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団塊世代おじさんの日常生活

夏 日本で二番目に気温が高く、陶器と虎渓山と修道院で知られる多治見市の出身です。

人は老いれば人間関係が希薄になるのはごく当たり前のこと。

2019-07-01 03:45:50 | 日記
 中日新聞の日曜版「おじさん図鑑」に飛島啓介さんが、「友だち」というタイトルでエッセーを書かれていました。




 「一年生 になったら」(まど・みちお作詞、山本直純作曲)という童謡で、友だち百人・・・と
明るく歌いあげたのは1966年(昭和41年)のこと。
おじさんが友だちの輪を無制限に広げていた若い頃だった。

 当時、時間は無尽蔵であるかに思われた。
友だちも大勢いて、彼らと共に過ごす多くのむだな時間を惜しいとは思わなかった。

 「無用の用」というのは、青春時代の時間の浪費のことではなかったか。
有用ではないが、自分にとって必要ではあったのだ。

 歳月を重ね、老いて己の持ち時間が限られてくると、
自覚せずとも友だちとの日常的な時間の浪費はできなくなる。
夜が白むまで飲んで騒いだり、轍宵議論するなど、全くしたくなくなった。

 大勢いた友だちは少数に限られてきて、その少数の友だちとも会うことはまれになり、
年賀状の交換だけということになる。

 人は老いれば人間関係が希薄になるのはごく当たり前のこと。
しかし、その結果生まれる寂寥(せきりょう)感は、人生の透明度を高める濾紙(ろし)と考えるべきではないか。

 ” 寂しさ”は、己の人生を鈍化するための欠くべからざる宝ものと思いたい。


 以上です。


 学生時代は友人の家に集まり、グループ・サウンズとかフォークの話で盛り上がったり、
女の子の話をしたり、故郷のことを話したりして雑談に興じましたね。
まさに青春時代を謳歌しました。

 社会人になると同僚たちと連れ立って飲んだりしましたが、学生時代のように家に泊まったりはしなかったです。
仕事があるということで、無茶は減ったように思います。

 会社を退職した今は引きこもり状態ですが、それはそれで良いと思っています。
友達とも年賀状の交換だけの付き合いです。

 一昨年の秋 心臓の具合が悪くなってから、たまに友達から誘いの電話がありますが
億劫で出かけない状態です。

 この作者さんが言われるように
「人は老いれば人間関係が希薄になるのはごく当たり前のこと。
しかし、その結果生まれる寂寥(せきりょう)感は、人生の透明度を高める濾紙(ろし)と考えるべきではないか。
 ” 寂しさ”は、己の人生を鈍化するための欠くべからざる宝ものと思いたい。」。







布施明さん 「愛の終わりに」