93『岡山の今昔』備中高梁(城と城下町の景観)
さて、この備中高梁には天下に名高い山城・備中松山城がある。2016年に建てられたという駅ビルの3階テラスから北の方角を仰ぎ見る。すると、確かに直ぐの山頂に城らしきものが見通せる。かなり、遠くにあるようでもある。こんな風な角度で見えるだから、あそこまで登るには、かなりがんばらねば、と思われるのだが。交通の便では、JR伯備線高梁駅から車でふいご峠まで約10分だという。天守までは、そこから徒歩20分位というから、散歩の気分で登ってみるのはいかがであろうか。
この城は、現在の高梁市の市街地の北端にある、標高430メートルの臥牛山(がぎゅうざん)に乗っかっている。現存する山城としては日本一高いところに設けてある。今でも、城好きの人々の間で天下の山城を語る時には欠かせない。天守閣と二重堀は、17世紀後半の1683年(天和3年)に建築された当時のまま、国の重要文化財に指定されている。
1873年(明治6年)の廃城令を機に民間に払い下げられた。山上部分は放置のまま1940年(昭和15年)にいたり、旧高梁町と地元有志が資金を集め天守に保存修理を施した。これが功を奏して、翌年には国宝(現在は重要文化財に改定)に指定される。さらに、2007年に本丸復元工事が行われた。天守を取り巻く土塀と南御門、東御門、五の平櫓(やぐら)などが再建された。
たしかにここは、珍しい場所だ。城から直線距離で東へ約1キロメートルのところには備中松山城展望台(通称は雲海展望台)があり、天気のよい時には雲海からひょっこり城の雄姿が浮かび出るのだという。はたせるかな、兵庫の山間部(兵庫県朝来市)の「天空竹田城趾」(姫路と和田山を結ぶJR播但線にある竹田駅から徒歩40分、播但バス「天空バス」で20分のところにある)にも似た、当時としては峻厳な地勢をうまく利用した「難攻不落」を誇る要塞であったのがうかがえる。
この城と城下町は、どのようにして造られてきたのだろうか。というのも、高梁の町は、江戸期以前から備中の政治の中心地であった。政治的な中心としての高梁城のそもそもの場所は、鎌倉時代(1240年(仁治元年)頃か)に現在の城がある松山から東北方向の大松山に構えてあった。因みに、この二つは牛が横たわっている姿からの命名とされる、臥牛山を構成する4つの峰に含まれる。
その景観だが、小ぶりですっきりと、しかも凛々しい姿をしているではないか。大仰なものでないことが、かえって心地よい。三角帽子のような山容にも馴染んで写る。数ある解説からは、「盆地にある高梁は、晩秋から冬にかけて濃い朝霧が発生します。雲海の中で陽光に輝く天守は神秘的」(雑誌「ノジュール」2017年9月号。「岩山に築かれた天空の要塞」国宝/現存天守、日本100名城。)と絶賛される。
なぜそうなるのかというと、この時期は寒暖の差が相当にあって、城下の西を流れる高梁川から霧が発生しやすいからだと聞く。2階建ての小さな天守のたたずまいもさることながら、「大手門跡から三の丸、二の丸方面の石垣群を仰ぎ見る」(同)のは、これを撮ったカメラマンの目の付け所の良さを物語る、古武士然の趣(おもむ)きさえ感じさせる。
(続く)
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