32の1『自然と人間の歴史・世界篇』現生人類へ(5万年前~、ホモサピエンスの2回目の出アフリカ)
それが約5万年前になると、寒く乾燥した大地にいることに危機感を抱いたホモ・サピエンスたちが、かなりの人数で「出アフリカ」を敢行するに至る。ここに「かなりの人数」とは、約150人位を一単位と考えると、それが運命共同体として最適の規模だという説が出されている。
それからは、西アジアに出て数を増やし、それからユーラシア大陸の東西へ拡散を始めたものと思われる。南アジアからは海を渡ってオセアニアへの移住が起こる。
この集団は、4万5000年前頃に同大陸に到達した。一説によると、日本人の祖先も3万8000年前に初めて日本列島に到達した。さらにおよそ2万1000年前からおよそ1万4000年前にかけて地球の寒冷化があった。こうなると、海面が低下し、その分陸地が干上がってくる。
海水面の後退は、大きいところでは現在の水面から百メートルにもなっていたのではないかとも考えられている。ユーラシア大陸を東進したホモ・サピエンスの集団は、その寒冷化で陸地になっているベーリング海峡を渡り、北アメリカ大陸に、そして約1万年前には南アメリカ大陸にも渡っていく。こうした移住の結果、人類は地球上に広く行き渡り、その各地で多様な歩みを大地に刻んでいくのであった。
ここに、「ホモ・サピエンス」(2009年の定義)というのは、「ホモ」がラテン語で「人」、サピエンスは「賢い」という、したがって「賢い人」という意味である。これは、原始的亜種である「ホモ・サピエンス・イダルトゥ(ヘルト人)」と、基亜種としての「ホモ・サピエンス・サピエンス(現生人類)」を総称していう。このうちホモ・サピエンス・イダルトゥの化石は、約19万5000年前のエチオピアはミドルアワシュ峡谷の中から発見された。彼らの脳容量は1400立方センチの大きさであった。発見された地層は更新世末期のリス氷期中、考古学上の区分でいうと中期旧石器時代中期頃に生きた人びとの化石だと推測されることから、これをとって、私たち原生人類の直接の祖先は、少なくともおよそ20万年前に出現したというのが通説となっている。彼らは通称「ヘルト人」と呼ばれる。
過去から現在へ、その流れの中で地球上のあらゆる生物は、環境変化に適応すべく進化を遂げてきた。現生人類の起源を巡っては、国際的な捉え方の外、「猿人」、「原人」のみならず、「旧人」と「新人」などの日本独特の区分けも重なっていて、ややこしい。そのことを覗わせる最初の関門こそ、進化のシナリオの中で「原人」とは何であり、どのような位置を占めるのか、という命題であった。
そもそも19世紀に、人類学者によって初の人類とおぼしき化石が欧州で発掘された。それ以降、アフリカにまで発掘を広げて、地道な発掘作業が続いた。20世紀になると、生物学の発展により、遺伝学的な探索が徐々に可能となっていく。
さて、化石となって発見された現世人類であるホモ・サピエンス、その代表格といえるのが「クロマニョン人」だ。この種の発見は、1868年、フランスのドルトーニュ県にあるクロマニョンの岩陰から、鉄道工事中の工夫が人骨5体(頭骨を含む)を発見したのを嚆矢(こうし)とする。その岩陰は、あのラスコーの壁画(約2万年前)で知られる洞窟から約10キロメートルの場所にある。
その後、ヨーロッパ各地の洪積世地層から同様の化石人骨が発見され、現生人類に属する化石人類として「ホモ・サピエンス)」と言われるようになった。ともあれ、かれらこそは、私たちの直接の祖先である、ホモ・サピエンスにほかならないことがわかった。
彼らがこの地上に現れ、生きた時代としては、約700万年もの人類の全進化史の中ではごく最近にあたる一時期、約4万5000年前から約1万5000年前、石器年代区分でいうと、後期旧石器時代)をヨーロッパ大陸の一角に生きた地域的集団であると推定されている頃だ。人々は、石や動物の角などを利用し、さまざまなやりの先や、弓矢の鏃(やじり)、ナイフなどを製作、毛皮の加工もしていた痕跡が残っている。
(続く)
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