□93『岡山の今昔』備中高梁(城と城下町の景観)

2018-11-22 21:01:04 | Weblog

93『岡山の今昔』備中高梁(城と城下町の景観)

 さて、この備中高梁には天下に名高い山城・備中松山城がある。2016年に建てられたという駅ビルの3階テラスから北の方角を仰ぎ見る。すると、確かに直ぐの山頂に城らしきものが見通せる。かなり、遠くにあるようでもある。こんな風な角度で見えるだから、あそこまで登るには、かなりがんばらねば、と思われるのだが。交通の便では、JR伯備線高梁駅から車でふいご峠まで約10分だという。天守までは、そこから徒歩20分位というから、散歩の気分で登ってみるのはいかがであろうか。
 この城は、現在の高梁市の市街地の北端にある、標高430メートルの臥牛山(がぎゅうざん)に乗っかっている。現存する山城としては日本一高いところに設けてある。今でも、城好きの人々の間で天下の山城を語る時には欠かせない。天守閣と二重堀は、17世紀後半の1683年(天和3年)に建築された当時のまま、国の重要文化財に指定されている。

 1873年(明治6年)の廃城令を機に民間に払い下げられた。山上部分は放置のまま1940年(昭和15年)にいたり、旧高梁町と地元有志が資金を集め天守に保存修理を施した。これが功を奏して、翌年には国宝(現在は重要文化財に改定)に指定される。さらに、2007年に本丸復元工事が行われた。天守を取り巻く土塀と南御門、東御門、五の平櫓(やぐら)などが再建された。

たしかにここは、珍しい場所だ。城から直線距離で東へ約1キロメートルのところには備中松山城展望台(通称は雲海展望台)があり、天気のよい時には雲海からひょっこり城の雄姿が浮かび出るのだという。はたせるかな、兵庫の山間部(兵庫県朝来市)の「天空竹田城趾」(姫路と和田山を結ぶJR播但線にある竹田駅から徒歩40分、播但バス「天空バス」で20分のところにある)にも似た、当時としては峻厳な地勢をうまく利用した「難攻不落」を誇る要塞であったのがうかがえる。
 この城と城下町は、どのようにして造られてきたのだろうか。というのも、高梁の町は、江戸期以前から備中の政治の中心地であった。政治的な中心としての高梁城のそもそもの場所は、鎌倉時代(1240年(仁治元年)頃か)に現在の城がある松山から東北方向の大松山に構えてあった。因みに、この二つは牛が横たわっている姿からの命名とされる、臥牛山を構成する4つの峰に含まれる。
 その景観だが、小ぶりですっきりと、しかも凛々しい姿をしているではないか。大仰なものでないことが、かえって心地よい。三角帽子のような山容にも馴染んで写る。数ある解説からは、「盆地にある高梁は、晩秋から冬にかけて濃い朝霧が発生します。雲海の中で陽光に輝く天守は神秘的」(雑誌「ノジュール」2017年9月号。「岩山に築かれた天空の要塞」国宝/現存天守、日本100名城。)と絶賛される。

なぜそうなるのかというと、この時期は寒暖の差が相当にあって、城下の西を流れる高梁川から霧が発生しやすいからだと聞く。2階建ての小さな天守のたたずまいもさることながら、「大手門跡から三の丸、二の丸方面の石垣群を仰ぎ見る」(同)のは、これを撮ったカメラマンの目の付け所の良さを物語る、古武士然の趣(おもむ)きさえ感じさせる。

(続く)

 

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♦️201『自然と人間の歴史・世界篇』17世紀オランダの絵画(フェルメール)

2018-11-22 19:33:27 | Weblog

201『自然と人間の歴史・世界篇』17世紀オランダの絵画(フェルメール)


 ヨハネス・フェルメール(1632~1675)は、17世紀のオランダを代表する、独特の画風をものにしていた。その短い人生で精力的な画業があり、確認されているだけで35点の絵が現在につながる。
 1647年頃には、画家になろうと修行を始める。故郷オランダのデルフトを出て誰かに師事することもあったのかもしれない。1653年末、親方画家として聖ルカ組合に加入をはたす。この年の春に結婚していたことから、生活の安定をも求めたのだろう。初めは、宗教などをテーマに「物語画家」を目指したものの、25歳頃には、次に繋いでいくため、より需要の見込める「風俗画家」への転身を図る。
 やがて一閃のような心境の変化があったのかもしれない。画業が本格化するのは、1650年代後半からであった。「眠る女」(1656~57)や「窓辺で手紙を読む女」(1658~59)、それに「士官と笑う女」(同)や「牛乳を注ぐ女」(1658~1660頃)といった作品群では、光がじんわり射し込む室内での、庶民らの仕草とか、語らいとかが描かれる。特に、「牛乳を注ぐ女」では、壺に注がれる牛乳のしたたりに見入ってしまう。
 これらにあるのは、作家の目の前で繰り広げられる、庶民の日常の姿だ。迫真というのではないものの、窓から差し込む光をじっくり眺めているうち、なぜだか、自分もその中に吸い込まれてゆく。「ポワンティエ(点綴法)」という技法を用いて、白色系統の明るい色の小さい点で光を描いている分、自然な光の繊細さを醸し出しているという。
 1660年には、「デルフト眺望」を発表する。南側のスヒー港から眺めた姿であり、陽がまだ明け切らない、しばしの朝の風景をとらえたものだろうか。著名な画家となってからの彼は、ちょっとした外出はあったものの、終生この町を離れることはなかったようだ。
 1663年以後は、「手紙を書く女と召使」や「ギターを弾く女」などをものにしていく。優しいタッチにして、慎ましやか、当時の人びとの精神生活の一端が窺えるのである。調度品や登場人物の衣服など、それらへの光の当たり具合などからは、超人的かとも思われる、細部への拘りが窺える。
 1668年には「天文学者」を、翌1669年には「地理学者」を描いた。この二つは「寓意画」と呼ばれるものであって、当時の新鋭オランダの意気込みを感じさせる。1670~72年には、聖ルカ組合の理事に選ばれており、その画業で地方の名士に叙せられていたのかもしれない。
 まだ43歳の若さで死んだのには、貧窮によるものがあったのだろうか。21歳の時結婚した妻との間に15人の子供がいたという。その死の4か月後に、妻カタリーナが自己破産を申請し、デルフト市が認可している。一説には、夫の死後、妻は借金返済のため、彼の絵を売却してしばらく生活を切り回していた記録が残っている、というのだが。これだと、画家の晩年はすでに蓄えの乏しい生活であったのではないか、とも推察される。その頃、絵画に対する需要が急に冷え込んだともされるものの、それにいたる原因まではよくわからない。
 参考までに、小林賴子氏は「力をつけてきた周囲の列強諸国が祖国の脅威となるや、フェルメールの周囲にも波風が立ち始める」(小林賴子「フェルメール、生涯と作品、改訂版」東京美術、2007)とされる。

(続く)

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□146『岡山の今昔』瀬戸大橋線沿線(下津井~終点)

2018-11-22 10:48:37 | Weblog

146『岡山(美作・備前・備中)の今昔』瀬戸大橋線沿線(下津井~終点)

 さて、鉄路の方は、いよいよ瀬戸大橋に乗り出していく。念のため、この瀬戸大橋という通称による名称だが、本州の鷲羽山から塩飽(しわく)諸島の島々を経由して四国の番の州にいたる。それらの総延長は、つごう海峡部橋の部分が9.368キロメートルで、高架部分も入れる、橋梁部・高架部を合せると13.1キロメートルにもなる。鉄道道路塀用橋では世界最長だというから、驚きだ。これだけのところにつごう六つの橋が架かっている。

   そこで、まずは下津井(瀬戸)大橋に取りかかる。橋の形(建築用語)だが、下津井(瀬戸)大橋の方は吊り橋(写真で橋の根元を見ると、「桁下31メートル」の表示がある)、櫃石島までの長さは1400メートル、塔長高は149メートル。櫃石島までの長さは1400メートル、塔長高は149メートル。その先にある岩黒島までの長さは790メートル、塔長高は152メートルの櫃石島橋が「トラス斜張橋」だ。それに羽佐島までが790メートル、塔長高は161メートルの橋・岩黒島橋が続く。これも「トラス斜張橋」だ

   さらに、羽佐島から与島へと進んでいく。ここに架かるハコ型をしたのが「トラス橋」だと説明される。それからは三つ子島へと伸びて、長さは1538メートル、塔長高は184メートルの橋・北備讃瀬戸大橋が続く。こちらは「トラス吊橋」だという。さらにそこから先へは、番の州(香川県坂出市)までのところに架かる南備讃瀬戸大橋が続くのであって、こちらは1648メートル、塔長高は194メートルという威風堂々たるものだ。これも「トラス吊橋」だという。(『日本の名景ー自分さがしのベスト50』河出書房新社、2007、雑誌「ノジュール」からの作成)。
 このあたりの瀬戸内は、晴れの日が多い。瀬戸内のまぶしい太陽の光が車内を満たし、眼下には紺碧の海の絶景。好天に恵まれると、橋を渡って四国へ向かう中、「おおっ」と眺望が開ける地点が幾箇所もあるとのこと。ただし、その気になって見ていないと絶景ポイントは直ぐ通り過ぎてしまうようだ。

   この最後の橋である南備讃瀬戸大橋に差しかかる。眼下には、香川県側の工業地帯が広がる。このあたりは、かつて塩田として栄えた。四国の地に入ってからは、宇多津(うたづ、香川県綾歌郡宇多津町)へ向かう線路と分かれて大きく左へカーブし、予讃線(よさんせん)を東へ向かってしばらく行くと坂出駅着く。そこから飯野山(通称は「讃岐富士」)などを眺めながら、讃岐平野ならではの風景の中を一路東へ。やがて、車窓右からくる高徳線と合流して、列車は四国の玄関口・高松駅へと行き着く。

(続く)

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○○322『自然と人間の歴史・日本篇』昭和(戦前)の文化(文学、宮沢賢治)

2018-11-22 10:40:26 | Weblog

322『自然と人間の歴史・日本篇』昭和(戦前)の文化(文学、宮沢賢治)

 宮澤賢治(1896~1933)は、農業技術者であり、詩人であり、児童文学・童話の作家であった。生前は「ほぼ無名」とのことで、なかなかに世に作家として出られなかった、不遇の時があった。時代が下るにつれ、国民作家としてのみならず、日本と世界にますます多くの読者を獲得しつつある点で、希有の作家だと言えよう。
 1896年に岩手県の花巻に生まれた。家は、周囲の中では比較的裕福であった。1918年に盛岡高等農林学校卒業してからは、しばらく家業に従事した。その中で、日蓮宗の熱心な信者となり、布教のため上京したりもしている。

文学活動は青年期の早くからで、『どんぐりと山猫』(1921)、『かしはばやしの夜』(同年)など童話数編から書き始める。

それからは、故郷での農業の指導者となって働きながら、油が乗ったように作家活動に取り組んでいく。そう彼は東北の土に親しみ、農民たちの暮らしに心を砕いた技術者でもあった。彼の代表作には、手帳に記されていた稀代の名詩「雨二モ負ケズ」をはじめ、死後になって世に出たものが多い。

そこで「雨二モ負ケズ」から始めると、この詩における「負ケズ」には、特別の意味か込められているような気がしてならない。ありていにいうと、我々が日々身を処すに際して、「勝つ」必要は必ずしもないのではないか。とはいえ、世の中の物事の本質に迫るには、それ相当のエネルギーを費やさなければならない。この詩で設定されている場面は、いずれも極めて厳しい。ゆえに、「全力でもって」を軽んじるつもりはないが、賢治はそれよりも「負けない」ことでの持続性に重点を置いていたのではないだろうか。

もう一つ、『銀河鉄道の夜』は、宇宙旅行にも似た幻想的な話だ。例えば、今では星が多く生まれる場所だと考えられている「石炭袋」について、主人公にこう語らせている。

「「あ、あすこ石炭袋だよ。そらの孔だよ」カムパネルラが少しそっちを避けるやうにしながら天の川のひととこを指しました。ジョバンニはそっちを見てまるでぎくっとしてしまひました。天の川の一とこに大きなまっくらな孔がどほんとあいているのです。その底がどれほど深いかその奥に何があるかいくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えずただ眼がしんしんと痛むのでした。」(ちくま文庫、「宮沢賢治全集」第7巻「銀河鉄道の夜」)

もう一か所、銀河鉄道に乗って天の川を旅してきた主人公が夢から目覚めるシーンには、こうある。
 「両方から腕(うで)を組んだように赤い腕木をつらねて立っていました。
「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。」ジョバンニが斯(こ)う云いながらふりかえって見ましたらそのいままでカムパネルラの座(すわ)っていた席にもうカムパネルラの形は見えずただ黒いびろうどばかりひかっていました。ジョバンニはまるで鉄砲丸(てっぽうだま)のように立ちあがりました。

そして誰(たれ)にも聞えないように窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれからもう咽喉(のど)いっぱい泣きだしました。もうそこらが一ぺんにまっくらになったように思いました。
 ジョバンニは眼をひらきました。もとの丘(おか)の草の中につかれてねむっていたのでした。胸は何だかおかしく熱(ほて)り頬(ほほ)にはつめたい涙がながれていました。
 ジョバンニはばねのようにはね起きました。町はすっかりさっきの通りに下でたくさんの灯を綴(つづ)ってはいましたがその光はなんだかさっきよりは熱したという風でした。そしてたったいま夢(ゆめ)であるいた天の川もやっぱりさっきの通りに白くぼんやりかかりまっ黒な南の地平線の上では殊(こと)にけむったようになってその右には蠍座(さそりざ)の赤い星がうつくしくきらめき、そらぜんたいの位置はそんなに変ってもいないようでした。」

そのモチーフとしては、やはり宇宙空間にまで視野を広げた中での人間の心のあり方なのだろうか。それはともかく、日本はおろか、世界の中でも実に多くの人々が、この青くにじんだ陰影さえ感じられる文章に、人を引きつけてやまない宇宙の神秘を感じさせる。
 1933年に賢治が死んだ時には多くの未発表作品があり、その中からは畢生(ひっせい)の詩『雨ニモ負ケズ』が見つかっており、熱心な在野の法華経信仰者としても、つとに知られる。
 戦前から活躍していた詩人の草野心平は、宮澤のことをこう評している。
 「現在の日本詩壇に天才がいるとしたなら、私は名誉ある「天才」は宮澤賢治だと言ひたい。世界の一流詩人に伍しても彼は断然異常な光を放っている。」(『詩神』(1926年8月号)

(続く)

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○○423『自然と人間の歴史・日本篇』1970年代の文化1(彫刻、絵画、書、版画、マンガ、写真1、絵画の田中一村)

2018-11-22 10:19:38 | Weblog

423『自然と人間の歴史・日本篇』1970年代の文化1(彫刻、絵画、書、版画、マンガ、写真、田中一村)

 田中一村(たなかいっそん、1908~1977)という画家は、その道でなかなかの苦労人であったようだ。栃木県に生まれた。17歳で東京美術学校へ入学する。同級生には、東山魁夷(ひがしやまかいい)がいたという。ところが、田中はこの名門をわずか2か月で退学してしまったというから、驚きだ。教育方針が気に入らなかっただけではなく、体調がすぐれなかったこともあったようだ。

 その後は独学で絵画製作を続けたらしい。それにしても、暮らし向きのことは、どのようであったのだろうか、ともあれ、なんとか暮らしをつないでいたらしい。

 そんな田中が1958年(昭和33年)50歳のとき、何を思ったか単身奄美大島に移り住んだ。それからの19年、残りの人生をこの島で過ごした。生活の糧を得るため、大島紬(おおしまつむぎ)の工場で働いたりした。そこでの職種は、「摺り込みの職工」だったというから、器用であったのではないか。この島の生活で創作意欲が増し、画業に励んだという。

 そんな孤高の画家人生を送った田中なのだが、特定の画壇には属さなかった。それもあってか、生前はたいして有名ではなかったらしい。それから、画風がその時々の世の中の画風と相当に変わっていた。

 作品については、奄美の自然を切り取ったものが色々とある。主なものとしては、「初夏の海に赤翡翠(ひすい)」(1962)、「アダンの海辺」(1970)、「熱帯魚三種」(1973)、「不喰芋と蘇鉄(ソテツ)」(制作年不明)など。

 これらのうち「初夏の海に赤翡翠」は、ビロウの葉が垂れ下がっているところに、森の岩があって、そこにアカショウビンという、嘴(くちばし)の大きな、そして赤みを帯びた橙色の鳥が止まっている。なんでも、美しい声で鳴くらしい。

「アダンの海辺」は、海辺に凛と立つアダンという名の植物が描かれている。実際は、単独ではなく、群生しているという。生え方は、マングローブと似ているのではないか。それと、なんだかわからないが強い意思をもっている植物のように感じられる。緑の実と黄色い花がついている。黙っていても、ここは南洋の島らしいのが合点がいく。

 それから「熱帯魚三種」は、画面に横並びで三種類の魚を描いてある。上から順に、アオブダイ、シマタレクチベラ、スジブダイだと聞く。泳いでいるような気配は感じられない。艶(あで)やかに、そして頭部には白い光が当たっている。いずれも頭部が大きい。目から口にかけての模様が波形というか奇抜であって、まるで熱帯魚のようだ。どの魚体も、丸々と太っており、もし生きているとしたら、ゆったり気分でいるのだろうか。

 なお、これは余談だが、沖縄で人々に食されている「イラプチャー」と通称される魚は実はアオブダイではなく、アオブダイについては猛毒を持っている魚であることから、これを観て「うまそうな魚体だ」と決めてかかるのはよくないようだ。

 さらに「不喰芋と蘇鉄(ソテツ)」においては、「クワズイモの右にソテツの雄花、左に雌花をあしらってある。まだあって、下にはハマナタマメの花がかき分けられているという。

 これらに見える植物たちは、亜熱帯ならではの姿で描かれていて、色彩は派手で濃いめであるし、なんだか「どっこい俺様は生きているんだ、早く元の海に戻してくれ」と主張しているかのようである。

 

(続く)

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