♦️360の2『自然と人間の歴史・世界篇』物理化学(原子の構造の発見)

2018-11-17 22:09:37 | Weblog

360の2『自然と人間の歴史・世界篇』物理化学(原子の構造の発見)

 

 1911年、ラザフォードは、続いてガイガー、マースデンと協力して、アルファ線を原資にぶつける散乱実験を繰り返す。そして原子核というべきもののあることを確信した。それ以前の頭で考えたモデルを参考に、原子核の大きさを探る。

 薄い銅箔にラジウムからのアルファ線を当て、その実験データから銅の原子核の大きさを推定すると、1.8×10のマイナス14乗メートルより小さいと出た。これは、原子の大きさの約5千分の1以下だという。

 ラザフォードはなおも前進する。1919年には、「ウィルソン霧箱」と呼ばれる装置を使って実験を行い、発生した粒子が、原子を構成する電子とは異なるもう一つの粒子として「陽子」と名付ける。言い換えると、この実験で、窒素の原子核にヘリウムの原子核を衝突させて酸素の原子核を作り出し、その結果として陽子がはじき出されるのを観測した。

 おりしも、キュリー夫人の娘夫妻イレーヌとジョリオは、アルファ線をベリリウムという金属に当てると透過力の大きい別の放射線が出てくることを発見していた。しかし、その物質が何であるかまでは、理解していなかった。

 これらに触発されたチャドウィクは、このアルファ線を色々な物質に衝突させる実験を行い、何かの粒子がはじき出されるのを発見した。この放射線が、陽子と同じ質量をもつ傍ら、電荷を持たない中性の粒子ということで「中性子」と名付ける。

 こうして、原子核は陽子と中性子によって構成されている、と考えられるようになっていく。

(続く)

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♦️360の1『自然と人間の歴史・世界篇』物理化学(放射性物質の発見、レントゲン、ベクレル、キュリー夫妻、ラザフォードなど)

2018-11-17 22:07:15 | Weblog

360の1『自然と人間の歴史・世界篇』物理化学(放射性物質の発見、レントゲン、ベクレル、キュリー夫妻、ラザフォードなど)

  1895年には、レントゲンが正体不明の放射線を発見し、「X線」と名付ける。そのきっかけは、彼がクルックス管という今日でいう蛍光管を用意して高電圧をかけたところ、偶然そばに置いてあった蛍光物質を塗った紙が光りだしたではないか。

 この管の両極には白金が使われていた。それなので、陰極から出た電子が陽極の白金の原子に衝突、そのことで電子がはじき出され、これによって電子のエネルギー準位間の遷移という現象が起きた。そして、白金に特有の電磁波が生じた。

 このレントゲンの発見は、さっそく科学者たちの興味と探求心を刺激していく。1896年にレントゲンの論文に触発されたベクレルは、ウラン化合物に光を当てても放射線が出てくるのではないかと考えた。写真乾板を黒い紙で包み、太陽光に晒していた。

変化が認められなかったことから、そのまま引出しにしまっておいた。それでも、数日後にこれを取り出してみると、写真乾板が黒く感光していた。まさに、ウラン自体が放射線を出していたのである。

 これに続いて、物理学者アンリ・ベクレルは、写真乾板をウラン鉱サンプルにさらすと、光を当てて居なくても感光するのを発見した。1896年に、彼はそのことをフランス科学アカデミーに発表した。

 また、キュリー夫妻も、精力的にこの方面での研究を進めていく。マリー・キュリーが見つけたのは、トリウム、ポロニウム(1898年7月に発表)、ラジウム(1898年12月に発表)などといった放射性物質であって、彼女はそれらが持つ能力のことを「放射能」と名付けた。しかし、マリーら4人のキュリー一家はあまりの実験の継続のため放射能に被ばく、ために放射病を避けることができなかった。想像するに、これに至るには、さぞかし、そこはかとない苦労の連続であったのだろう。

 そして迎えた1898年、ラザフォードは、ウランから2種類の放射線が出ていることを発見した。アルファ線とベータ線と名付けた。前者はヘリウム原子核(プラス)、後者は電子(マイナス)。1900年には、ヴィラールが、X線に似た放射線を発見し、ラザフォードによりガンマ線(電磁波・電荷なし)と名付けた。

 

(続く)

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♦️434の4『自然と人間の歴史・世界篇』チェ・ゲバラ

2018-11-17 08:49:05 | Weblog

 434の4『自然と人間の歴史・世界篇』チェ・ゲバラ

 チェ・ゲバラ(エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ、1928~1967)は、南アメリカの統一をめざした革命家、政治家であった。そのきさくさと類まれな人民奉仕の精神で、今なお世界に広く知られる。アルゼンチンに生まれた。青年期から南米各地をまわり、そこかしこでの貧困や病気、圧政と不平等に苦しむ人々を目の当たりにした。

 やがて政治的な行動に打って出る。キューバにおいては、1952年に軍事クーデターによってフルヘンシオ・バティスタが政権に復帰していた。彼は、それまでの政権同様に親米政策をとる。アメリカからの援助をうけつつ国民の自由と生活を抑圧することで独裁体制の強化を進めていた。

 これに対して、ゲバラはフィデル・カストロとラウル・カストロの兄弟とともに武装闘争を起こす。1959年1月にバチスタ政権を打倒した。新しい国造りの過程で、ゲバラは大いに働いた。

 やがて彼は、カストロにしばしの別れを告げ、1966年ボリビアに赴く。当地の革命を支援するためであった。1684年にボリビアで成立した、バリエントスの率いる軍事評議会は、先のボリビア革命での農地改革、福祉政策の大方については継承した。しかし、労働者階級には冷淡であった。この新たな軍事政権は1966年の大統領選挙において、新興鉱山主湊や官僚層の支持も受け、バリエントスが大統領になる。

 統治に潜入したゲバラは、南アフリカ大陸の大革命の根拠地とするべく、ELM(ボリビア民族解放軍)を組織し、ボリビア政府に対抗する。政権は、

ゲバラらELMと鉱山労働者の連携を阻むため、カタビ鉱山の労働者を吸収して多数の交付を虐殺するなどして、戦う。アメリカが、このバリエントス政権を強力に後押ししていた。農民層は土地改革で保守的立場を強めており、ELMの味方ではなくなっていた。

 そうこうしてELMのゲリラ活動は封じ込まれていき、ついに壊滅され、ゲバラは銃殺された。

 

(続く)

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♦️434の3『自然と人間の歴史・世界篇』ボリビア革命(1952)

2018-11-17 07:01:54 | Weblog

434の3『自然と人間の歴史・世界篇』ボリビア革命(1952)

  1952年4月、ラパスその他の諸都市での労働者を含む武装蜂起があり、それまでの軍事政権が崩壊した。これより前の1951年の大統領選挙では、亡命中のMNR(民族革命運動)のパス・エステンソロが出馬、当選した。ところが軍部は、選挙の無効を叫んで政権を奪い、MNRを非合法化した。これに対し、4月9日にMNRは武装蜂起し、鉱山労働者や民衆を民兵として組織し、軍と警察を管理下におく。

 そして迎えた1952年4月17日、MNR(民族革命運動)のパス・エステンソロが大統領(1952~1956)になる。新政府は、 三大スズ鉱山の国有化、普通選挙法の制定、土地改革それに旧軍隊の解体の四大改革に取り組む。これを「ボリビア革命」という。とはいえ、財政赤字や未曾有のインフレといった経済的な困難が目立っていく。

 続いては、1956年の大統領選挙でバスト並ぶMNR巨頭のエルナン・シレス・スアノが当選する。この時期になると、難局を切抜けるためにはアメリカ合衆国政府やIMF(国際通貨基金) との決裂を避けていく。アメリカは、MNRを反共の防波堤と位置づけ「52~60年に1憶50万ドルが供与され、ボリビアはラテン・アメリカにおける米国援助の最大受け入れ国となった」(増田義郎編「ラテン・アメリカ史2」山川出版社、2000)という。

 政権は、パティーニョ、オスチルド、ホシルト及びアラマヨという三大錫財閥と大土地所有者層が中心となって経済を支配する体制を変え、ボリビアに民主主義を根付かせようとした。三大錫財閥は有償で国有化され、ボリビア鉱山公社が管理することになった。土地改革では、大土地所有をとりあげ、貧農らに分配した。また、経済政策で石油開発、道路建設、頭部の開発をめざす。

 しかし、1950年代末には政権内の不統一が目立ってくる。待遇改善を求め労働者のデモが相次ぐ中、第二次パス政権(1960~1964)は、対米融和政策をさらに進める。一方、パス政権は労働者に対し賃金凍結、解雇、組合運動の制限、鉱山の労働者共同管理の廃止などを実施した。 

 1964年に発足した第三次パス政権においては、アメリカの援助で近代化された軍に協力を求めるにいたる。そこでバリエントス・イ・オルトゥニョ将軍らの軍はいったん政府に協力するも、MNRのさらなる内部不統一もある中で、1964年 11月には態度を翻して無血クーデターでパス・エステンソロを追放した。これにより、ほぼ12年間続いたパス・エステンソロ政権は崩壊し、軍事政権が復活した。

(続く)

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