というように述べている。

これは、これまでの記述で追ってきたように、「作家の」という言葉をとって考えるなら、一般的なモラルへの連関が見えてくるだろう。
「アンガジェした作家の真の仕事とは、指し示し明らかにし、瞞着を暴き、神話や物心を批評という酸に浸して溶解することなのだ」(『シチュアシオンIX』35/28)
というようにも述べている。
このようなことが必要となる背景には、
「だれもが状況に入り込んでしまっているのだとしても、そのことをみんなが完全に意識しているわけではない。多くの人は、自分の拘束状況を自分に隠すために、時を過ごす。〔…〕作家が参加していると私がいうのは、彼が状況に入り込んでいることについてもっとも明晰で、最も全体的な意識を持とうとしているからだ。つまり、彼は、自分と他人のために、この拘束=参加を無媒介的な自発性から、反省的なものにしようとしているのだ。」(『文学とは何か』98/83)
というようなことがあるからだ。

このように、アンガジュマンとは、作家という文脈からすると、繭に閉じこもってしまっている事実を、彼が<真理>と信じる形で指し示すことであり、私たち一般的な文脈においては、これまでのべてきたように、贈与することであるということである。
つまり、アンガジュマンとは、ほかでもない、贈与のことであり、他者へのコミュニケーションのことなのであろう。(簡略化していうと)

ps.
ここから怒涛のように未記述であった『存在と無』(上)の「対他存在」以降をようやく読解を得たということもあり、述べて生きたいと思う。
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ニヒリズム哲学 〈私〉の真理。 : 松山情報発見庫#381

2006-01-08 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
“呼びかけ”の経験―サルトルのモラル論

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私は与えられる。
メディアとして、そのメディアとは、いかなるものであろうか?
このメディアとは、後に存在と無について述べる際に詳述するが、〈私=自分=即自的存在〉を発見するために対自的存在としての<私>が構築したものであろう。
ということは、このメディアとは、<私>にとってのその時点での真理であろう。
「真理は他者に対する私の要請としての規範である。私は真理を他者に与える。私は、贈与するものとしての私の自由を彼が承認することを要求する。つまり、それが真理であることを要求する。」(『真理と実存』180/37)
対自的に私が懸命にこさえてきた<私>を対他として引き渡す際のメディアそれは、私にとっての真理である。
これは、即自の神性という『存在と無』で結論付けられていることを参照しなければならないが、神なきニヒリズム的な時代においてはこの即自的な<私>が神性を帯び、これが<私>を脆くも根拠付けるものであるということを述べておこう。

呼びかけの関係であるゆえに、引き渡さなければならない。
サルトルにおける<世界-内>の人間存在は、ハイデガーにおけるそれと違い、人間存在がたち現れたからといって世界が現れるわけではない。(ハニーさん解説を(爆))
サルトルは、『存在と無』におけるそれとは趣は異なるが、世界内存在ということに関して、
「人間はジェネロジテであり、人間の出現は世界の創造なのだ。人間はまず存在し、それから創造するのではなく(神の場合はしばしばこのように考えられる)、その存在自体いおいて世界の創造なのである。」(『倫理学ノート』514頁、本書122頁より)
というように、
世界は他者への呼びかけとして構築していかなければならないものとして捉えられている。

なぜ、呼びかけなければならないのか?
それは、サルトルをして、人間存在の対自-即自の関係がアプリオリなものであるといってしまうように、アプリオリだからであろう。
「あらゆる真理は、私が知ることのない外部を持っている。ここで問題となっているのは、私の真理を構成している乗り越え不可能な無知である。」(『真理と実存』,117-,本書129頁より)
というように、
あくまでも、真理は<私>の「真理」であり、無知に基づいた「真理」でしかない。
それは、われわれが擬似<神>ともいえる即自的な<私>でしかないからであり、そのような様態においてしか存在し得ない存在欠如であるからである。
(奇妙なことに存在欠如ということを想定する時点でニヒリズムは破綻してしまうのではないかと思う。)

澤田氏自身はこの本では指摘していないが、サルトルが『真理と実存』で述べている真理とは、即自存在の外面性、対他性というものに過ぎない、それゆえ、あえてジュネ論を参照するまでもなく、ジェネロジテという概念が絶対性を帯びないものであることは自明である。
しかし、だからといってそこにモラルが成り立たないというようには、先に述べたのと同じくならない。
ニヒリズム的状況においてのなお、生きなければならない、懸命にも真理と呼ぶまでに、ニヒリズムでありながら、寄りかかろうとする人間存在のけなげさというか、儚さ・・・
その生のむず痒さ・・・
それこそが、モラルでありえよう。
向き低のむず痒さ、それこそ人間存在の生の「真理」ではないだろうか。
(という即自的記述)
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〈私〉というメディア : 松山情報発見庫#380

2006-01-07 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
“呼びかけ”の経験―サルトルのモラル論

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哲学者は、おそらく、問題としている何かをあまり露骨に伝えたくない、もしくは直視しないように直視するためにそのような文体をとり、
小説家は、根拠付けるため、もしくは衝動付けるために、そのような文体をとり、
詩人は、訴えるために、そのような文体をとるのだろう。
訴えの届かぬ詩人、
物語の届かぬ小説家
露骨に伝わってしまう哲学者
彼らはあまり幸せとは言えないのではないだろうか。

------

さてさて、
上のように感じた今日このごろではあるが、実は上のことは今回取り上げるサルトルのジェネロジテという概念に結びつく。
ジェネロジテとは、フランス語のge´ne´rosite´のことである。
辞書的な意味はここでは、さておき、サルトル的な文脈においては、「贈与性としての自由」(106頁)ということになる。
これまでの呼びかけの部分でも見てきたが、贈与とは、交換とは異なり、互酬性を伴ったものである。
サルトルは、この贈与ということとジェネロジテというものを結び付けて、論じているようだ。
「〔私の〕観念が他人のものになってしまうことを受け入れること。歴史の行為者の徳、それがジェネロジテである。」(『倫理学ノート』,53頁からの引用として本書115頁より)
サルトルによれば、ジェネロジテとは、自分の即自的なもの、観念が他者へと引き渡されること、もしくは、引き渡すことである。

サルトルは、さらに、

「あらゆる創造はひとつの贈り物であり、与えられることなしには、現実に存在することはできない。『donner `a voir(みさせる〔=見えるように与える〕)』という表現があるが、まさにそのとおりだ。私はこの世界を他者が見るために与えるのだ。つまり、ひとがそれを見えるようにと私は世界を実存させるのであり、その行為のうちで私はひとつのパッションとして、自らを失うのである。したがって、ここではモラルは、すでに即自的に存在するものを対我々的に(つまりわれわれにとって)実存させるということである。言いかえると、含意されていた意味に過ぎなかったものを、非共犯的によって、われわれの行為の明示的な主題とすることである。これが絶対的で際限のないジェネロジテであり、それは固有な意味での情念=受難(パッション)であり、唯一の存在の方法なのである。与えるということ以外に存在する理由はない。そして、贈り物であるのは、作品=行為だけではない。性質もまた贈り物なのである。自我とはわれわれのジェネロジテを統一する見出し語なのだ。」(『倫理学ノート』137頁)

これは、『存在と無』において人間存在とは、「存在選択」(1097頁)といっていたことからダイナミックに飛躍したといえる。
存在する方法としては選択すること。その選択は、他者への相克ではなく、他者へ自らを引き渡すこと、自分という即自的メディアとしての存在を対他的に引き渡すこと、それが存在の方法である。
これがサルトルのモラル論の鍵となるジェネロジテである。

-----

サルトルは、贈与の構造について、
「贈与によって三項関係が成立する。贈与する人と、贈与されるモノと、贈与を受ける人である」(『倫理学ノート』382頁からの引用として本書120頁より)
というように述べている。
それでは、われわれが引き渡すものとは何だろうか?
「他の人との真の関係〔は〕けっして直接的ではない。〔それは〕作品=行為(oeuvre)を媒介とした関係である。私の自由は相互承認を含んでいる。しかし、人は事故を与えることによって自己を失う。ジェネロジテ。愛。
 私の対自と私の対他の新たな関係。つまり作品=行為による関係。私は他者に私が創造した対象物として私自身を与えることによって、自らを定義する。他者が私に客観=対象性を与えてくれるように。」(同,487頁)
といようにサルトルは述べる。

われわれはメディア(=作品)としての自分を周囲の他者に提出することによって解釈を試みられることを期待する。

次に、それでは、このメディアというものは私にとってどういうものかということを見てみよう。


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ART of Being : 松山情報発見庫#379

2006-01-06 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
“呼びかけ”の経験―サルトルのモラル論

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実存による呼びかけにより、共同体への可能性が広げていくということについてみたが、澤田氏の指摘で面白いのが、芸術論とモラル論との間での相関関係だ。
サルトルは、『実存主義とは何か』の中で、
「道徳的選択は芸術作品=行為の構築に比べるべきである。〔…〕描くべき定義された絵などはなく、画家は自分の構築のうちに自己を拘束するのであり、描くべきえとは彼が描き終える絵である。」(75-76/71頁)
というように指摘しているようだ。
この指摘は、エーリッヒ・フロムの『よりよく生きるということ』(The Art of Being)という本の題からももろに見えるように。

フランス語においてもおそらくそうであろうが、英語においてArtという言葉が、芸術という意味と、技術という意味を内包しているということと比してみると大変興味深い。
描くべき絵というのが、サルトルのいう即自存在というものであり、この言葉に、澤田氏がプルーストの言葉として引用している

「〔美しい本の偉大ですばらしい特徴のひとつは〕著者にとって書物が〔結論〕と呼ばれうるものなら、読者にとってこれは『うながし』とも呼ばれうるということだ。われわれの叡智は、著者のそれの終わるところで始まる、ということがはっきり感ぜられる。われわれは著者に回答を与えて欲しいと思うのだが、実は、われわれに欲望を与えるということが著者のなしうるすべてなのである。しかもこの欲望を著者は、彼の芸術の最後の独力によって達しえた思考の美を凝視させることによってでなければ、われわれのうちに喚起することができない。しかし精神の視覚の、奇妙な、だが天の摂理のように見事な法則によって(おそらくその法則は、われわれが誰からも真理をうけることができず、それを自分自身で創り出さなければならないということを示しているのであろう)、著者の叡智の終わりはわれわれの叡智の始まりのようにしか見えないから、こうして著者が言いうることをすべていいつくしてしまった瞬間に、われわれのうちに彼がまだ何も言っていないような印象が生じることになる。」(『プルーストの文芸評論』180頁)

というのを加味して考えるなら、それは後に詳述する予定のサルトルの対他存在へとつながるものへとなっていく。
われわれは、他者に対して自分を即自として指し示すことを求め指し示す、しかし、それによって即自としてのあるがままの自分というものは一向に見えはしない。多くのさまざまなタイプの他者とのふれあいの中で、自分の姿が措定されていくという具合にだ。
このように、サルトルの対他観へのつながりを示唆しておいて、
『倫理学ノート』におけるサルトルの呼びかけというものを再確認しておくと澤田氏の構築せんと試みているモラル論へよりボリューム感を与えることができると思う。

「呼びかけとは目的を、他者の前で明確にするために、よりいっそう明らかにしようとする努力であり、目的を設定する行為の延長である。それゆえ、呼びかけとは自分の投企が外面性を持つこと、つまりそれが他者のために存在することの承認である。呼びかけとは言葉の本源的な意味における献身であり、私が自分の企図を他者に捧げることを意味する。私はそれを自由に他者の自由に対して表明する〔…〕この意味で、呼びかけとはジェネロジテである。あらゆる呼びかけには贈与がある。」(293頁)

サルトルのモラル。
それは、対他として自分を贈与することに始まる。
次に、この贈与ということについて第二章を振り返ってみよう。

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サルトルとハイデガー : 松山情報発見庫#378

2006-01-05 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
“呼びかけ”の経験―サルトルのモラル論

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続いては、Ⅱのモラルとエクリチュールのまずは、第一章呼びかけとは何か という部分についてみていこう。
ここでまず指摘されているのは、ハイデガーとの違いということだ。

-----

一つ目に、ハイデガーにおいては、呼びかけというのは、一方向的なものであるが、サルトルにおいては、双方向的なものであるという点。
これは、ハイデガーの『存在と時間』からの次の3つの引用との比較で述べられている。

「呼ぶことをわれわれは語りのひとつの様態として捉える。語りとは、了解可能なものごとを分節するものである。両親を呼び声として性格づけることは、たとえばカントが良心を法廷として描いたような、たんなる『比喩』に尽きるものではない。ただ、ここで見逃してはならにことは、語りには-したがって呼び声には-発声的な表現が本質的な条件ではないということである。むしろ、いかなる発生的な言明や叫びも、すでに語りを前提にしているのである。」(本書80-81頁より『存在と時間』(以下SZ)272頁)

「呼ぶものは誰かという問いをこと改めて提出する必要が、そもそもあるだろうか。この問いは、呼び声において呼びかけられているものが誰であるかという問いと同様に、現存在の中ですでに一義的に答えられているのではあるまいか。すなわち、現存在が、良心において、おのれ自身を呼んでいるのである。」(SZ275頁)

「現存在は呼ぶものであるとともに呼びかけるものでもある」(SZ275頁)

まず③は、ハイデガーにおいては、十分ではない、とされており、サルトルにおいては、この双方向性こそが重要であるとされている。
ハイデガーにおいては、現存在が良心の呼び声によって呼びかけられるものであるとしているようだ。

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二つ目は、世界内存在としてハイデガーにおいて捉えられているいわば共同体についての違いである。
ハイデガーにおいては、共同体というものは出発点になるというようである。これは、先のSZにおいて、

「運命的な現存在は、世界内存在たる限り、本質上、ほかの人々の共同存在において実存しているのであるから、その現存在の生起は共同生起であり、共同運命という性格を帯びる。それはすなわち、共同体の、民族の生起のことである。共同運命はさまざまな個別的運命から合成されるものではない。このことは、相互存在が、いくつかの主観の集合的出現という意味のものではないのと同様である。個々人の運命は、同一の世界の相互存在において、そして特定の可能性への覚悟性において、初めからすでに導かれていたのである。その共同運命に備わる威力は相互伝達と戦いとの中で、初めて発揮される。」(384頁)

というように述べられている。
しかし、サルトルにとってこのような共同体というものは不在である。
先にも述べたように、「実存は本質に先立つ」という命題からも見えてくるように、実存の上位概念として共同体というものを置くのではなくて、実存が呼びかけにより相互に形作るものとして共同体の可能性は示唆されている。

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サルトルと読者 : 松山情報発見庫#377

2006-01-04 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
“呼びかけ”の経験―サルトルのモラル論

人文書院

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まずは、Ⅰの文学と哲学をつなぐもの
という部分の要約から
この部分で澤田氏が指摘しているのは、サルトルが、彼の後にウンベルト・エーコが『物語の読者』などで「〔読者は〕物語るという行為の要素としてだけではなく、物語そのものの要素として、いつでも必要なのだ」と述べる以前に、
読者の重要性を説いていたということ。
また、サルトルにおいては、その作者と読者の関係というものは、呼びかけという様態で示されており、それは、サルトルが後に『存在と無』『倫理学ノート』などで述べるような対他関係へとつながっていくということである。

以上のことをサルトルの言葉をこの本から抜き出すことで見ておこう。
サルトルが読者の位置づけをクローズアップさせたのが、一般的にアンガジュマン文学としての印象をもたれている『文学とは何か』という本にてである。
一般的には、サルトルというと、
特定の政治思想を伝えるメッセージとしての小説というものを重視しているというイメージがあるが、澤田氏の指摘によると、
サルトルがこの本で、伝えようとしていたのは、「〈呼びかけ〉としての文学」(20頁)であるという。
このことは、

「書くものは、読むもの自由に向かって書き、読むものにその作品を存在させることを要求する。しかし、それだけではなく、読むものが彼の与えた信用を返してくれることを要求し彼らが彼ら自身の創造的自由を承認することを要求し、読むものの側でも対称的に逆から呼びかけを行って、書くものの側の自由を喚起してくれることを要求するのだ。そこで、読むことのもうひとつの弁証法的逆説が現れる。われわれが、われわれ自身の自由を感じれば感じるほど、われわれは他人の自由を承認するし、他者が我々に要求すれば要求するほど、我々は他社に要求するようになるのである。」(本書23頁,『文学とは何か』からの引用として)

これは、澤田氏も述べるようにエーコだけではなく、バルトなどの読者論、作者の死などにも通じることである。
また、この読者論で述べられていることは、その人間存在の形態を対自存在の自由を条件とするサルトルの人間存在論へと通じていくことになる。
これまでに、ここで幾度か、対自-即自存在については見てきたので詳しい説明は省略するが、サルトルの人間存在論は、「実存は本質に先立つ」という実存主義の命題を元に成り立つ。
このことは、澤田氏も指摘するように、実存、つまりはここでは人間存在についてその上位概念としてたとえば、日本人であるとか、何々主義であるというようなものを認めない。
ということは、対他的状況において他社との共通項を持たないということになる。

共通項のない状態で倫理というものが成り立つのか?
成り立たないゆえにサルトルのモラル論は不在である。
というのが、澤田氏以前の去るとるモラル論に対する見解であったようだが、澤田氏は、
「モラルの不可能性こそがモラルを要請し、伝達の不可能性こそが伝達を要請する」(65頁)
というように指摘し、以降でサルトルのモラル論の構築を試みていく。
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正しい?!保健体育のお時間。 : 松山情報発見庫#376

2006-01-03 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
正しい保健体育

理論社

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実際、ある意味正しい保健体育かもしれません。
フロイトとか、フーコーとかのいいそうなことをさらりとかっこよく、すこしおふざけにも見えなくもない口調で核心に迫る勢いで語ってしまっています。
著者が、あのみうらじゅんで、
この本が、中高生むけで身近な疑問に答えようという趣旨の理論社「よりみち パン!セ」シリーズなのもびっくりだ。

もし、自分が中高生のころにこんな本を読んでいたら、どんな気持ちになっていただろうか?
次の日、学校に行って隣の席の女の子を直視できなかったかもしれない。
楽しい本ですので、お気軽にどうぞ。
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初KING CRIMSON : 松山情報発見庫#375

2006-01-02 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
In The Court Of The Crimson King: 30th Anniversary Edition [Remastered]
King Crimson
Caroline

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歌詞の内容はこのサイト(KING CRIMSON和訳集)に掲載されているので、参照されたい。
いぜんから、レディオヘッドのライナーノーツでクリムゾンという名前自体はよく聞いていた・・・
やられた・・・
一曲目のタイトルがいきなり、「21stセンチュリースキゾイドマン(21世紀の精神分裂者)」だ。
レディオヘッドがドラッグが禁止された中で人生という「不条理」を生きていかなければならないうえでの苦しみの中でもがき苦しむ様子を描いているとしたら、おそらくこのキング・クリムゾンの音楽は、ドラッグを使ってまで生きようとしてしまったことの苦痛を描いているのかもしれない。

歌詞など読まずに聴いているだけだと、レディオヘッドの中の美しい曲を聞くような感慨に駆られるのみだが、歌詞の内容に突っ込むと、さらに音にドライブされ憂鬱さに襲われる曲だ。
甘美な憂鬱に浸りたいときにはぜひともお勧めな音楽だ。

ちなみにこのアルバムが出たのは、1969年ころとのこと。
僕にとって見ればこんな昔にこんな音楽があったと思うと時代を生きる人というのはいつもなにかしら精神を病みながらも懸命に生きているのだというメッセージに思える。
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