♦️256『自然と人間の歴史・世界篇』選挙権の拡大(イギリス)

2018-11-25 22:02:58 | Weblog

256『自然と人間の歴史・世界篇』選挙権の拡大(イギリス)

 イギリスにおいては、1832年、ホイッグ党内閣の下で選挙法改正案が成立し、新しい時代の幕開けとなる。これには、フランスの七月革命の影響があったとされる。これによって参政権を得たのは、主に新興の産業資本家や工場主、中堅以上の商人や銀行家などを含む中産階級であった。彼らは、従来の貴族や大地主らの単独支配に割って入り、政治の実権の一端を担うにいたる。

 1837年にはヴィクトリア女王(1819~1901)が即位し、イギリスの黄金時代が幕を開ける。その翌年の1838年には、工場労働者をはじめとする人々が、6か条にわたる人民憲章を公刊し、参政権獲得の闘争を起こす。その最高潮は、1848年4月10日のロンドン、ケニントンコモンで行われたチャーチスト運動の大集会(銀板写真あり)であったろう。

   その背景には、額に汗して働く者の粗末な住環境、低賃金と長時間の労働があった。さらに一説には、「低収入者の生活を圧迫する穀物法や、新救貧法に続いて、不作によるパンの値上がりで労働者の生活は一段と行き詰まった」(神山妙子編著「はじめて学ぶイギリス文学史」ミネルヴァ書房、1989)といわれる。

 いわゆる「空腹の50年代」を経ての1950年代にさしかかる頃には、イギリスはそれまでにない経済的繁栄の時期を迎えた。1851年には、ロンドンのハイド・パークで世界大博覧会が開かれた。おりしも、この国においては、鉄道網は全国へと張り巡らされ、ドーヴァ・カレー間の海底電線の設置、ドイツに学んでの鉄鋼製法の改良、農業面での機械化などが推進されていく。

 ちなみに、1951年の国勢調査時点での、アイルランドを含めたイギリスの総人口は2730万人であった(デボラ・ジャッフェ著、二木かおる訳「図説ヴィクトリア女王ー英国の近代化をなしとげた女王」原書房、2017)。

 そして迎えた1867年には、ダービー保守党内閣によって第二次の選挙法改正がおこなわれ、かなりの都市労働者に選挙権が与えられる。さらに1884年に至ると、今度は自由党内閣により成人男子のほとんどに選挙権を与えるという、第三次の選挙法改正が行われる。

さらに、1918年に自由党のロイド・ジョージ内閣の下、四次の選挙法改正が行われ、男子の普通選挙権と30歳以上の女性にも参政権が認められた。時の国王は、ジョージ5世。例えば、こう説かれる。

 「そしてこのような一連の選挙権の拡大を中心とする大衆民主主義への適応過程は、上院に対する下院の優位を規定した「新議会法」(1911)の成立、「国民代表法」(1918)による婦人参政権を含む成人男子に関する普通選挙制の承認でもって一応完成した。」(米田治・東畑隆介・宮崎洋「西洋史概説2」慶応義塾大学通信教育教材、1988)

 それからも、1928年には、ロイド・ジョージ内閣の下で第五次の改正により新たに21歳以上の女性に選挙権が与えられ、そのことにより選挙権を持つのは21歳以上の男女ということになる。

 

(続く)

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○○306の2『自然と人間の歴史・日本篇』明治から大正へ(文学、芥川龍之介)

2018-11-25 19:32:41 | Weblog

306の2『自然と人間の歴史・日本篇』明治から大正へ(文学、芥川龍之介)

 芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ、1892~1927)は、若くして達者な物語構成力を身につけていた。作家活動は東京大学の学生時代から既に始まっており、よくある文壇デュー前の下積み時代などはないと言って良い。最終作の「河童ーある阿呆の一生」までの作品はいずれも短編に属する。中学校の国語の教科書にも、よく出て来るものが、多い。    

 

その特徴は着眼点にあり、ぐいぐいと引っ張られる。双方から放たれた矢が寸分の狂い無くぶつかり合う、あるいは、地獄から脱出するための一本綱に数珠つなぎに人がぶら下がる様などは、現実にはあり得ないことだ。

それはそうなのだが、読者はそのことを心に刻むべくして刻む。言うなれば、彼の小説には、研ぎ澄まされたストーリーがあって、それが暫し読む者の脳裏を魅了するというか、要するに独占してしまう。そんな彼にして、「侏儒の言葉」という名の評論があり、文学とは少し離れたテーマについての、多くは断片的な文章の集まりとなっている。その「序」には、こうある。
 「「侏儒の言葉」は必(かならず)しもわたしの思想を伝えるものではない。唯わたしの思想の変化を時々窺(うかが)わせるのに過ぎぬものである。一本の草よりも一すじの蔓草(つるくさ)、しかもその蔓草は幾すじも蔓を伸ばしているかも知れない。」
 これらからすると、本人としては世間体を気にせず、自由な気持ちでペンを走らせてみたのかもしれない。気軽に論じてみたからご覧あれ、ということなのだろうか。それにしては、なかなかに本質を突くような社会批評が幾つもあり、その中から幾つか紹介しておこう。
 「日本人。我我日本人の二千年来君に忠に親に孝だったと思うのは猿田彦命(さるたひこのみこと)もコスメ・ティックをつけていたと思うのと同じことである。もうそろそろありのままの歴史的事実に徹して見ようではないか?」
 「我我を支配する道徳は資本主義に毒された封建時代の道徳である。我我は殆ど損害の外に、何の恩恵にも浴していない。」
 「軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似ている。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであらう?」
 「小児。軍人は小児に近いものである。英雄らしい身振りを喜んだり、所謂光栄を好んだりするのは今更此処に云う必要はない。機械的訓練を貴んだり、動物的勇気を重んじたりするのも小学校にのみ見得る現象である。殺戮(さつりく)を何とも思わぬなどは一層小児と選ぶところはない。殊に小児と似ているのは喇叭(らっぱ)や軍歌に皷舞されれば、何の為に戦うかも問わず、欣然(きんぜん)と敵に当ることである。
 この故に軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似ている。緋縅(ひおどし)の鎧(よろい)や鍬形(くわがた)の兜(かぶと)は成人の趣味にかなった者ではない。勲章もーわたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?」
 「倭寇。倭寇(わこう)は我我日本人も優に列強に伍(ご)するに足る能力のあることを示したものである。我我は盗賊、殺戮(さつりく)、姦淫(かんいん)等においても、決して「黄金の島」を探しに来た西班牙人(スペインじん)、葡萄牙人(ポルトガルじん)、和蘭人(オランダじん)、英吉利人(イギリスじん)等に劣らなかった。」
 これらのうち、一際風変わりな書きぶりで、日本人全体への提言らしきものが見えている気がするのが、日本の古代史をもじった、やや風変わりな「日本人」考なのである。ここに「猿田彦命」(サルタヒコノミコト)とあるのは、伝説上の女神アマテラスの孫を天孫降臨の地に案内する役を務めた忠臣にして、これもアマテラス同様に実在の人物ではなく、「訓紀」(「日本書記」及び「古事記」)が想像でつくり出した人物神に他ならない。
『古事記』にはその風貌を記述した場面はなく、『日本書紀』神代下にそれが次の如く特異なものであったと記されている。
 「一神有り。天の八達之衢に居り。其の鼻の長さ七咫。背の長さ七尺余。七尋と言うべし。且つ、口・尻明耀。眼は八咫鏡の如くにして、てりかがやけること、赤酸醤に似れり。」(『日本書紀』神代下の第九段一書第一)
 これが(初出)発表されたのは1925年(大正14年)のことで、あの治安維持法の制定・施行と同じ年だ。川端俊英・同朋大学教授によれば、「「皇祖皇宗」ライの真理のごとく唱える教育勅語の「我カ臣民克(よ)ク忠ニ克ク孝行ニ」を、歴史的事実を歪めるものとして茶化しているのである」(川端俊英「大正期の文学に現れた人間観(8)ー芥川龍之介「侏儒の言葉」の世界」:岡山問題研究所「問題ー調査と研究」2000年12月、第149号)とのこと。
 今ひとつ、「軍人は小児に近いものである」と述べているのは、いかにも曖昧さに安住しない性癖のあった芥川らしい。こちらが(初出)発表されたのは1923年(大正12年)のことであった。これより前の1916年(大正5年)12月から2年4か月にわたり、芥川は横須賀海軍機関学校で幹部候補生に教鞭(英語)をとっていて、そこでの経験から来るのであろうか。そうであるなら、現場を何かしら観察した上での断定と見なせることに留意したい。そして、最後の「わたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?」との問いかけは、今日においてもなお続けられている叙勲の浅ましさ、人間不平等の「臣民思想」に根ざしたものだということを、それぞれ白日の下に明らかにしているのではないだろうか。
 そんな稀代の才能に恵まれた龍之介なのだが、生きるために必要な意欲がだんだんに伴わなくなっていったようであり、自殺してしまう。どうやら、天は彼に大成する時間を与えなかったようだが、とりわけ思想家としての発展がみられなかったのは誠に惜しい。


(続く)

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○○306の1『自然と人間の歴史・日本篇』明治から大正へ(文学、石川啄木)

2018-11-25 19:31:28 | Weblog

3061『自然と人間の歴史・日本篇』明治から大正へ(文学、石川啄木)

 石川啄木(いしかわたくぼく、1886~1912、本名は石川一)は、短歌で人生のさまざまな場面を巧みに表現した。例えば、「働けど働けど吾が暮らし楽にならざりぢっと手を見る」は、労働者なら分かる心情を吐露した。また、「たわむれに母を背負いてそのあまり軽気(かろき)に泣きて三歩歩まず」からは、しみじみと情感が伝わってくる。さらに「ふるさとのなまりなつかし停車場の人混みの中にそを聞きに行く」とあるのには、今も故郷から出て来た者の心に懐かしく響いてくる。だれでもが容易くわかる言葉を使っている。だから、作者の心の動きがわかる。

そんな彼だが、私生活では唐突さやだらしのない面が多々あった。16歳のときには突如、それまで友人の金田一京助と同学だった盛岡尋常中学校をやめ、東京に出た。得意の翻訳家何かで稼ぎながら文学をやろうとしたのかも知れない。しかし、食い詰めて、安下宿の一室で病に倒れてしまい、故郷の渋民村から父親が駆け付けたのだが、宿代を支払った残りの相当額のカネを、宿の女中にあげてしまったそうだ。18歳の時には、今度は文芸誌「明星(みょうじょう)」を主宰する与謝野鉄幹の目にとまっていたのを頼りに2度目の上京をはたすも、再び困窮生活に陥る。東京帝国大学に通っていた京助がやむなく助けてやったという。

それでも、22歳の時、啄木は東京本郷の下宿屋を訪ね、無二の親友と頼む京助と再会し、ここに部屋を借りた。そこで多くの傑作をものにしていく間にも、京助の援助は不可欠のものであったらしい。もっとも、本人は、最初は借りたカネを返す意思をもっていたようで、京助から見ると「稀にみる才能ゆえ、中とか助けてやりたい」ということであったのだろう。

 やがて、東京朝日新聞の校正係に採用された啄木は、本郷弓町に宿を借り、それまで分かれて暮らしていた妻子と母を呼び寄せた。これで何とか落ち着いてよさそうなものだが、年来の不摂生もあってか持病の肺結核が悪化する。駆け付けた京助に、「たのむ」という言葉を残し、26歳の若さで旅立った。

そんな破天荒な文学人生であったのだが、めずらしいところでは、『時代閉塞の現状』なる社会評論を、発表している。
 「蓋(けだ)し、我々明治の靑年が、全く其父兄の手によって造り出された明治新社會の完成の爲に有用な人物となるべく敎育されて来た間に、別に靑年自體の權利を認識し、自発的に自己を主張し始めたのは、誰も知る如く、日清戰爭の結果によって国民全体がその国民的自覚の勃興を示してから間もなくの事であつた。既に自然主義運動の先蹤として一部の間に認められている如く、樗牛(ちょぎゅう)の個人主義が即ちその第一声であった。(中略)
 樗牛の個人主義の破滅の原因は、彼の思想それ自身の中にあった事は言うまでもない。即ち彼には、人間の偉大に関する伝習的迷信が極めて多量に含まれていたと共に、一切の「既成」と青年との間の関係に対する理解が遙かに局限的(日露戰爭以前における日本人の精神的活動があらゆる方面において局限的であった如く)であった。(中略)
 この失敗は何を我々に語っているか。一切の「既成」を其儘にして置いて、その中に、自力を以て我々が我々の天地を新に建設するといふ事は全く不可能だといふ事である。
 かくて我々は期せずして第二の経験ー宗敎的欲求の時代に移った。それはその当時においては前者の反動として認められた。個人意識の勃興が自ら其跳梁に堪へられなくなったのだと批評された。然しそれは正鵠を得ていない。何故なればそのところにはただ方法と目的の場所との差違が有るのみである。自力によって既成の中に自己を主張しようとしたのが、他力によって既成の外に同じ事を成さんとしたまでである。(中略)
 かくて我々の今後の方針は、以上三次の經驗によって略(ほゞ)限定されているのである。即ち我々の理想は最早(もはや)「善」や「美」に対する空想である譯はない。一切の空想を峻拒して、そこに残る唯一つの眞實ー「必要」!これ實に我々が未來に向って求むべき一切である。我々は今最も嚴密に、大膽に、自由に「今日」を硏究して、其處に我々自身にとっての「明日」の必要を發見しなければならぬ。必要は最も確實なる理想である。
 更に、既に我々が我々の理想を發見した時において、それを如何にして如何なる處に求むべきか。「既成」の内(うち)にか、外にか。「既成」を其儘にしてか、しないでか。或は又自力によってか、他力によってか。それはもう言うまでもない。今日の我々は過去の我々ではないのである。從って過去に於ける失敗を再びする筈はないのである。
 文学ー彼(か)の自然主義運動の前半、彼等の「真実の発見と承認とが、「批評」としての刺戟を有(も)っていた時期が過ぎて以來、漸くただの記述、ただの説話に傾いて来ている文学も、斯くてまたその眠れる精神が目を覚して来るのではあるまいか。何故なれば、我々全靑年の心が「明日」を占領した時、其時、「今日」の一切が初めて最も適切なる批評を享(う)くるからである。時代に沒頭していては時代を批評する事が出來ない。私の文學に求める所は批評である。(完)」
 これにあるのは、個人主義になるとか、宗教に傾倒することでは、時代への批評の精神を養うことができない。それができるのは、文学者として社会変革に積極的にかかわっていくことなのだと。

 

(続く)

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