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団塊世代おじさんの日常生活

夏 日本で二番目に気温が高く、陶器と虎渓山と修道院で知られる多治見市の出身です。

<道草のすすめ> 恩師のように温かく 16年かけて教諭に

2023-02-21 02:03:53 | 日記
  中日新聞の<道草のすすめ>というタイトルで、下記の記事が載っていました。




 今日は、途中で座り込まずにトイレに行けた。

 文字が一つ、書けるようになった。

 滋賀県内の特別支援学校高等部の教諭、田村桐子さん(49)=米原市=は、そんなふうにゆっくりと、だけど着実に成長していく生徒たちの姿を見られる毎日に、この上ない喜びを感じている。

 それは回り道を経て、教諭になるまで計十六年かかった自身の姿とどこか重なる。

 小さい頃から引っ込み思案だった。人前に出るのが苦手で「要領が悪く、休み時間も参考書を開いているのに成績は良くなかった」。

 両親は共に教諭だったが、学校は良い高校、良い大学を目指すために勉強させられる場所という印象で、同じ道に進む気は起きなかった。

 考えが変わったのは大学四年の時。就職の相談に乗ってくれた元教諭との出会いがきっかけだった。頭ごなしに否定せず、個性を尊重してくれる人柄に心を打たれた。

「自分もこんな教諭になりたい」と教壇を目指すようになると、一緒に教員採用試験の対策をしてくれ、小論文のアドバイスももらった。

 だが、どれだけ対策して臨んでも本番になると緊張して力が出せない。望まない結果が入った封筒を何度も受け取り、そのうち薄さだけで「落ちたな」と分かるようになった。

 周囲からは諦めるようにも言われた。採用されたり、別の道を進んだりする周囲と自分を比べては、気分がふさいだ。「もうやめよう」。何度も思った。

 それでも、「おまえなら大丈夫」と言い続けてくれた人がいた。

 就職の相談に乗ってくれた、あの恩師。卒業後も会いに行くなど関係が続いていた。

 温かい言葉に励まされ、臨時講師や非常勤講師、時には工場勤務のアルバイトもしながら、採用試験を受け続けた。

 臨時講師の立場で初めて特別支援学校に勤めることになった時、もう三十歳を超えていた。障害のある子どもたちは、授業を受けたり、ご飯を食べたりと、自分が当たり前と思っていたことにも苦労していた。

 人よりペースが遅くても大丈夫。そうやって子どもたちを支える仕事は「自分では良くないと思っていた要領が悪い部分が、プラスに生かせるんじゃないか」と感じた。

 大学で国文学を学んでいたため国語の教諭を目指していたが、進路を少し変えて特別支援学校の試験に挑むようになり、二年目でついに合格通知を受け取った。

 十六回目の挑戦だった。「他人から見ると遠回りだと思うけど、いろいろやってきたからこそ今の喜びに出合えた」。心からそう思える。

 早く結果を出したい。だけどうまくできず、自分が嫌になる。そんなふうに生きてきた。

「ゆっくりと成長していく子どもたちの姿を支える仕事はそのまま、自分自身を肯定することにもつながっている」。

 遠回りしたからこそたどり着けた場所で得られた幸せを、かみしめている。
 
 以上です。

 16回目の挑戦で、念願の教諭になられたんですね。

 素晴らしい!

 この目標が叶えられたのは、就職相談に乗ってくれていつも励ましてくださった恩師のおかげですね。

 それと国語の教諭から特別支援学校の教諭に方向転換されたのが、功を奏したようです。

 特別支援学校の教諭が、田村さんの天職だったように思います。






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