♦️244の2『自然と人間の歴史・世界篇』近代立憲思想の系譜(ロック)

2018-11-23 09:17:46 | Weblog

244の2『自然と人間の歴史・世界篇』近代立憲思想の系譜(ロック)

 ジョン・ロック(1632~1704)は、イギリスの哲学者、政治学者であって、近代の立憲思想に大いなる影響を与えた。
 「すでに示したように、人間は生まれながらにして、他のどんな人間とも平等に、あるいは世界における数多くの人間と平等に、完全な自由への、また、自然法が定めるすべての権利と特権とを制約なしに享受することへの権原をもつ。それゆえ、人間には、自分のプロパティ、つまり生命、自由、資産を他人の侵害や攻撃から守るためだけでなく、更に、他人が自然法を犯したときには、これを裁き、その犯罪に相当すると自らが信じるままに罰を加え、自分には犯行の凶悪さからいってそれが必要だと思われる罪に対しては死刑にさえ処するためにも、生来的に権力を与えられているのである。」(ジョン・ロック著・加藤節(かとうたかし)訳『統治二論』岩波書店、2010)
 なお、原文は以下の通り。
 “Man being born, as has been proved, with a title to perfect freedom, and an uncontrouled enjoyment of all the rights and privileges of the law of nature, equally with any other man, or number of men in the world, hath by nature a power, not only to preserve his property, that is, his life, liberty and estate, against the injuries and attempts of other men; but to judge of, and punish the breaches of that law in others, as he is persuaded the offence deserves, even with death itself, in crimes where the heinousness of the fact, in his opinion, requires it.”
 「政治権力を正しく理解し、またその起源を尋ねるためには、われわれは、すべての人間が天然自然にはどういう状態に置かれているのかを考察しなければならない。そうしてそれは完全に自由な状態であって、そこでは自然法の範囲内で、自らの適当と信ずるところにしたがって、自分の行動を規律し、その財産と一身とを処置することができ、他人の許可も、他人の意志に依存することもいらないのである。
 それはまた、平等の状態でもある。そこでは、一切の権力とは相互的であり、何人も他人より以上のものはもたない。」(鵜飼信成訳『市民政府論』岩波文庫、1968、「10」)
 こうした彼の立論の背景には、神の下で自由に暮らしていた仮想の自由なる生活があったろう。続いて、その後の社会の変化につきこう述べる。

 「彼の身体の労働、彼の手の働きは、まさしく彼のものであるといってよい。そこで彼が、自然が備えそこにそれを残しておいたその状態から取り出すものはなんでも、彼が自分の労働を混じえたのであり、そうして彼自身のものである何物かをそれに附加えたのであって、このようにしてそれは彼の所有となるのである。

それは彼によって自然がそれを置いた共有の状態から取り出されたから、彼のこの労働によって、他の人々の共有の権利を排斥するなにものかがそれに附加されたのである。」(同、「33」)
 「契約によって依然として共有地のままになっているものがあるが、そこで人が共有のものの一部をとり、それを自然の与えた状態から取去ると、そこに所有権が生まれる。」(同、「34」)
 「人が自分の自然の自由を棄て市民的社会の覊絆のもとにおかれるようになる唯一の道は、他の人と結んで協同体を作ることに同意することによってである。(中略)もし幾人かの人々が一つの協同体あるいは政府を作るのに同意したとすれば、これによって彼らは直ちに一体をなして一箇の政治体を結成するのであり、そこでは多数を占めた者が決議をきめ、他の者を拘束する権利をもつのである。」(同、「100」)
 「人々が国家として結合し、政府のもとに服する大きなまた主たる目的は、その所有の維持にある。このためには、自然状態にあっては、多くのことが欠けているのである。」
(同、「128」)
 「立法者が、人民の所有を奪いとり、破壊しようとする場合、あるいは恣意的な権力のもとに、彼らを奴隷におとし入れようとする場合には、立法者は、人民に対して戦争状態に身をおくことになり、人民は、かくて、これ以上服従する義務を免れ、神が人間を一切の実力暴力に対して身を守るため与えられたあの共通のかくれ場所にのがれてよいことになる。であるから、もし立法府が、社会のこの基本的原則を守るならば、そうして野心なり、恐怖なり、愚鈍なり、もしくは腐敗によって、人民の生命、自由および財産に対する絶対権力を、自分の手に握ろうとし、または誰かほかの者の手に与えようとするならば、この信任違反によって、彼らは、人民が、それと全く正反対の目的のために彼らの手中に与えた権力を没収され、それは人民の手に戻るようになる。人民は、その本来の自由を回復し、(自分たちの適当と思う)新しい立法府を設置することによって、彼らが社会を作った目的である自分自身の安全と保障の備えをするのである。」(同、「222」)
 こうした流れでは、各人は、各人の本来的に持つ自然権力、それは神から付与されたものなのだが、それをひとまず自分から切り離して社会、ひいては政府に委ね、自然権は憲法に規範に保障された基本的人権となるとはいえ、同時にそのことは、自然権力が変じて、警察、裁判所、刑務所、ひいては軍隊などの暴力装置ともなりうる。

それゆえ、それら政治というものが本来の自然権から逸脱していく傾向を持つ時には、各人はその政府の暴走を止め、あるいはよりよい政府に改める権利を持つことを主張している。


(続く)

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